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20 ファム・ファタール

「いつもお手紙、ありがとうございます」

 それは、初めて言葉を交わしたときの記憶だった。そこにいたのは紛れもなく地上に舞い降りた天使だった。


◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「だ、誰!?」

 グイグイと身体を近づけてくる女性から後ずさりしながら光は叫んだ。日焼けした肌。脱色されたロングの金髪。丸出しになったいろんな部分が()()()()()()揺れていて、目のやり場に困る。

 目の前で人間が撃ち殺された――撃ち殺したのはこの女だが――動揺も相まって、光の心臓は、胸の真ん中で跳ね回った。

「え、ひどない? 撫子のお姉ちゃんやのに!」

 ぶーと金髪女性が口を尖らせる。この人が撫子のお姉ちゃん――?

 金髪女性は全裸ではなかった。限りなく裸っぽく見えるだけで、実際は透明な全身スーツのようなものを着用しているようだった。胸のトップと股間の部分の生地は厚手になっているのか、ぼかしが効いていた。デザインした人間の正気を疑いたい。手の肘から先と足の膝から先は硬質な素材で覆われているが、各関節の動きを阻害しないように、そこだけいくつかのパーツに分割されている。だから先程は右手の拳銃を発砲できたという訳だ。

「里菜さんと面識があったんじゃないの?」

 隣で撫子が目を白黒させている。

「別の人と勘違いしてたみたい」

 光はてっきりあの馬頭観音の前で出会った女性が里菜だと思っていた。

 よくよく見れば、この金髪女性の顔立ちはあの空野有にどことなく似ている。どうやら本当に撫子のお姉ちゃんということらしい。

「うちと勘違いするって、どんな女か逆に気になるわ」

「もっと、こう、知的な感じの――」

「それ、遠回しにうちがアホっぽいって言ってる? ひどない? ひどない?」

 イタズラっぽい笑顔を浮かべた金髪女――本物の里菜――はぺろっと舌を出した。光は思わず自分の髪をかきむしった。調子が狂う。

「生きてたんですね――」

 結城は少し涙ぐんでいるように見えた。

「言うたやろ。うちはめっちゃ強いって」

 あれ? 言わんかったっけ? と里菜はケラケラ笑った。

 恐らく里菜は、外で羽男と戦闘を繰り広げていたということなのだろう。最後の力を振り絞って羽男は撫子達の元に辿り着いたが、追い掛けてきた里菜にトドメを刺されたのだ。

 里菜は既に半分白い泡と化していた羽男の死体を躊躇ためらわずまたいで、迫水の正面に立った。

 軽い調子から一転して、鋭利な視線を飛ばしながら里菜は拳銃を構えた。

「――で、こっちが悪の親玉か。悪そうな顔しとるなー」

 拳銃の狙いは迫水の眉間。まったくブレなく銃口は静止している。

「光くんの自称・父親だそうです」

 結城が横から補足する。

「自称? 複雑な家庭の事情を感じるけど、突っ込んでええところなん?」

 里菜は迫水から視線を外さない。

 迫水は里菜の視線を受け止めて、押し黙っている。

 光は迫水が――父が――今何を思っているのだろうかと思いを巡らせた。迫水が頼みにしていた味方は、恐らく全てやられてしまった。別の改造人間とやらが駆けつけてくる様子もなければ、エメラ・ントゥカのような怪物がまた出てくる気配もない。迫水は一人になってしまった。

 光が黙っているのを父親に対する抗議と取ったのか、里菜が軽口を叩く。

「嫌われとるやんか。死んでも喪主は務めてくれへんのちゃう?」

 迫水はただ、里菜が口を開くのを不愉快そうに見ている。

「ま、なんでもええわ。連れて行った『巫女』を解放してもらおうか。大人しく言うこと聞いてくれたら遺言ぐらいは聞いたる。なんか話好きそうやし、動機とか喋りたいやろ。死ぬ前に」 

