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21 大声で叫びたい

 星条旗柄のしのび装束を身にまとった二人の男が、畳の上に正座した斎藤忍の左右に控えている。腕組みした男達の覆面の額当てにはそれぞれ『力』『正義』と、妙に嘘くさいフォントで書かれていた。

「うわあ……」

「夢じゃないでござる。もう一回寝ようとするのはやめるでござる」

 目を覚ました瞬間に眼前に広がった光景が余りにも異常だったので、光はもう一度寝入ろうとしたのだが、それは忍によって阻まれた。

 光は布団の上で身体を起こした。

 六畳程の広さの畳敷きの部屋だった。窓側には勉強机があり――あまり使われている形跡がない――その隣には本棚があった。本棚の上には小さなトロフィーとサッカーボールが置いてある。なぜあんな高い場所にサッカーボールを置いているのだろう。転がり落ちてきたりしないのかな。

「目を逸らさないでほしいでござる」

 忍に促されて正面を見る。

 困り顔の忍の隣には、やはりアメリカンな忍者が二人立っていた。男達は微動だにしない。

 光は頬に貼られた絆創膏の感触を感じながら、ここに至る過程を思い出そうとした。

 イエティ。羽の生えた男。牢獄。結城と名乗る男。ガラス張りのホール。父。恐竜のような化け物。限りなく全裸に近いギャル。そして、黒い巨大なユニコーン。全てが破壊され、最後の記憶は――自分をかばうように抱きついた撫子。

 光は身体に掛けられていたタオルケットを跳ね飛ばして、布団の上に立ち上がった。

「撫子は!?」

 光は泡を食った表情で周囲を見回す。部屋の中にいるのは光と忍――そしてイカれた忍者二人。撫子の姿はどこにもなかった。

「安心するでござる。浅倉殿も拙者達が助けたでござる」

 心配ご無用でござると忍が手のひらを光にかざしてみせた。

 助けたと言われても――と光は思う。そんな状況だっただろうか。あの黒いユニコーンが角から破壊的な光線か何かを出そうとした瞬間に、光の意識は途切れた。建物ごと、その場にいた全員が吹き飛んでしまったとしか思えないが。

「光殿も浅倉殿もほぼ無傷だったでござる。恐らく何らかの力場りきばのようなものが二人を守ったのでござろうな」

「力場?」

「浅倉殿の『巫女』としての力でござろう。光殿と浅倉殿以外の人間は、拙者達とは別の人間が救助していったでござる」

 しれっとした顔で忍は言った。忍の左右の『力』と『正義』は何も言わずに彫像のように固まっている。実際、忍者の形をしたマネキンなのかもしれない。

 光は一度深呼吸をしてから、忍を改めて見た。隣にいる忍者達はいいとして――実際は全くよくないのだが――目の前にいる忍は、光がよく見知った同級生の斎藤忍に間違いなかった。引き締まった大柄な体躯。濃い顔立ち。頭に巻いたペイズリー柄の赤いバンダナ。転校初日に撫子に追いかけ回されている自分を助けてくれた隣のクラスの生徒で、アメリカ東海岸流忍術の使い手で、アイドル研究部部長を務めている。

「――忍は、何者なの?」

「忍者に正体を明かせと言うのは、なかなか酷でござるな」

 冗談めかして言いながら忍が立ち上がる。身長差から、自然と光が見上げるような形になった。忍の表情も格好も普段と何ら変わらない筈なのに、なぜか光は違和感を覚えた。というよりも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と光は思っていた。冷静に考えれば、おかしな人間なのだ、斎藤忍は。それを何故か、当たり前のように受け入れていた。

 撫子がいるから目立たないが、忍はただの高校生にしてはあまりにも身体能力が高い。帰国子女で、古武術にも精通し――今判明した通り、撫子が『巫女』であることも知っていた。

 この男は、いったい何なのだ。

「光殿には特別に教えてあげるでござる――拙者は大恩ある浅倉一族のために太平洋を渡ってやってきたアメリカ東海岸流忍術の伝承者にして北アメリカ忍軍にんぐんの首領、斎藤さいとう破天郎はてんろうしのぶ。そして、この二人は北アメリカ忍軍の誇る精鋭『パワー』と『正義ジャスティス』。二人共もういいでござるよ」

 『力』と『正義』は声を揃えて「おう」と言うと、普通に入口のふすまを開けて部屋の外に出ていった。巨漢二人が階段を降りるドスドスという音が遠ざかっていく。別に忍術で出たり消えたりはしないようだった。

