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16 名前のない気持ちが終わる日

 ――――そして。

 「ごめんなさい」と言った時の彼女の表情を、自分はきっと生涯忘れることができないだろうと思った。


◇◆◇◆◇◆◇◆


「走れ! 走れ! 走れー!」

 『走れ!』の最後のワンフレーズが境内に木霊こだまし、本番前の最後の練習が終わった。

 今日は、『岩田屋にくにくフェスティバル』の前日だった。

 天を仰ぐ者、膝に手をやる者、ただその場に立ち尽くす者――アイドル研究部の面々は、それぞれ最後の瞬間を噛み締めているようだった。

「――やり切ったでござる」

 忍はトレードマークのバンダナを外し、汗で濡れた髪をかき上げた。いつになく真剣な眼差しの奥には、炎のような熱いものが灯っていた。

「拙者は嬉しいでござる。こうやってみんなとステージに立てるのは、一生の思い出でご……ざ……うううう」

「泣くのがはええよ! まだ始まってねえだろ!」

 突然号泣し始めた忍に、シュウが笑いながらツッコミを入れた。

 アイドル研究部の部長として、忍にはきっと見えない重圧があったのだろう。泣き虫かよ、と言いながら、シュウが忍の背中をよしよしとさすっている。忍の鼻からずるっと鼻水が一本、漫画のように流れた。

「私は撫子がこんなに楽しそうにしてるのを久しぶりに見たよ。まだ本番は始まってないけど……本当にアイドル研究部に入ってよかった」

 澄乃は両手で撫子の手を包み込むと、ぎゅっと握った。

「澄乃……」

「笑顔ももう、ばっちりだね」

 光はその言葉を聞いて心臓が止まりそうになった。

「――そうね」

 撫子は曖昧な表情で頷くと、何かに思いを馳せるように目を閉じた。

 光も撫子に釣られて目を閉じる。まぶたの裏に、昨日見た場面が、苦々しい痛みと共に断片的によみがえった。

 ――記憶の中にあるのは、怯えと失望を孕んだ撫子の黒い瞳。

 光は見えない何かで喉を締め付けられているような息苦しさを覚えた。

「衣装はそれぞれ持って帰って、忘れず明日持ってくるでござる! 集合時間は――」

 気を取り直した忍が、明日の話を始めたその時だった。

 光は最初、それがただの耳鳴りだと思ったのだが――

 突然、今まで聞いたこともないような異音が空から降り注いだ。巨大な金属と金属を無理やりこすり付けたような、あるいは教会の鐘を千個同時に鳴らしたような、そんな音だった。

 あまりにも不吉なその響きに、五人はその場で立ち尽くした。

「なんだよこれ……」

 シュウが空を見上げてポツリと呟く。

 木々の隙間から見える空は雲一つなく、ただただ青かった。

「多分、飛行機ではないでござる」

 忍はキョロキョロと辺りを見回していた。

「澄乃――」

 撫子は、光がこれまで見たこともない程険しい表情で、澄乃に目配せをしていた。澄乃も同じように深刻そうな表情で撫子を見つめると、無言で頷いた。

 二人はこの音に何か心当たりがあるのだろうか。

「ねえ、撫子」

 光が口を開くが――

 撫子は光と一瞬だけ目を合わせると、露骨に首を振って目を逸らした。長い髪がふわりと揺れる。

 光は胸を鋭い刃物で刺されたような錯覚を覚えた。

 無貌の獣たちが作り出す絶望は、大切に思うものがあればあるほど、その深さを増す。

 それは、光がこれまでの人生で積み重ねてきた経験則であり、同時にこれから先の人生の方向を決定づける道標のようなものだった。

 自分はこうやって失い続けるのだろう――全てを。

「おい、光。ちょっと便所付き合えよ」

 帰り際にシュウが言った。

 石段の下で二人になったタイミングだった。忍と女子二人は、明日のことについて話し込んでいる。『にくフェス』の運営から送られてきた更衣室の場所についてのメールを三人で確認していた。

 光とシュウは、駐車場の隅にあるトイレに向かった。

 古びた小さなトイレだが、一応男子トイレと女子トイレに分かれている。光とシュウは、二つ並んで設置された小便器の前にそれぞれ立った。目線の位置にある小窓からは、鬱蒼とした裏手の山の茂みが見えた。金木犀の香りの芳香剤が強烈だった。