「それはもう里菜さんが来る前にやりました」

 ぽつりとまた結城が補足する。

「マジで!? 聞き逃したやんか!!」

 心底残念そうに里菜が叫んだ。

 キリンジは直立不動で里菜の横に立っている。それは何を命令されても即実行できるような姿勢に見えた。恐らく二人には上下関係があるのだろうと光は感じた。

 現れてから数分で、里菜を中心に場が回り始めていた。里菜は太陽のような存在感で周囲の空気を我がものとしている。この女には生来のリーダー気質のようなものがあるのだろう。ガラスのドームの外は相変わらず暴風雨が吹き荒れているが、里菜がいるこの場所だけは明るくなったかのようだった。

 光の胸には安堵感が広がっていた。迫水以外の敵は全て退けられ、撫子は無事で、頼もしい味方もいる。生きて帰れるかもしれない――

 光の身体の緊張がゆっくりと解けていく。隣の撫子を見ると、撫子の表情も穏やかなものになっていた。もっともこれは強者故の余裕というものなのだろうが。

「――解放も何も、『巫女』ならそこに立っているだろう」

 沈黙を守っていた迫水が口を開く。顎を動かして、背後のガラスを指した。

 全員の視線が集中する。

 ガラス壁の外、鉄柵の向こう側に白い服を着た女性がこちらに背中を向けて立っていた。

「アイ!!」

 結城が声をあげた。

「アイ!! 俺だ!! アイ!!」

 女性の後ろ姿に向かって、結城が呼びかける。悲痛さと歓喜が混じったその声は、今まで結城の口から聞いたどの声よりもエネルギーに満ちていた。結城は思わず女性の方に走り出そうとするが、それは里菜が手で制した。

