10
あれから一週間が経った。
あの日の翌日を最後に、エリオット様とは顔を合わせていない。
「少し前から体調が優れなくて。万が一にもエリオット様に移すわけにはいきませんので」
暗に「しばらくは会いたくない」ということを伝えるその言葉が嘘だということに、きっとエリオット様は気づいていたと思う。
だって、彼は一瞬傷ついたような表情を浮かべたから。
けれども、エリオット様は私を問いただすようなことはしなかった。
「そうか、ならば仕方がない。体調が治ったら、また教えてほしい」
私の嘘に付き合ってくれたエリオット様は、そう言って柔らかく微笑んだ。
私が〝片想いの相手役〟を引き受けてからほぼ毎日、公衆の面前で私に言い寄り続けてきたエリオット様が、ぱたりと姿を見せなくなったものだから、きっと学園内では様々な噂が飛び交っていることだろう。
しかし今の私は、その噂を耳にして平気でいられる自信がない。
空き時間の度に、初めてエリオット様と言葉を交わしたあの中庭に行っては、一人でひっそりと時間を潰している。
開放感はあるものの、人通りの少ないこの場所は、人目を忍んで過ごすにはうってつけの場所で、ここの存在を知る理由となった〝男爵令嬢リーリエ親衛隊ABCD〟のみなさんに、少しだけ感謝する。
ありがとう、あの時私をこの場に呼び出してくれて。
ちょうどそんなことを考えている時だった。
「お会いできてよかった! ここにいらっしゃると聞いたので……」
背後からいきなり声を掛けられて、身体がびくりと跳ねる。
そのまま声のした方へと視線を向けると、不安そうに瞳を揺らす一人の女子生徒が立っていた。
「あっ、あの! はじめまして! 私、リーリエと申しますっ!」
そう言ってぺこりと頭を下げるのは、間違いなく男爵令嬢リーリエその人で、私の口からは「えっ?」という言葉が漏れる。
先程のリーリエ嬢の発言を鑑みるに、どうやら彼女は私に会うためにわざわざここに来たらしい。
……どうして?
私のそんな困惑の気持ちが伝わってしまったのだろう。リーリエ嬢はわかりやすく眉を下げて、「いきなりごめんなさい」と謝った。
「どうしても、トレス伯爵令嬢にお伝えしたいことがあるんです。今はあまり時間がないので、近々二人きりで話をする機会を設けていただくことはできませんか?」
リーリエ嬢は早口でそう言うと、見えない何かを警戒するようにきょろきょろと周囲を見回した。
「ええ、もちろん構わないわ。今週の放課後であれば、いつでも」
「なら、明日にでもお時間をいただけませんか?」
「いいわよ」
私の答えを聞いて、リーリエ嬢は「本当ですかっ!?」と言って、満面の笑みを浮かべた。
「では明日の放課後、旧校舎の空き教室に来ていただけますか? それほど時間はかからないかと思います」
「わかったわ。では、また明日」
「わあ! ありがとうございますっ!」
リーリエ嬢とは確かに、そんなやりとりをしたはず。
けれども翌日、指定された先にリーリエ嬢はいなかった。
代わりに、私を待ち受けていたのは男爵令嬢リーリエ親衛隊ABCD。
四人いる親衛隊の中でも、一人だけ前に出てこちらを睨み付けているのは、新参者であるはずのダニエルだった。
「どういうつもりだ?」
教室に足を踏み入れた私に、なんの説明もなくそんな言葉が投げ掛けられる。
ダニエルは苛々とした様子を隠そうともしていないが、「どういうつもりだ?」はこちらの台詞だ。
「『どういうつもり』とは? 私はリーリエ嬢とお話をするために、ここに来たのだけれど?」
「誰に許可を取っているんだ?」
「……はい?」
「リーリエに用がある時は、我々に先に話を通すことになっているだろう?」
「ええ……」
さも当たり前とでも言うような顔でそう告げられるものだから、反論する気さえ起きない。
しかし親衛隊ABCDは、これ幸いとばかりに私に噛みついてくる。
「そもそも、こんな人気のない場所にリーリエを呼び出すなんて、何が狙いなんだ?」
「本当に、僕達が事前に気づけたからよかったものの、この場にリーリエが一人で来ていたかと思うとぞっとするよ」