「光、浅倉と何かあっただろ」

 シュウはこちらを見ることもなく、突然爆弾を放り込んできた。

 光は無言になってしまったが、それがシュウには答えとして伝わっていた。

「やっぱりな。浅倉のやつ、いつもは口を開けばヒカルヒカルなのに、今日は全然だから怪しいと思ったんだよ。踊ってる最中もびっくりするほど笑顔だしな。で、いったい何があったんだよ」

「――ちょっとね」

 昨日の出来事をありのまま話すわけにもいかず、光は言葉を濁した。

「もしかして告白したのか? それとも、もっと先に進んだとか?」

 シュウは軽い調子で言ってくる。

「いや、そんなんじゃないよ。昨日、居残り練習の時、僕が撫子にちょっとひどいこと言っちゃって――」

「おいおいおいおいマジかよ。本番前日だぜ」

 シュウは目を丸くし、あんぐりと口を開けて光を見た。

「で、喧嘩してそこから仲直りか? だから浅倉があんなに笑顔だったのか? やっぱ仲直りっていいんだな。ウチの兄貴も言ってたけど、仲直りしてからする――いや、この話はやめとこう。下ネタだし」

「いや、喧嘩も仲直りもしてないよ。撫子が笑顔だった理由も分からない」

 というよりも、撫子のさっきまでの表情が、光の目には笑顔には見えなかった。

 あの表情はきっと、本当の表情を隠すための仮面だ。

 幼馴染の澄乃でさえ違和感を覚えなかったようだが、光には撫子が完全に表情を失っているようにしか思えなかった。細めた目も、上がった口角も、本心を隠すためのバリアのようだった。

 もっともそれは、昨日の出来事があるから光にはそう思えるだけなのかもしれないのだが。

「なるほどな。まあ、結果として笑顔だからいいんじゃねえかな。うん。どんな言葉がどんな風に働くかなんて、他の人間には分からなかったりするし」

 シュウは納得いかない様子だったが、一応そんな風に結論づけた。

 光もその考えに乗っかってしまいたかった。

 結果として笑顔なんだからそれでOK――ということにして、全てを水に流したかった。

 だが、そうではないのだ。

 光の言葉はきっと、撫子を大きく傷つけたのだから。

 便器の前に立ったというのに、結局何も出ないまま光はトイレを後にした。

 いつもより早目の解散だったため、光が帰宅したのはまだ明るい時間帯だった。

 この部屋を自分の部屋だと感じられる日は来るのだろうか。

 そんなことを思いながら、光は自室のベッドに倒れ込んだ。寝返りを打つと、写真立てに収まった母親の写真と目が合った。岩田屋高校の制服を着た浜岡美羽が、自信なさげな表情でこちらを見ている。

 母親はどんな気持ちでこの町を去ったのだろう。

 そして、行った先には何があったのだろう。

 光は仰向けになると、身をよじってポケットからスマホを取り出した。

 画面を点灯し、動画が入ったフォルダを漁る。そこには練習の時に撮影した動画が多く残されていた。その一つをなんとなく再生してみると、まだ振り付けをよく覚えていなかった頃の撫子が、探り探り身体を動かしていた。曲が進むとだんだん乗ってきたのか、楽しそうに踊り始める。細い手足が空間に線を描くように躍動し、長い黒髪が羽のように舞った。そんな撫子の前で、油の切れた機械のようにバタバタしていた光が豪快にミスをした瞬間、撫子は太陽のような笑顔を見せた。

 光はいたたまれない気持ちになって、動画の再生を止めた。

 さらにフォルダの日付を遡っていく。

 指を走らせ、動画フォルダの最下層付近まで一気にスライドする。

 そこにあったのは、母親の――浜岡ミハネの――ライブ動画だった。何年か前にVHSからキャプチャしたものだ。サムネイルをタップすると、フリルのついた衣装を着た浜岡ミハネがスポットライトを浴びている動画が再生され始めた。