 苛立ちと呆れを孕んだ声で、里菜は迫水に問いかけた。

「んで、結局自分――何がしたいねん」

 里菜は猫のように目を細め、片手だけで拳銃を構えている。

「さっきから――物騒なものをこちらに向けないでくれないか」

「質問に答えろ」

 里菜の声から温度が消え失せる。

 迫水はフンと鼻を鳴らした。

「神の獣を現出させ、その『奇跡』の力をもって望みを叶える――それだけだ」

 それは光が聞いた説明の通りだった。

 神の力を持ったUMAを出現させ、その『奇跡』の力で棺の中の浜岡美羽の肉体に、生前の記憶を呼び戻す。それが迫水の望みだった。

「よーわかったわ――――死んでくれ」

 にべもなかった。 

 残酷な結論だけを叩きつけて、里菜は拳銃のトリガーを引こうとした。

 だが――

「これは、あの『巫女』の首にセットした爆薬の起爆スイッチだ。私がこのまま指を離せば爆発する。しかるべき操作を行えば爆発しない」

 迫水の右手には、小さな筒状の装置があった。親指が筒の上部にあるボタンを押し込んでいる。それを見て里菜は動きを止めていた。迫水と里菜以外の全員に、戦慄が走る。

「お前はアホか? 野望のかなめを人質にしてどうすんねん。撫子が大人しく代わりを務めてくれるなんて、思わんほうがええで」

 淡々と里菜は告げる。

「死ねば望みなどどうでもよくなる。お前が撃てば私は死に、同時に『巫女』も死ぬ。それで全て終わりだな」

 迫水は静かな微笑を浮かべた。光は唾を飲み込んだ。迫水の瞳に、母親の話をしていたときと同じ、狂気の気配があったからだ。

「最高やんか。それで全部解決や」

 言葉の内容ほど里菜の声は明るくない。その理由を、

「彼はそう思っていないようだぞ――」

と、迫水が告げた。

「銃を下ろしてください、里菜さん」

 結城が拳銃を里菜に突きつけていた。震える両手でグリップを握り、真横から里菜の頭部を狙っている。

「――うちに銃を突きつけたんは褒めたる。だから銃を下ろすんや、結城」

 里菜は落ち着いていた。視線を迫水から逸らすことなく、結城に呼びかける。

 姉のような優しい声にも聞こえたし、教師のような厳粛な声にも聞こえた。

「里菜さん、頼む――」

 消え入るような声だった。結城は歯を食いしばり、唇を震わせた。

「その距離で当てられるか? 安全装置も外れてへんのとちゃうか?」

 里菜の声が結城を追い詰めていく。どちらが銃口を突きつけられているのか分からない。

 それでも結城は銃を下ろさなかった。

 下ろさない理由があったのだ。

 暗雲に覆われた窓の外、雨ざらしでたたずむ栗色の髪の女性の後ろ姿。

 その存在が、結城の腕をギリギリのところで支えていた。

 撫子とキリンジは、里菜の次の行動を待っていた。彼らは里菜がこの場を切り抜ける方法を見つけると信じているようだった。誰の命も損なわず、切り抜ける方法を。

 自分は、自分はどうする――

「随分困っているようだな、星野里菜」

 迫水の口から悪魔の声。

 里菜はうっすらと笑みを作った。

 彼女の中にある葛藤がそこに見え隠れした。

「この町は――岩田屋は『魔のカーブ』や」

 里菜の声は誰に向けてのものだっただろう。

「いつも誰かが事故っとる――」

 ガラスの壁も天井も、戦闘の中でそこかしこが破られ、そこから雨が降り込んでいた。

 床に散ったガラス片には、里菜の姿が映っていた。いや、里菜だけではない。キリンジも、撫子も、光も、結城も、迫水も――

 無数の像が、さまざまな角度で浮かび上がる。

 光の足元のガラスに映った、里菜の皮肉な笑み。その表情に応えるように、迫水が言った。

「――お前もその一人だろう?」

 誰もが葛藤を抱えている。逃れられない運命に巻き込まれ、ひたすらあがいているのだ。

 沈黙を破ったのは、外から響く音楽だった。

 「遠き山に日は落ちて」だった。

 それは午後六時を告げる町内放送だった。山間やまあいに設置された幾つものスピーカーから流れ出した音楽が、微妙に干渉し合いながら鳴り響く。

 ノイズ混じりの残響を残して、音楽は終わった。

「タイムアップだな」

 迫水がぽつりと呟いた。同時に肩の力を抜いたようだった。

「タイムアップって何や」

 結局里菜の銃口は、一秒も迫水の眉間から狙いを外さなかった。迫水はそんな里菜の鉄の意志を目の当たりにしても、特段の反応も示さない。

「質問に答えろ」

 横からはまだ結城の銃口が里菜を狙っているのだが、そちらにはまったく視線を向けないまま、里菜は詰問する。

 ここで光は気がついた。里菜は待っているのだ。結城が正確に拳銃を保持できなくなる瞬間を。金属製の殺人武器は、そのコンパクトな見た目に反して決して軽くはない。

 迫水は里菜を無視して撫子に語り掛けた。

「浅倉撫子――先程は見事だったよ。適性に優れた『巫女』と『ボラード』との強固なリンクがあれば、UMAからのフィードバックさえ得られるということだな。UMAハイブリッドの改造人間は、君のような存在を理想に作られたのだろう。比べるのも哀れなほど、彼らはお粗末だが」

 何の話?と撫子が眉をしかめる。心底残念がるような表情で迫水が続ける。

「本当は君を使いたかったよ。最初に描いていた計画通りにね。だが、時間切れらしい。君と岩田屋の神の結びつきも、想像以上に強いようだしな」

 ()()()()()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()

 全員がそのことに気付いた瞬間だった。

 雨が止んだ。

 ずっと降り続いていた豪雨が、ぴたりと止んでいた。

 垂れ込めた雲が晴れたわけではない。空は相変わらず錆びた鉄色の雲で、シャッターが下ろされている。

 風も止んだ。

 空気が張り詰めていた。

 大きな()()が、現れようとしている。

 ダム湖を取り囲む谷間から、カラスの群れが一斉に飛び立った。

「来るぞ――神獣の卵だ」

 迫水の声が合図だったわけではあるまい。

 だが、その言葉が終わると同時に、光達がいる工場兼研究所の直下にあるダム湖の湖面が破裂した。周囲の山々を遥かに超える高さの水柱が上がり、衝撃波がガラス壁を揺らした。