「わかったでござるか?」

「いや、わからなさがすごい」

 大恩ある浅倉一族。北アメリカ忍軍首領。『力』と『正義』。疑問がより深まっただけだった。

「かつて拙者の御先祖は、浅倉殿の御先祖に命を救われたでござる。そこから我々斎藤一族の忍びの道は始まったでござるよ。以来、我々一族は浅倉一族に恩を返すことを宿願として、これまで技を磨き続けてきたでござる。ニューヨークを根拠地にして、全米各地を転々としながら忍術教室を開講し、強い忍を育ててきたでござる。全ては浅倉一族の力となるため」

 忍はそのために――浅倉一族の力となるために――日本に来たということなのだろうか。浅倉一族への恩返しのため、正体を偽って岩田屋高校に潜入し、アイドル研究部部長の仮面をつけて撫子に接近した――

 呆気にとられる光を見て、忍は苦笑した。

「力となるために来たでござるが、今回のアレは、ちょっと我々の力ではどうしようもないでござる」

 アレというのはユニコーンのことだろう。

「拙者と『力』『正義』の力を以てしても、光殿と浅倉殿を助け出すので精一杯だったでござる」

 それは仕方のないことだろう。あの黒いユニコーンは神様なのだ。迫水という男が――父が、浜岡ミハネを再生するために作り上げた、人造の神様だ。

 ユニコーンのひづめに叩き潰される父の姿を思い出すと、胸にぽっかりと空いた穴の存在が意識された。処理しきれない感情が、虫のように穴の中から這い出てくる。光はそれを振り払って忍に言った。

「わかった――いや、わからないけど、とりあえず、わかった。助けてくれてありがとう、忍。それで、撫子はどこにいるの」

 忍は撫子も助けたと言った。だが、彼女の姿は見えない。別の部屋で休んでいるのだろうか。

 光の言葉を聞いた忍は、スゥと息を吐き出して光の目を見つめ返した。その目は今まで見たことがない温度をしていた。

 忍がこんなにも冷たい目で光を見たことなど、これまで一度もなかっただろう。

「浅倉殿に『言うな』と言われているでござる。拙者は浅倉殿と約束したでござる」

 忍の言葉のトーンは、その視線と同じ程度にえとしていた。忍が放つ空気に気圧されて、光は思わず口籠った。

 だが、撫子がわざわざ忍に口止めをしたということは、光に知られたくない場所に行ったということだ。または、光に知られたくないことをしようとしているか。

「頼むよ忍」

 忍の調子が変わった理由は分からない。だが、それを追求するよりも、光は早く次の行動に移りたかった。撫子が無茶をしようとするなら、それを止めなければならない。

 忍は光の懇願を鼻で笑うと口元を歪めた。

「だったら無理矢理口を割らせてみるでござるよ」

 挑発的な内容だったが、声はどこか冷静だった。忍は値踏みするように光のことを見ている。忍は光を試そうとしているかのようだった。

「無理矢理って――そんなことをする理由がないよ」

 胸の中に沸き起こった小さな苛立ちを押し殺して光は答えた。ここで忍とじゃれている時間はないのだ。撫子の元に一刻も早く行きたい。

 そんな内心の声が、言葉と表情から伝わったのだろう。

 忍は舌打ちをすると声を荒らげた。

「そっちになくたってこっちにはあるんだよ!」

 光は出会い頭に犬と出会った野良猫のように身体を硬直させた。

 そんな光を見た忍は、バツが悪そうに「…でござるよ」と付け加えた。

 二人の間に重苦しい沈黙が流れる。

 何なんだよ、これは――

 光は段々と怒りが湧いてきた。無理矢理口を割らせろというなら、やってやろうじゃないか――そんな好戦的な気持ちがフツフツと込み上げてくる。

 光は右手の拳を固く握りしめた。

 それを見た忍の雰囲気が変わる。姿勢を変えないまま重心を下に落として、相手の攻撃を迎撃する態勢を整えた。そして僅かだが、足のスタンスを広げた。忍の目つきが変わる。忍は本気で光とやり合おうとしている。