 アイドル冬の時代に咲いた花は、ゆっくりと身体を揺すりながら、笑顔でハンドマイクを持ち、その美声を響かせた。

 その表情は写真立ての浜岡美羽とはまるで違っていた。

 岩田屋町で産まれた浜岡美羽という少女は、ステージの上にその居場所を見つけることができたのだろう。

 光はスマホの画面を消灯した。

 黒い液晶画面に、自分の顔が映った。

 仏頂面の自分と目が合う。

「――お前は誰だ」

 光は画面の中の自分に話し掛けた。

「――お前は誰だ」

 繰り返す。

「――お前は、誰だ」

 自分の中に居る、『もう一人の自分』を呼び出そうとする。

 しかし、何の反応もない。

「僕が死ねば、お前も死ぬんじゃないのか」

 脅し文句としては三流も良いところだろうが、同時に純粋な疑問でもあった。

「僕を追い詰めて何がしたいんだ。僕を殺したいのか?」

 思わずスマホを握る手に力が入る。

「だとしたら大成功だ。僕は今人生で一番死にたいんだからな」

 黒い鏡の世界にいる自分が、にやりと笑った気がした。


◇◆◇◆◇◆◇◆


 『岩田屋にくにくフェスティバル』当日は朝から快晴だった。会場である萬守湖水辺プラザ周辺に近づいてくると、開場時間はまだまだ先だというのに駐車場に向かう車が長蛇の列を作っていた。光はそれを横目で見ながら自転車を押して歩いていた。

 アイドル研究部のメンバーとは現地で落ち合うことになっている。

 けたたましいセミの合唱を聞きながら焼けたアスファルトを歩いていると、体中から汗が噴き出してくる。朝からこれだと先が思いやられる。自分たちがステージに立つ頃は、ちょうど最高気温になるぐらいだろうか。

 公園のゲート横の駐輪場に自転車を停め、待ち合わせ場所である運営本部テント前に向かっていると。

「うわ! 浜岡光じゃねえか!」

 Tシャツの上にビブスを着た男に声を掛けられた。

「そういう君は――えーと、誰だっけ」

 見覚えのある顔なのは確実だった。もしかするとクラスメイトかもしれない。だとしたら失礼なことを言ってしまったことになる。

「俺は六原ろくはら尚之なおゆきだよ……って名乗る暇もなくぶっ飛ばされたんだけどな、浅倉撫子に」

「ああ、あの時の」

 声を掛けてきた男――六原は、光が転校してきた初日に絡んできたヤンキーの一人だった。撫子の掌底を食らって昏倒して運ばれていった男子生徒だ。

 あのときとは髪型も髪色も違っていたので分からなかったのだ。今の六原は赤みがかったピンクの髪をツーブロックにしている。夏休みだから派手にしているのだろう。

「六原君は何をやってるの?」

「見て分からねえのかよ、列整理のバイトだよ。おっかねえ先輩に人手が足りねえから来いって言われて」

 六原の額には玉のような汗が浮かんでいた。

「なんか不思議な感じ」

 校内ではアウトローな雰囲気を醸し出していたが、ここではただのアルバイトの若者だった。その落差が光には面白く感じられた。

「不思議でもなんでもねえよ。金がなきゃ遊べねえしな。そういう浜岡は何やってるんだよ」

 光はアイドル研究部のことを掻い摘んで説明した。

「浅倉がアイドル!? なんだそれこわ…… いや、別に何も文句は言わねえけどよ」

 メンバーに撫子が入っていることが、六原には衝撃だったらしい。まるで撫子本人に睨まれたかのように、六原は身体を縮み上がらせた。青ざめた顔をぶるぶると震わせる。

「やっぱり撫子のことが怖いの?」

 その態度を見る限り、聞くまでもなさそうではあったが。

 六原は舌打ちをして当たり前だろと言うと、そうだなと呟いて考えを巡らせ始めた。

「あー、なんていうかよ、俺達には俺達で、誰が強いとか誰が弱いとか、そういうところの機微があんだよ。誰の後輩だとか、誰の先輩だとか。そういうよ」

 六原は自分の中の考えを整理するように言った。

「で、あいつはそういうのを完全に無視した存在だからよ。ある意味、俺等の天敵みたいなもんだな。一人だけ別の漫画なんだよ、強さの質が。中学時代はあいつのことみんなで『自然災害』って呼んでたからな」