「アイ!」

 結城が絶叫する。外に立っている女性は、力なく柵にもたれかかりながら、なんとかその場に留まっていた。

 その女性の向こう側を見ると――巨大な物体が宙に浮かんでいた。

 恐らく先程の爆発と共に、ダム湖の底から浮上してきたのだろう。

 今いる場所がいったい何階建ての建物なのかはわからないが、そこからでも見上げなければならない程大きい。それは50メートルはありそう漆黒の球体だった。

「彼女を『巫女』として、儀式を始める」

 迫水は光達を見回すと、神官のようにうやうやしく宣言した。

 光は迫水が背にしている真っ黒な球体から目が離せない。まるで夜の闇を凝縮したようなその物体は、よく見るとゆっくりと回転しているようだった。それには人の目を魅了する魔的な魅力があった。

 里菜が舌打ちをする。

「神獣の域に達したUMAを野に放って何の意味があんねん!」

 切迫したその声を、迫水はどうということもなく受け流す。

「野に放つ? 馬鹿を言え。私がどうやってエメラ・ントゥカを従えていたと思っている」

 迫水はわらった。

 その白目は濁り、血走り――

「――ソロモンの指輪か!」

 忌々(いまいま)しげに里菜が吐き捨てた。

 よく見ると、迫水の右目に金色に輝く光があった。

 黒い瞳の中に、リング状の物体が埋まっている。

「その通り。君達のボスである沖田総一郎も血眼ちまなこになって探していた逸品だ」

 形勢が傾いていく。敵を蹴散らして得た筈のこちらの優位は、仮初かりそめのものでしかなかった。迫水はただ、時間が経過するのを待っていたのだ。実際のところ『巫女』など、どちらでもよかったということなのだろう。

 黒いUMAの卵は悠々と回転を続ける。

 その中にいる神の獣を抱いて。

「この指輪の力を用いれば、どんな動物とでも言葉をかわすことができ、どんな強大な魔神であっても使役することができる――まさに伝説の通りだよ。もともとは地下大陸から流出したモノの一つだろうがな」

 迫水はその道具の力を使って、この巨大な卵から孵るUMAを従えようというのか。

 文字通り、足場が揺らいだ。卵を中心にして起こる巨大な力の渦が、光達がいる建物を土台から揺さぶっていた。卵の状態でこのプレッシャーなのだ。いったい何が産まれるのかは想像もつかないが、あのエメラ・ントゥカなど問題にならない程、強大な存在に違いないと光は確信した。

 光はこれまでにない胸騒ぎを覚えた。

 それは破壊と死の予兆だった。

 誰もが金縛りにあったように動けない。どうすればこの状況を止められるのか。光は一縷いちるの望みに賭けて、口を開いた。

「父さん――」

 初めて口にした「父さん」という言葉。肉親の情など今更かもしれないが、それでも可能性にすがり付く。だが、迫水は光の弱々しい声を聞いて、口の端を大きく歪めた。そこにあったのは、高みに立って弱者を見下ろす強者の愉悦だけだった。

「私とミハネの新世界に、お前の居場所はない」 そして迫水は、目を見開き哄笑こうしょうする。黒い断崖が光と迫水の足元に現れるのが見えた。もう決して結ばれることのない親と子の繋がりの破片が、その断崖の深くに落ちて消えていった。

 もう、終わったのだ。

 撫子がそばにいることで和らいでいた絶望が、再び光の胸に去来していた。それは闇の中で、誰にも名前を呼ばれない孤独。もやいを解かれて海に流される小舟のような寂寥せきりょう感。渇ききった悲しみの中で、涙すら流れなかった。

 本物のみなしごとなった光は静かな失意の中で、それでも次に自分にできることを探した。

 隣に立つ撫子が、怒り狂って迫水を見ている。光を傷つける存在に対して憤りを露わにしている。撫子は今にも迫水に飛び掛かりそうだった。

 そんな撫子が隣にいてくれるのだから、生きることは諦められない。目の前に立つ、この邪悪な男を倒す方法を見つけなければならなかった。

 光はポケットに手を入れた。そこにはエメラ・ントゥカとの戦いの最中に手にしたガラス片が入っていた。巨獣の眼球に突き立てようとしていたものだった。光はそれを取り出す。鋭い先端は、人間の皮膚なら容易たやすく切り裂きそうだった。