「おおかた、彼女を呼び出して傷つけるつもりだったのでしょう。前回は有耶無耶にされてしまいましたが、さすがに今回は言い逃れできませんよ」
「どうなんだ!? セラフィナ!!」
親衛隊の隊員が順々に私を責め立てたかと思うと、最後にダニエルが怒鳴るように言葉を発する。
そして彼は、その勢いのまま私の手首をぐっと掴んだ。
婚約者だったダニエルには、かつて私が誘拐されかけたことも、それが原因で男性に触れられることが怖いことも、間違いなく伝えていた。
それにもかかわらず、私の手首を捻り潰すつもりなのかと疑いたくなるくらいに、容赦のない力加減だった。
「やっ、やめっ……」
なんとか声を絞り出し、手首を捻ってダニエルの手から逃れようともがく。
しかし、彼の力が弱まることはない。
それどころか、頭上からは「悪事がばれそうだからといって、被害者づらするな!」という怒号が降ってきて、今度こそ身体が硬直してしまう。
その時、不意に彼の姿が思い浮かんだ。
けれども私は、ぶんぶんと頭を振ってその姿を掻き消す。
こちらの身勝手な感情で避けていながら、こんな時にだけ頼ろうとするなんて、許されないような気がしたから。
しかしそうこうしているうちに、事態はどんどんと悪化していく。
「虐めの主犯者として、セラフィナ嬢を先生方に引き渡しましょう」
「それはいいアイディアだ! そうすればリーリエも、我々に感謝してくれるに違いない!」
「よし、ダニエル! そうと決まれば、さっさと連れて行こう」
「まさか自分の元婚約者が、こんなにも卑劣な人間だったなんて……。見抜けなかった自分が情けないよ」
ダニエルはそう言うと、私の手首をぐいと引いた。
必死の思いで足元に力を込めるけれども、男性の力にはまるで歯が立たず、そのままずりずりと廊下に向かって引き摺られる。
その感覚は、かつて誘拐されそうになったあの時とそっくりで、私は頭の中が真っ白になるのを感じた。
…………エリオット様、助けて。
もはやそれ以外のことを、考える余裕はなかった。
お願い、エリオット様。
お願い、助けて。お願い。
心の中で、そう願った瞬間のことだった。
「……何をしているんだ?」
まさしく私が思い描いていたその人が、そんな言葉とともに教室に現れたのだ。
「エ、エリオット様……」
「何をしているのかと聞いている。答えろ」
「ひいっ」
決して大声ではないものの、エリオット様の言葉には相手を震え上がらせるだけの迫力があり、ようやくダニエルの力が緩む。
その隙をついてダニエルの手を振り解き、私は無我夢中でエリオット様に縋りつく。
エリオット様がどんな表情をしているのかはわからないけれど、「もう大丈夫だ」と言うその声を聞いて、そして私の頭を撫でるその手の温かさを感じて、身体から力が抜けるのがわかった。
「遅くなってすまない。怪我はないか?」
「はい、全然。全然、大丈夫です」
「……『全然大丈夫』なわけがないだろう。怖い思いをしたはずだ」
エリオット様はそう言って、私の手首に指を這わせる。
壊れ物に触れるようなその仕草を見て、私はなぜだか泣きそうになった。
そんな中、「公爵令息だからか?」という声が響く。
見れば血走った目をしたダニエルが、私達を物凄い形相で睨みつけている。
「……どういうことだ?」
私をさっと背中に庇いつつ、エリオット様が問い掛ける。
するとダニエルは「ふんっ」と鼻を鳴らした後で、私に向かって「人によって態度を変えやがって」と言った。
「男が苦手だと言って、僕には触れようともしなかったくせに。相手が公爵令息様だと、そうやってしなだれかかるんだな」
ダニエルは苦々しげに顔を歪めると、「はあーあ」とわざとらしく溜息を吐く。
「僕にもそんなふうに頼ってくれたなら、可愛げがあったのに。まあ、それを思うとこれで良かったのかもな。金は取られることになったけど、おまえみたいなのと結婚せずに済んだんだから!」
……目の前の彼は、本当に私が知っているダニエルなのだろうか?