 別の漫画――というのは面白い表現だった。確かに、撫子の強さは周囲とは次元が違うように思われた。ヤンキー漫画の中に、超能力バトル漫画のキャラが混ざっているようなものだ。出会ったら最期――ということだろう。

 六原は額の汗を腕で拭うと、皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「――でもな、お前ら気をつけろよ。結局暴力ってのは、上には上があるからよ。浅倉撫子が俺等をまるで相手にしなかったように、浅倉撫子をまるで相手にしない暴力みたいなものが、この世界にはあるのかもしれねえ」

 それは六原なりの強がりだった。決して自分たちの力では勝てない撫子に、呪いじみた言葉をぶつけて溜飲を下げようとしたのかもしれない。

 それだけ言うと、じゃあなと六原は仕事に戻っていった。

 浅倉撫子を超える暴力。光にはそれをイメージすることができなかった。光自身が例の特異体質のおかげで、撫子の暴力に直接(さら)されることがないからだろうか。

 頭の中に撫子の姿を思い描く。だが、想像の中の撫子はいつものように「何よ」と言うこともなく、静かな目でこちらを見ているだけだった。

 妄想を振り払って歩みを進めると――

「おい、光! おせーぞ!」

 テントの前に立っているシュウが、笑顔でブンブンと手を振っていた。既に他のメンバーは到着している様子だった。光が最後の一人だったのだ。

「まだ待ち合わせの時間の20分前だよ!」

 光が小走りで近づいていくと、忍がサムズアップして朗らかに言った。

「これでアイドル研究部、全員集合でござる!」

「ついに本番だね! 緊張する〜! なでなでも緊張してる?」

 澄乃が武者震いのような真似をして、隣にいる撫子の肩に手をやった。

「当たり前でしょ!」

 撫子はイタズラっぽい笑みを浮かべて澄乃の頬をふにふにと軽く摘んだ。

 撫子はいつもと変わらない。むしろ上機嫌にすら見えた。

 だが、光と目が合った瞬間。

「――」

 撫子の瞳は怯えるように小刻みに震えた。そして、撫子はぷいとそっぽを向き、光を視界から排除した。

 光は何も言うことができず、唇を噛んで足元を見た。全て自分に責任がある。撫子を責めることはできない。だが、余りにも辛い状況であることは間違いなかった。

 ――いや、待てよ。

 今日のステージさえ終われば、撫子と毎日のように顔を合わせることもなくなる。そうなれば今のこの苦しみからは解放されるのだ。

 この瞬間、光の心に開き直りに近いポジティブさが生まれた。今日という日をやり過ごしてしまえばいいのだ。そうすれば――

「やっほー浅倉さん」

 甘ったるく忌々しい声が聞こえて光は振り返った。

 そこには新美芽生が立っていた。軽蔑するような視線を一瞬光に向けた後、新美は親しげな笑顔を撫子に向けた。その裏側にある撫子への敵意は巧妙に隠されている。

「新美さんもアイドルコンテスト?」

 何も知らない撫子は、新美に微笑み掛けた。

「アイドルコンテスト? 私はダンス部として出演よ」

 新美はぷっと笑うと肩をすくめた。

「私みたいなブスには、アイドルなんて無理だからね」

 慎ましい言葉とは裏腹に、その視線にはこちらを揶揄するニュアンスが含まれていた。アイドル研究部の面々を見回し、新美はぺろっと舌を出した。

「ま、頑張ってね。応援してるから」

 撫子の言った「ありがとう」も聞かず、新美は走り去っていった。その先には、ダンス部員らしき一団がいる。「なんだよあの態度」とシュウが憤った。

 折角の晴れ舞台だというのに、出鼻を挫かれたような雰囲気になってしまった。

 それを察したのか、忍は右手で拳を作り、胸の前で左の掌にバシッと叩きつけた。背筋を伸ばし、ふぅと息を吐き出す。

「ここは一発、気合を入れるでござる」

「気合?」

 澄乃が疑問符を浮かべる。

「そうでござる、今から円陣を組むでござるよ」

「いいねえ、それっぽいじゃねえか。その前に作ってきたコレ、渡しとかねぇとな」

 シュウは嬉しそうにポケットに手を突っ込むと、五本の撚り紐を取り出した。それは手作りのミサンガだった。ポルトガル発祥の、ある種のお守りのようなものだ。スポーツ選手がよく付けている。