 光はガラス片を右手で握りしめた。

 脳内はクリアだった。

 誰にも期待されていない自分。今こうやってガラス片を握ったことも、誰にも気づかれていないだろう。そんな全員の意識の外から。

 光は歩み出ると、そのままガラス片の先端を結城の左胸に勢いよく突き刺した。

「えっ?」

 結城が間の抜けた声をあげてその場に崩れ落ちるのと、迫水に突きつけていた里菜の拳銃が火を吹くのは同時だった。乾いた破裂音の後、結城の手から滑り落ちた拳銃が地面に落下した。遅れて結城も床に倒れる。

 光は里菜の射撃の腕に全てを賭けたのだ。

 里菜なら迫水がスイッチから指を離す前にその眉間を撃ち抜いてくれる。そして、撫子かキリンジが、スイッチから迫水の指が離れる前に、それを受け止めて起爆を阻止してくれるはずだと。そう信じた。

 そして、里菜、撫子、キリンジの三人も、光が動いた瞬間に同じビジョンを共有していた。

 しかし――

「この距離で外すとは、らしくないんじゃないか」

 里菜の銃弾は、迫水のこめかみをかすめて背後のガラスに穴を開けただけだった。

 里菜自身が、一番信じられないという表情だった。

「その対UMAスーツ、何時間も身につけていられるものじゃないだろう。訓練を受けた軍人でさえ連続使用の上限は、たったの一時間だ」

 もう限界ではないのかねと迫水が嘲笑あざわらう。

 里菜の両目から、真っ赤な血の涙が流れ出ていた。

「――根性が違うんや! 一般人とはな!」

 続けて発砲するが、迫水を捉えることはできなかった。光は、結城の左胸――()()()()()()()()()()()()()()()()――に突き立てていたガラス片を握り直し、力いっぱい迫水に向かって投げつけた。これも明後日の方向に飛んでいっただけだった。かすりもしない。我に返った結城も足元の拳銃を拾い上げて――