そう疑問に思ってしまうくらいの、人の変わりよう。
しかし呆気にとられる私のことなど目にも入っていないのか、ダニエルの口が止まることはない。
「その点、リーリエは本当に可愛い。貴族社会に慣れていないから、素直に僕を頼ってくれる。見た目の通り、純粋で心も清らかで、まさに僕にとっては理想の女性だ!」
まるで舞台上で台詞を言うかのように、そんなことをつらつらと述べるダニエル。
そんな彼に対して、不敵な笑みを浮かべるエリオット様が「それはどうかな」と言った。
「は?」
「リーリエ嬢が本当に『見た目通り』の人間なのか、君はきちんと確認した方がいい」
エリオット様はそう言うと、扉の向こう側にむかって「入っておいで」と声を掛ける。
その言葉に促されて、おずおずと教室内へと入ってきたのは、話題の中心になっているリーリエ嬢だった。
彼女は居心地が悪そうに身体を縮こませているけれど、その口元は何かを決意しているかのようにきゅっと引き結ばれている。
「リーリエ!? どうして来たんだ? 僕達に任せておけばいいものを!」
「そうです、我々に任せて待っているようにと伝えたではありませんか!」
「君は何もしなくていい。君は、僕達に守られているだけでいいんだから!」
そんなことを言いながら、リーリエ嬢の方へと集まる親衛隊ABCD。
しかし、彼らの過保護すぎる発言を遮ったのは、他ならぬリーリエ嬢だった。
「……私、こんなこと頼んでいません」
「え?」
「私、あなた方にこんなこと頼んでいません! 今日だって、トレス伯爵令嬢には私からお願いして来てもらったんですっ!」
リーリエ嬢に睨みつけられて、親衛隊ABCDは途端におろおろとしだす。
「どうして急に……。なぜ怒っているんだ?」
心底訳がわからないとでも言いたげな様子からしても、まさか彼らは自分達の行動が、リーリエ嬢から拒絶されるものだとは考えてもみなかったのだろう。
「で、ですが、セラフィナ嬢はリーリエを虐めていた相手ですよ。そんな人間に一人で会いに行かせるなんて恐ろしいこと、我々にはできません」
「……私がいつ『トレス伯爵令嬢に虐められている』なんて言いました? 私はむしろ、『私に対するあなた方の距離感はおかしい』とずっと言い続けてきましたよ!?」
怒りに満ちたリーリエ嬢の言葉に、親衛隊ABCDの誰かが「嘘だろ……?」と呟くのが聞こえた。
「だ、だが、『金で爵位を買った家の娘』と謗られたと、言っていたじゃないか!」
「違います! 私は『我が家は爵位をお金で購入したわけですから、それをよく思わない方々がいらっしゃっても仕方がない』と言ったのです! トレス伯爵令嬢の名前を出した覚えはありません!」
「我々とリーリエの関係を『爛れた関係だ』と噂されていると、嘆いていたじゃないか!?」
「そんなことは言っていません! みなさんの距離感がおかしいから、『この距離では我々の関係が誤解されてしまいますよ』と言ったのです!」
「でっ、ですが、教養が足りていないことを思い悩んでいましたよね? 誰かに指摘されたからではないのですか?」
「どうしてそうなるのですか……。私に教養が足りていないのは事実ですし、だからこそ頑張らねばと思うのは、当然のことではありませんか?」
必死で言い返すリーリエ嬢は、もはや泣き出しそうだった。
小さな身体を震わせながら、それでも涙を溢すことなく訴え続ける彼女が、嘘をついているようには到底思えない。
「じゃあ、『セラフィナが僕とリーリエの仲に嫉妬している』というのは……」
「……ダニエル様に婚約者がいらっしゃることは知っていましたので、『私とばかり行動を共にしていては、婚約者様が不快に思われるのでは?』とは言いました。だって私なら、絶対に嫌ですから」
「そんな……」
その悲壮感に満ちたダニエルの呟きを最後に、教室内は静寂に包まれたのだった。
……この人達はきっと、〝リーリエ嬢を悪意から守る自分達〟のことが好きだったんだろうな。
彼らは、リーリエ嬢が好きだったわけでも、リーリエ嬢を守りたかったわけでもない。
口では「リーリエのため」と言いながら、彼らは全員〝リーリエ嬢を守る自分〟が主役の世界を生きていたのだ。
だからリーリエ嬢の言葉も、自分達の都合の良いように、無自覚に書き換えてしまっていたのだろう。
〝理想の自分であろうとする〟。
それ自体が悪いことではないけれど、それを追い求めるばかりに周囲が見えなくなってしまうのは、あまりに本末転倒ではなかろうか。
放心状態ともいうべき親衛隊四人を眺めながら、私はそんなふうに思った。
「……私、見た目から想像される程に良い子ではないんです」
ぽつりと溢されたリーリエ嬢の言葉に、親衛隊ABCDが顔を上げる。
そんな彼らに向かって、リーリエ嬢は力無く笑った。
「いきなり貴族社会に放り込まれて、右も左もわからない中でみなさんに良くしてもらえて、初めは『ラッキー!』と思いました。みなさんの善意を、先に利用しようと考えたのは私なんです」
彼女はそう言うと、こちらに視線を向ける。
私を正面から見据えるリーリエ嬢の視線は力強く、〝騎士が寄ってたかって守らねばならないか弱いお姫様〟には、決して見えなかった。
「自分の狡さを周りに知られるのが怖くて、様々な噂をはっきりと否定することができませんでした。ですが、もっと早くに本当のことを、自分の口からお伝えすべきでしたよね……。本当に、申し訳ありませんでした」
リーリエ嬢はそう言うと、私に向かって深々と頭を下げた。
そんな彼女を前にして、私はようやく〝男爵令嬢リーリエ〟の本当の姿を垣間見たような気がしたのだった。