「これって手首に巻くのよね?」

 撫子がシュウの手元を覗き込む。

「そうだな、手首がいいと思う。サッカー部の頃はソックスの下に隠れるように足首に巻いてたんだ。試合中は装飾品を付けるのは禁止だからな」

「なるほどね」

 撫子は赤いミサンガを手に取った。続いて澄乃は黄色のミサンガに手を伸ばす。シュウは紫色、忍はピンク色、そして光は緑色を。これは、それぞれの衣装の色でもあった。

「これって巻く時に願掛けするんだよね?」

 澄乃は器用に自分の左手首にミサンガを結びつけた。

「願掛けの内容は決まってるでござる」

 忍も左手首に結んでいる。それを見たシュウも左手首にミサンガを結び始めた。

 これはどっちに付けるものなんだろう――と思っていたら、撫子は右手に結びつけていた。撫子の細い手首に赤いミサンガが揺れる。

 光も撫子に倣って右手に結ぶことにした。が、生来の不器用さが発揮されたのか、なかなか結ぶことができない。四苦八苦していると、

「もう、見てられないわね」

と撫子が光の手からミサンガを奪い取った。唐突な接近に光は呼吸が止まりそうになる。撫子は光と目を合わせることなく、緑色のミサンガを光の左手首に手早く結びつけた。

「あ、ありがとう」

 光が礼を言っても、撫子はこちらを見なかった。

 二人の間に流れる微妙な空気に気付いた残りの三人は顔を見合わせる。

 もしかすると、これが最後の会話のチャンスかもしれないと光は思った。

「撫子はどんな願掛けしたの?」

 先程の澄乃の言葉を思い出して、反射的に口にした言葉だった。

 撫子はそれを聞くと、はあ?と眉をひそめた。

「決まってるでしょ、ステージの成功よ」

 それ以外何があるのよ、と撫子は溜息を吐いた。 

「そ、そりゃそうだよね、ごめん」

 たったそれだけのやりとりで、光と撫子の最後の会話――暫定だが――は終わった。 

 このままだとズルズルとテンションが下がりかねない。そんな不穏な空気を打ち払うように忍が咳払いをした。

「では、円陣を組むでござる」

 忍に促されて五人は円陣を組んだ。時計回りに忍、光、シュウ、澄乃、撫子。全員でぐっと顔を近づける。光は撫子の顔がすぐ近くにあるというのに、自分の爪先を見つめることしかできなかった。

「ここはみんなで心を一つにするでござるよ。掛け声は『岩田屋高校アイドル研究部GO!』にするでござる。拙者が――『いいいいいいいわたやこーこーあいどるけんきゅぶうぅぅぅぅぅーーーーーー!!!!!!』」

「ご、ごー!」

 澄乃が慌てて言った。

「――って言ったらみんなが『GO!』って言うでござる。痛いでござる立花殿、脛を蹴らないで欲しいでござる」

「こういうお約束ができるって、逆に凄いぜ立花さん」

 シュウが笑った。それに釣られて忍と澄乃も笑い、最後に撫子の笑い声も聞こえた。光だけが上手く笑えなかった。

「斎藤君、次、それやったらもう帰るからね」

「立花殿に帰られたらステージにならないでござる。では、一発でキメるでござるよ――皆の衆、ようござんすか?」

 忍が鋭い声音で言った。ぴりっとした緊張感が漂い、五人の心臓の鼓動が一つになる。

「岩田屋高校アイドル研究部ーー!!」

「「「GO!!」」」」


◇◆◇◆◇◆◇◆


「――――で、まさかの豪雨でござるよ」

 冷めた牛串をもぐもぐと口に運びながら忍が言った。

「げ、雨雲レーダーが真っ赤だよ」

 シュウがスマホで天気予報アプリを見ながら言った。

 数分前からバケツをひっくり返したような雨が、控室代わりのポップアップテントの屋根を叩き続けている。とんでもないゲリラ豪雨だった。

 時刻は午後四時。『岩田屋にくにくフェスティバル』は開場からすでに六時間が経過していた。天候急変のため午後一時から続いていたステージイベントは現在全て中断されている。