「もう遅い」

 迫水は持っていた筒状のスイッチを投げ捨てた。爆発が起こらなかったのは、全てがブラフだったからなのか、起爆装置をオフにしたからなのかは分からなかった。

 迫水は振り返り、背後に浮かぶ巨大な黒い卵を見上げた。

「――神の獣の誕生だ」

 卵がひび割れる音は、世界そのものに亀裂が入ったような音だった。黒い殻が、内部からの衝撃によって砕けていく。

 球体の天頂部に、巨大な一本の角(ユニコーン)が出現した。

 次の瞬間、空をつんざくような轟音が響き渡った。巨大な金属塊をこすり合わせるような、何かの断末魔の悲鳴のようなその音。

 終末の音アポカリプティックサウンドは、ユニコーンの産声だった。

 全ての殻が砕けて湖面に落下し、巨大な――余りにも巨大な――馬のシルエットが姿を現す。

「デカすぎる」

 キリンジの呆然とした呟きが聞こえた。

 これが、神の獣。

「やれ!!!! 守田ァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!」

 里菜が絶叫した。

 その時、その場に彼女の咆哮の意味を理解できた人間は一人もいなかった。


◇◆◇◆◇◆◇◆


 それは伏兵だった。

 里菜が切り札として温存していた戦力だった。()()()()を叩き込むために、武器を手にしたまま、ずっと里菜達の後を追っていた男。

 豪雨の中、山肌に張り付くように潜伏し続けてきた守田もりたひろしは、偽装のためのギリースーツを脱ぎ捨てて銀縁眼鏡をクイッと上げた。

 そして、懐に抱えるように保持していた自分の背丈ほどある槍を、中世の騎士が身につける籠手ガントレットのようなものを装着した右手で、しっかりと握り直した。

「――勇次ゆうじがいないなら、俺がやるしかないってか」

 守田は木々が生い茂った山肌を駆け下りる。下草に足を取られそうになりながらも止まらずに足を動かす。それはもはや滑落しているのではないかというスピードだった。

 昨日から続いていた雨が止んでいる。

 守田は見上げる。

 この世の終わりのような音と共に巨大な球体を割って現れたのは、一本角を持つ四本脚の怪物だった。

 山のような大きさの漆黒のユニコーンが宙に浮いている。

 肌が粟立つ。あれは本物の神様だと、本能が告げている。

「姿を見せた瞬間を狙って、絶対仕留め損なうな――か。軽く言ってくれるなぁ」

 皮肉っぽい笑みを浮かべた守田は、斜面の途中にあった岩を蹴って空に舞った。

 次の瞬間、男の身体は赤い光に包まれる。

 光が収まったときには、男の身体はまたギリースーツを着直したのかと思うほど、深い緑色の毛に覆われていた。

 全身を濃緑の毛に覆われた獣人。

 首から上はなく、隆々とした筋肉で盛り上がったその胸に、巨大な目のような器官が見える。その瞳は真紅だった。

 腕は途中から羽に変わっている。それは昆虫とコウモリの中間のような羽だった。

 守田はモスマンへの変身を終えた。

 モスマンは甲高い声で咆哮した。

()を持ったモス()()……これは面白い! あずきちゃんなら先回りして蹴りでツッコミを入れて来そうだな!」

 モスはどこに消えたのよ!と。

 守田は槍を手にしたまま羽ばたき、上空に舞い上がる。ユニコーンを見下ろす高度まで一気に上昇する。

 羽を動かすのを止め、落下が始まるその一瞬、守田は右手の槍を構えた。

 モスマンとなった守田の体重は軽く100キロを超える。その巨体を浮かび上がらせるのは、その発達した胸筋から生み出されるパワーのみ。

 その力の全てを、槍の投擲とうてきに利用する。

 槍の先端の黒いカバーが砕ける。

 絶縁体が無くなり、空気に触れた得物の先端が、極彩色の光を放つ。

 励起状態になったその武器は弾けるような音と共に、周囲にプラズマ光を放出した。

 守田は全身に力を込めた。

 槍を握った右手の篭手が、木っ端微塵に砕けた。モスマンの無い筈の顔が、苦痛に歪む。手のひらが焼ける音が響く。

「――――痛えッッッ!! でもなぁ、この町が消えたら困るヤツが、いっぱいいるんだよ!!」

 守田の脳裏をよぎったのは、家族と仲間の顔だった。

 馬鹿みたいに上昇したから、岩田屋の景色がよく見える。

 ――あそこに見えるの、岩田屋高校か。

 何故か、制服を着た勇次あいかたの仏頂面を思い出す。

「お前の顔が走馬灯なんてゴメンだぜ――うおおおおおおおおおあああああああ!!!!」

 モスマンは自由落下しながら、ユニコーンに向かって槍を思い切り投げ放った。

 槍は光を撒き散らしながら、目にも止まらぬ速度で頭上からユニコーンを襲った。


◇◆◇◆◇◆◇◆


 ユニコーンの額にそびえる、その禍々(まがまが)しい角がチカッと発光した。

 瞬きすら挟めない程のタイムラグの後、ユニコーンの頭上で、巨大な爆発が起こった。

 花火なんてものではない。もし地上だったら、山の一つでも消し飛びそうな光と音と衝撃だった。光は反射的に首を引っ込めたが、白い光に視力を奪われ――

 建物が倒壊するのではないかと思う程の揺れと破壊音で床に這いつくばらされた光が視力を取り戻したのは、爆発から何秒後だっただろう。

 気が付けば里菜の小麦色の尻が目の前にあった。

 床に伏せた光、撫子、結城をかばうように、里菜が手足を大の字に広げて立っていた。

「インフィニット・アンチ・リバース――人工的に再現したU()M()A()()()()。その投擲による攻撃がお前たちの切り札か。完全に顕現する前に潰すという算段だったのだろうが――まあ、残念だったな」