 何のために。

 ――人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえでござるよ――

 あれは、忍と稲妻いなずま禽観とりみ神社じんじゃの石段で話したときだったか。

 撫子のことを好きなのではないかと光が問うた時、忍はそう言ったのだった。

 なにが「拙者は二人の行く末を特等席で見守らせてもらうでござるよ」だ。

 本当は、未練たらたらだったんじゃないか。

「殴ってこないでござるか。光殿は腰抜けでござるか」

 見え透いた挑発。

「そんな腰抜けが、浅倉撫子の隣で何ができる――でござる」

 キャラも何もかも、めちゃくちゃになっている。忍は腹の底に確かな怒りをたぎらせているようだった。一族の宿願――それだけの話ではないだろう。

 忍は撫子に本気で惚れていた。だからこそ、無力な光が撫子のパートナーであることが我慢ならないということか。

 光は考える。

 今ここで、忍に殴り掛かったとして、それが何になるというのだろう。恐らく光は忍に負けるだろう。腕力で勝てるとは到底思えない。屈辱的に床に這わされる自分を想像する。

 だが、それがどうした。

 忍に負けたからといって、自分の撫子に対する思いが揺らぐとは一ミリたりとも思えない。それだけの確固たるものが、光という人間の中には存在しているのだ。そう考えた時に、光の中に生まれた忍に対する敵愾心の芽は、急速に萎えていった。

 握った拳を意識する。これで殴打すれば――当たればの話だが――忍を傷つけるだろう。撫子への思いを盾にして、そんなことをするのは嫌だった。それをしてしまえば、自分は父と同じになってしまうと光は思った。

「忍、確かに僕は無力かもしれない。でも、僕は撫子の隣にいたいんだ。これは強さの問題じゃない。気持ちの話だし、それ以外の話じゃないんだ」

 光は拳から力を抜いた。

 忍はそれを見て泣き笑いのような顔をした。

「殴ってすらもらえないというのも、つらいでござるよ光殿――」

 ごめん忍、と光は謝罪の言葉を口の中で噛み殺した。声に出して言ってしまえば、この男の心を愚弄することになると光は思ったのだ。馬に蹴られて死んじまったほうがいいのは、きっと自分のほうだ。でも、ここは譲れない。たとえ相手が友達であっても。光は口元に力を込めて、表情を引き締めた。そうしなければ、泣いてしまいそうだった。

 と、そこで。

 ばたーんという間抜けな音を立てて押入のふすまが倒れ、うわあああああと叫びながら人が転がり出てくる。声の主は顔面を畳の床にしこたまぶつけると、尻を天井に突き出すような姿勢で硬直した。

「――シュウ?」

 押入の上段から落下したらしいシュウは身体を起こすと、床にぶつけた顔面をさすりながら光と忍を交互に見た。シュウは嘆息すると、半眼になって二人に告げた。

「お前らな、俺のこと馬鹿だと思ってるだろ。でもな、お前らの方が馬鹿だからな。非常時に青春してんじゃねえよ」

「何をやってたでござるか? そんなところで」

 実際、心底馬鹿にしたような目つきで忍が言った。

「お前がここに入ってろって言ったんだろ!! っていうかここはそもそも俺の部屋だよ!! 俺の!!」

 バンバンとシュウが畳を叩く。

 確かに、部屋の隅にはシュウがいつも使っているバッグが転がっていた。どうやらここは本当にシュウの部屋らしい。

「――まったく、突然走り出して浅倉と光がいなくなったときは何がどうなってるのかと思ったよ。その後はとんでもない嵐になっちまうし」

 シュウが言っているのは、『岩田屋にくにくフェスティバル』の現場で光が拉致されたときのことだろう。萬守湖の湖岸で、光はあの羽の生えた男にさらわれたのだ。その後撫子は、アイドル研究部の面々の元には戻らず行動していたらしい。

「すげー心配したんだぜ。そこら中で道は冠水してるし、風で屋根が吹っ飛んでる家もあるし。もしかしたら二人は事故か何かに巻き込まれたんじゃないかって。それぞれ家に帰ってからも、何かできることはないかってグループラインで話してたんだ」

「――ごめん、シュウ」

 撫子のことばかり考えるあまり、アイドル研究部の面々がどんな気持ちでいたのかについては、光はまるで目を向けていなかった。残された三人が、行方知れずになった光と撫子をどれだけ心配していたのか。今、忍とシュウを前にして、周回遅れの申し訳なさが光の胸に去来していた。

「謝らなくていいよ。お前と浅倉は大変なことになってたんだろ? ほんと、普通じゃねえ二人だなとは思ってたけど――いや、忍も普通じゃねえから三人か――俺なんかには理解できないところで、とんでもない出来事にまきこまれてたんだな」

 シュウは光の前に歩み寄った。拳を作り、それを光の胸にぐっと押し付ける。

「お前が寝てる間に忍がいろいろ解説してくれたけど、正直、俺にはUMAだとか『巫女』だとか、そういうことはよくわからないよ。でもな、ここを出ていったときの浅倉の顔と、今さっきの光の言葉を聞いてわかった」