「こちらは―—『岩田屋にくにくフェスティバル実行委員会』です——ただいま会場上空に雨雲が接近しております―—隣接する体育館を開放いたしますので―—来場者の皆さまは避難してください——繰り返しご連絡いたします―———ただいま会場上空に―—」 

 園内放送用のスピーカーからアナウンスが繰り返し流される。

 ステージ衣装――パーソナルカラーのTシャツと、ネット通販で買ったミニスカートとパニエを組み合わせて澄乃が手作りしたものだ――を着た撫子と澄乃は、不安げな表情でテントの外の風景を眺めていた。

 大粒の雨の中、来場者たちが大騒ぎしながら体育館へ避難しようとしていた。

 撫子と澄乃は時々互いの耳元で何か言葉を囁き合っているが、光には何の話をしているのか聞き取れなかった。

「あんたら何やってるの!?」

 テントに顔を突っ込んできたのは新美だった。

「何って――ステージ再開を待ってるでござるよ」

 忍が当然だろうという口ぶりで言った。

「馬鹿じゃないの!? 線状降水帯が出来てんのよ? さっさと体育館に避難しないと帰れなくなるわよ」

 新美は既に雨に打たれてびしょ濡れだった。ダンス部のTシャツが身体に張り付いて妙に艶めかしい。

「――ステージは?」

 撫子がぽつりと呟く。

「そんなの全部中止に決まってるでしょ!」

 吐き捨てるように言うと、新美は走り去っていった。人混みに紛れてすぐにその姿は見えなくなった。

 沈黙がテントの中を支配していた。その間にも雨脚はどんどん強くなる。

「――我々も避難するでござるか」

 忍が言ったのは、部長としての責任感からだろう。その無念そうな声を聞いたシュウが、悔しそうにかぶりを振った。撫子と澄乃は――

 光が二人に目をやった瞬間、撫子はテントを飛び出していった。そして全員があっけにとられている間に、撫子は人の流れをかき分けてその姿を消した。

 一瞬の空白の時間があった。

 全員が金縛りにあったかのように動けなかった。

 再び時間が動き出した時にはもう、光は駆け出していた。

 暗雲に覆われた空からは矢のように雨が降り注ぎ、避難する人々が濁流のように目の前を通過していく。光はその流れに逆らって進んだ。前から来る人間と何度も肩がぶつかり、舌打ちをされる。正面からぶつかった男に「馬鹿野郎!」と怒鳴られても、光は止まらなかった。

 撫子が走り去った方向へ、光は夢中で足を動かした。

「――撫子!」

 大声で名前を叫ぶ。

 その声は喧騒の中に消え、無論、返事はかえってこない。

 光には、なぜ撫子がテントを飛び出していったのかは分からない。どこを目指して走り出したのかも分からない。光には何のあてもなかった。ただ衝動的に撫子を追って走り出したのだ。 

「撫子!」

 声は激しい雨音によってかき消される。

 光は上から下までびしょ濡れになっていた。衣装のTシャツとハーフパンツは既にぐっしょりと水を吸って重くなっていた。水溜りも構わずに走ったせいで、履いていたニューバランスはまるで水没したかのようだった。

 心臓が早鐘を打つ。息が上がる。

 だが、光は止まらない。

 頭の中で撫子が像を結ぶ。撫子はこちらに背中を向けて立っていた。

 ――私は光に会えて、ちょっと自分のことがわかった気がするの。

 ――だから、光に会えてよかったって思う。

 なぜ今そんな言葉を思い出す? 自分への苛立ちから、光は奥歯を砕けんばかりに噛み締めた。血の味が口の中に広がる。

 嫌な予感がしていた。

 今、撫子を一人にしてはいけない。

 もっと足を動かせと心臓が暴れ出す。光はちぎれんばかりに腕を振って全力で芝生広場を駆け抜けた。人の流れが途切れ、視界が大きく開けた。萬守湖の湖岸に辿り着いたのだ。湖を一周する遊歩道の向こうに、砂利浜が広がっている。湖面は降り注ぐ雨と突風で大きく波立っていた。

 その湖面に、爆発音と共に巨大な水柱が上がった。

 光は驚き足をもつれさせると、その場に尻もちを付いた。全身の肌が粟立つのを感じながら夢中で地面を這い回り、植え込みの中に飛び込む。一体何が起こったのかと目を見開いた光の上に、舞い上がった湖水が水草の切れ端と共に落下してきた。