 迫水は何事もなかったかのように、先程と同じ場所に立っていた。挑発的な笑みで里菜を見ている。

 一体全体何が起こったのかは分からないが、どうやら味方の誰かが遠距離からあのユニコーンを攻撃し――そして失敗したらしい。

 光の位置から里菜の表情は分からない。

 だが、その沈黙が意味するところは伝わってきた。

 万策尽きたのだ。

 迫水の背後にいた黒いユニコーンが、その巨大なシルエットを山肌に着地させた。重厚な着地音は振動となって山間全体に轟いた。ユニコーンは木々を薙ぎ倒しながら、こちらに近付いてくるようだった。

「見たら駄目!」

 隣でしゃがみ込んでいた撫子が、何かに気付いたように叫んだ。

「さすが『巫女』、よくご存知で。だが見てのとおりまだ外殻さえ不安定でね、目撃者に『烙印』を刻める程の確固たる情報構造は持ち合わせていないんだよ」

 肩をすくめる迫水の後ろに、黒いユニコーンがその巨大な顔をヌッと覗かせた。建物の横に立った状態で、頭部がここまで届くのだ。

 光は思わず悲鳴を漏らした。

 そこには目も鼻も口もなかった。ただ、不定形の黒い肉が、渦巻く粘土のようにカタチを変え続けていた。

 ユニコーンの首から上で、確固たる形状を保っているのはその長い角だけだった。

 この巨大なUMAには、まだ顔がない。

 見続ければ精神に異常を来しそうなその不定形の肉の塊は、存在しない眼球で人間たちをじっと見ていた。

 光は叫びだしたくなった。

 ユニコーンはその鼻先――といっても鼻はないのだが――を、柵にひっかかるように倒れている『巫女』の女性に近づけていた。

 光の隣にいた結城の身体が、バネじかけの玩具のように立ち上がった。

「彼女が気に入ったようだな。本来は処女にしかなつかないユニコーンが、娼婦に懐くというのも面白い話だ。なあ、結城君」

 結城は走り出していた。迫水の戯言などまるで耳に入っていないかのようだった。

「アイ! 戻れ!」

 走りながら叫ぶ。

「聞こえないのか! アイ!」

 破れたガラスの穴から身を乗り出し、柵の向こうの『巫女』に手を差し伸べる。

 求婚する男のように、結城は『巫女』の手を取ろうとした。涙声で名前を呼び続ける。

「帰ろうアイ! 俺達の部屋に!」

 だが『巫女』はそちらに振り返ろうとせず、柵から手を離してユニコーンの顔と対峙した。

 女の後ろ姿に、結城の手はどうしても届かない。

「――アイ!!!!」

 そして『巫女』は、ユニコーンの顔面の肉の渦に身を投げた。

 時間が静止する。

 糸の切れた操り人形のように、結城の身体が崩れ落ちる。

「撫子、光、うちの後ろに回れ!」

 里菜が声を荒らげた。

 ――撫子と光は、まだ里菜の後ろにいるというのに。

 そこで結城は気付いた。里菜はもう、意識を失っている。ただ子供達を守ろうとする本能だけが、里菜の口を動かしたのだ。魂が抜けたように、里菜の身体はその場にくずおれた。

「せめて貴様だけは地獄へ行けえええッ!」

 光の視界の外から、キリンジがエメラ・ントゥカを倒した時のように両脚を黄金色に輝かせながら迫水に突進した。

 しかし、ユニコーンの角がフラッシュを焚くように光ったかと思うと、キリンジの身体は紙くずのように丸められて逆側の壁まで吹き飛ばされ、そのまま壁を破って落下していった。