 シュウは光の目をじっと見つめると、声に力を込めた。

「光、お前は浅倉のところに行かなきゃいけない。浅倉も光に来て欲しいと思ってる。そうだろ、忍?」

 忍は言葉に詰まっている。そんな忍にシュウが呆れ声で告げる。

「お前なぁ、好きな女との約束と男同士の友情、どっちが大切なんだよ」

「いや、それは結構悩むんじゃないかな」

 ぼそりと光が言うが、それはスルーされた。

「浅倉殿が行ったのは、稲妻禽観神社でござる」

 観念したという表情で忍がうめいた。

「浅倉殿は『危ないことはしない』と言っていたでござる。それは要するに――――」

 何か危険なことをするということだ。忍の声は悔しさに満ちていた。本当は撫子に帯同したかったのだろう。しかし、それを断られてこの場に残されたのだ。忍はどんな気持ちで彼女を見送ったのだろう。それを考えると胸が痛んだ。

 稲妻禽観神社。皆でダンスの練習をしていた場所であり、撫子の実家のお隣さんでもある。光は神社の拝殿に寝転んで見た、あの天井絵のことを思い出していた。稲光を背景にして飛ぶ、巨大な鷲の姿。撫子が稲妻禽観神社で何をしようとしているのかは分からないが、それはきっと、あの絵に描かれている存在と関係があるに違いないと光は思った。

「表に俺のチャリが止めてあるから使えよ。鍵の番号は――」

 そこでシュウがぴたりと止まる。

11072(いいオナニー)だ」

 赤面しながらシュウが言った。

「何を言ってるでござるか? この非常時に」

「うるせえよ!! 俺も後悔してるよ!! そんな番号にしたこと!!」

 光は思わず吹き出した。

 とめどなく笑いが込み上げてくる――()()()()()()。最初はくっくっくっと引きつるような笑いだったが、こらえきれずに声に出して笑い始めると、もう止まらなかった。

 きょとんと光を見ていた忍とシュウも、光につられて笑い始める。

「いや、さっさと行けよ」

 光の口を借りて、『もう一人の自分』が久しぶりに口を利いた。それは暴言と言うよりは的確なツッコミだったが。

「そうだな、暴言野郎。俺もそう思うぜ」

 シュウが光の背中を叩く。忍も同じように背中を叩く。こちらは随分と力一杯だった。

「浅倉殿を頼んだでござるよ、光殿」

 忍がにっと笑う。それは先程までとは違う、いつもの忍の表情だった。

 光は二人の言葉に無言で頷いた。

「絶対二人で帰ってこいよ――まだ俺達のステージは、始まってないんだからよ」

 そうだ、あんなに練習した『走れ!』をまだどこにも披露していないのだ。

 シュウからもらったミサンガは、千切れずにまだ光の腕に巻かれていた。見れば、シュウの腕にも、忍の腕にもミサンガはあった。きっと、澄乃と撫子の腕にもあるはずだ。

「岩田屋高校アイドル研究部で、文化祭のステージに出るでござる。浅倉殿は光殿が説得するでござるよ」

 光は苦笑した。それは責任重大だ。「絶対嫌よ!」と絶叫する撫子が目に浮かぶようだった。でもきっと最後は「仕方ないわね」と言ってくれるはずだ。

 光は最後に、最悪の事態について触れておくことにした。具体的になにがどうなるかは分からないが、あの黒いユニコーンが暴れ出せばこの町が灰燼かいじんに帰すことは確実だ。

「忍はわかってると思うけど――もしかしたら、この町全体に何かとんでもなく危ないことが起こるかもしれない。その時は僕達のことはいいから、親しい人と一緒にこの町から避難してほしい」

 忍は深く頷くと胸を張った。

「光殿と浅倉殿に、心配は掛けないでござるよ。何かあったら北アメリカ忍軍が総力を挙げて対応するでござる」

 光は忍の言葉を信じようと思った。

「ありがとう、二人共――じゃあ、行ってくる」

 言葉にした瞬間、光の心に火が入った。背筋がピンと伸びて、足先まで力がみなぎるようだった。光は背中に忍とシュウの視線を感じながら、襖を開けて部屋を飛び出していった。二人から託されたもの、受け取った思いを胸に、光は階段を駆け下りる。