 迫水がそれを見てぷっと噴き出す。

 ――――終わった。

 諦観が光の心に穴を空ける。

 撫子も唇を震わせて立ち尽くしている。

 そんな二人の前で、ユニコーンは変態を遂げようとしていた。

 肉の塊でしかなかった頭部に、顔が成型されていく。美しい鼻筋を持った、黒い馬の顔だった。

 額の角が輝いたかと思うと、ユニコーンの背後にあったダム湖の湖面が爆発した。力が溢れて止まらないとでも言いたいのか。

 ユニコーンを中心にして、再び暴風雨が吹き荒れ始める。

「なんという力だ! まさに神の獣!」

 迫水は半狂乱だった。

 譫言うわごとのように、すごいすごいぞと繰り返しながら、その両手をユニコーンへと掲げる。

「さあ、ユニコーンよ! その『奇跡』の力で私とミハネの未来を祝福せよ!」

 迫水の右目が金色に輝いていた。その目に埋め込まれたソロモンの指輪が光を放っているのだ。どんな魔神をも従える力を持つというその指輪。

 光の眼前で、父親の野望が成就しようとしていた。

「無理だな。あんな小道具では」

 唐突に光の口から滑り出たのは『もう一人の自分』の声だった。隣にいた撫子がぎょっとしたように光に視線を向ける。光は口をパクパクさせて首を振った。

 戸惑う光に構わず、その口から声は漏れ続ける。意思に反して口だけが動き続ける気味悪さに光はゾッとする。

「ソロモンの指輪――人間がそう呼んでいるあれは、外部からUMAをコントロールできる装置であることは間違いない」

 牢屋で雪男と会話をしたと思ったら、今度はよく分からない指輪について話し始めるなんて――今はそんな驚きより、その話した内容に意識が持っていかれた。

 こいつは一体、何が言いたいのだ。

「今あのユニコーンには、人間が混じっている」

 光は雷に打たれたように、呼吸を止めて硬直した。『もう一人の自分』が何を言いたいのかが分かったのだ。

 光はユニコーンの方を見た。

 黒い獣は、透明な棺にすがりつく迫水をただ見下ろしていた。

 光は無宗教な人間だった。だから神様がどんなものかなんて考えたこともなかった。

 しかし、今あの黒い巨大なユニコーンを見て分かった。

 神とは力だ。

 そして、運命そのものだ。

 光は撫子の手を握った。少しひんやりとしたその感触。撫子の細い指に、自分の指を絡めた。撫子の手首の赤いミサンガが揺れる。撫子は驚くでもなく光の行動を受け入れていた。

「ミハネ! やっと会えるよ! もう二度と離さない! どんな結末も僕が書き換えてやる! さあ、行こう!」

 迫水は棺の中の浜岡ミハネに、涙ながらに話し掛けていた。光は胸を締め付けられるような思いでそれを見ていた。

 父にとっての運命の女(ファム・ファタール)が母だったのだ。狂気に侵されてでも再会したかった、たった一人の存在が。

 光にも、今ならその気持ちが分かる。

 その思いが伝わったからか、撫子がぎゅっと光の手を握り返した。

「父さん!」

 光の声は、迫水の耳には届かなかった。迫水は棺の中から目を離さない。棺の中にいるのは、いつだって死者だというのに。

 瓦礫のチャペルを黒い神が見守る。

 ここは結婚式場だった。

 迫水の右目から、金色の涙が流れていた。

 しかし、そのソロモンの指輪(エンゲージリング)には――

 人間の混じったUMAを、コントロールする力はない。

 ユニコーンの角が虹色に輝いた。

 迫水がユニコーンを仰ぎ見る。

 そして、全てを悟ったのだろう。

 迫水は運命に裏切られた男の顔になった。

「――父さん!」

 ユニコーンがいななく。

 その巨体を反らせて、長い前脚を大きく振り上げる。

 最愛の人を庇うように棺の上に覆いかぶさった迫水の上に、巨大なひづめが無慈悲に振り下ろされた。床を抜き、建物ごと崩壊させかねないその一撃は、光の目の前で父と母の姿を粉砕した。

 漆黒のユニコーンは角を振り回すと再び嘶いた。

 撫子が光の身体を強く抱きしめた。

 ユニコーンの角から放たれた暴力的な光と衝撃の渦の中で、そのあたたかい感触だけが――――


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