 スニーカーをつっかけて玄関を開けると、外は夜闇に包まれていた。

 相変わらずの嵐だった。神様が岩田屋をまるごと水の底に沈めてしまおうとしているかのようだった。そしてそれは今や、比喩でもなんでもない。

 横殴りの雨が玄関前に停めてる自転車を濡らしていた。「11072(いいオナニー)」で後輪のチェーンロックを外して、ハンドルに引っ掛ける。電池式のライトをつけると、頼りない灯りが前方を照らした。光は自転車にまたがると力強く漕ぎ始めた。

 闇の中、自転車は加速していく。

 そこら中の水田や水路があふれかえり、道路はあちこち冠水していた。電灯が全くついていない家も多い。もしかすると停電しているのかもしれない。この蒸し暑い夜に停電なんて最悪だろうなと、ずぶ濡れの光は思う。

 足を動かす。前に進む。身体から湧き出る力を前方への推進力に変えていく。

 ペダルを蹴ると、頭の中に渦巻いている様々な思いが、シンプルな形に整理されていくような気がした。

 撫子はきっとあの黒いユニコーンと戦おうとしている。戦って勝てる相手とは思えないが、撫子には何か手があるのかもしれない。あの巨大なエメラ・ントゥカを倒したように、撫子には特別な力がある。迫水は確かそれを「UMAからのフィードバック」と言っていた。『巫女』としての能力で、UMAから力を借りることができるということなのだろうか。

 里菜や結城は今どこで何をしているのだろう。忍は自分達以外の人間が救助したと言っていた。もしかすると撫子は、里菜達と合流するつもりなのか。

 考えたところで、何もはっきりとしたことは分からない。

 ――でも、光に、そばで見ていてほしい――私の本当の姿――

 エメラ・ントゥカを倒す前に撫子が口にした言葉が光の耳によみがえった。

 見ていてほしいと言ったのだ、撫子は。だから光には、彼女を傍で見守る義務がある。そう思った刹那、光の脳裏に暗闇に沈んだ稲妻禽観神社の石段の光景が浮かび上がった。もしかすると撫子が見ている景色なのかもしれない。

 撫子との間にある、この不思議な繋がりの正体も光にはよくわからない。『ボラード』だとか『よすが』だとか、そんなことを迫水らが言っていたが。

 何もかも全て、撫子に会って確かめればいいことだ。

 水たまりを裂き、飛沫しぶきをあげて自転車は進む。光の鼓動はどんどん速くなる。角を曲がると見知った道に出た。ここから神社までなら、10分と掛かるまい。

 遠くに視線をやったところで闇に包まれているばかりで何もわからないが、光は自然とダム湖のある方角を見つめていた。黒い海のような水田の彼方に、影絵のように山並みが続いている。ダムはその向こう側にあるはずだった。

 あのユニコーンは今どうなっているのだろう。

  迫水が――父が生み出した神様の偽物。

 控えめに言っても大怪獣だ。あの角から放つ光線でひと撫ですれば、こんな小さな町はあっという間に焼き尽くされてしまうに違いない。

 何も知らなかったことにしてもいいのだろう。

 何も見なかったことにして、この街から逃げ出してしまっても。

 しかしそれは、父から逃げているようで嫌だった。

 光はあの黒いユニコーンと向き合わなければならないと強く思った。家族がやったことの責任を取りたい――そんな思いとは少し違う。光はただ、あの怪物を無視してこの町を去りたくないのだ。この思いに名前を付けるなら「けりを付けたい」ということになるのだろうか。

 なにより、撫子がこの町に留まるなら、光は彼女の隣にいなければならない。

 「お前には何の価値もない」と迫水は言った。

 その瞬間に落ちた奈落の底から、撫子が救い出してくれた。

 それは光にとって闇に差し込む一筋の光であり、天から垂らされた蜘蛛の糸だった。

 そうやって撫子という名の一本の糸が、光という存在を吊り下げてくれていると思っていたのだが、どうやら思った以上にたくさんの糸が絡みついて、自分を支えてくれているらしい。シュウも忍も、光の帰りを待ってくれている。

 どこにも居場所がないと思っていた自分が、この岩田屋という町で居場所を見つけられたのだ。

 自転車のペダルに全てを叩きつけるように漕ぐ。

 光は、自分に何ができるのかなんて分からなかった。それでも撫子の隣に立って、同じ景色を見たいと思ったのだ。

 エメラ・ントゥカと戦う前に撫子が告げた言葉の続きを、光は思い出していた。

 ――光は私の、大事な人だから――

 そう言ってくれた撫子に、自分はまだ、ちゃんとした言葉を返すことができていない。

 光は大声で言いたかった。

 撫子、君は僕の世界で一番大事な人だ。

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