 続けてまた爆発音が響き、水柱が上がる。

 先ほどよりも、光がいる位置に近い場所だった。光は思わず目を閉じ、身体を仰け反らせた。ぬるい湖水が、光が逃げ込んだ植え込みに向けて散弾のように飛び散った。

 目を開けると、湖面には何か茶色い毛玉のようなものが浮いているのが見えた。光にはそれが生物の死骸にしか見えなかった。

 三回目の爆発音と水柱は、二回目の数メートル沖だった。

 そこで光は爆発音と水柱の正体に気づく。

 何かが湖に叩き込まれているのだ。

「――イエティをまるで問題にせんとはな」

 男の声だった。

 砂利浜の波打ち際に大きな男が立っていた。

 身の丈は2メートルを超えるだろう。まるでカンフー映画の衣装のような黒の上下に身を包んでいる。光のいる場所からは、その後ろ姿しか見えなかった。

 男の視線の先にいたのは――

「知らないの? 浅倉流兵術は相手がヒトの形をしている限り無敵なのよ」

 氷のような目をした黒髪の悪魔がそこに立っていた。

 赤いステージ衣装の浅倉撫子は、不機嫌を絵に描いたような顔で男を睨みつけている。

「あんな不躾ぶしつけな殺気をぶつけておいて、どういうつもりなのかしら」

 男は答えず、手に持っていた小さな道具を鳴らした。カチリと音がすると、最初に水柱が立った場所の近くの岸で、何かが立ち上がった。

 黒いツナギを着た人間のように見えたそれが、人間とは決定的に違うものだと光が気づいたのは直後だった。

 それは毛むくじゃらの尖った頭をしていた。野性味を宿した丸い瞳と、牙を覗かせる大きな口。光は男の言葉を思い出す。

 イエティ。

 それは図鑑に載っていたUMAの名前だった。

 なんでそんなものがここにいるのか。そして、撫子と対峙しているのか。光はただただ混乱した。

「ギッ……ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」

 イエティは絶叫し、前傾姿勢を取るとそのまま撫子に突進していった。

 速い。人間離れした――事実、人間ではないのだが――スピードだった。イエティが地を蹴るたびに、その足元の濡れた土が爆発したように舞い上がった。

 だが――

「芸がないのよ」

 撫子は弓を引き絞り矢を放つように、目の前まで接近したイエティの顎に真っ直ぐ掌底を叩き込んだ。カウンターで決まったその一撃で、イエティは走ってきた姿勢のまま昏倒した。その巨体が完全に崩れ落ちる前に撫子はイエティの左腕を掴むと、コマのように回転した。

 次の瞬間、先程と同じ爆発音と共に、湖面に巨大な水柱が立ち上がった。

 撫子がイエティをぶん投げたのだ。

 光の背中をぞわぞわとしたものが走り抜けた。

 撫子は強い。それは分かっていた。だが、これは――()()()()()()()()

 人間離れした身体能力を持ったイエティを、撫子は全く相手にしていなかった。

 光は息を呑んだ。そんな光の口から突然――

「厳密にはあれはイエティではない。イエティは『世界の屋根』を闊歩する山の賢者だ。あんな知性の欠片も感じられない顔はしていない」

 『もう一人の自分』の声が漏れ出た。光は思わず自分の口を押さえた。なんだ今のは。今まで『もう一人の自分』がこんな風に何かを解説することなどなかった。

「お前――何者だよ!?」

 光は混乱のまま自分に向かって声を上げるが、『もう一人の自分』は何も答えはしなかった。

「で、あなたは何者なの?」

 撫子がネコのように目を細めて男に訊ねた。次の獲物はお前だと言わんばかりだった。

「岩田屋の『巫女』――浅倉撫子、お前の身柄を預かりに来た」

 男の声は落ち着き払っていた。イエティがやられたことなど、気にもしていない様子だった。

「私を連れていきたいなら力づくでやってみなさいよ」

 挑発的な言葉を撫子が投げ掛ける。その口元には好戦的な笑みが浮かんでいた。

「本当はお前ではなく、浅倉弾丸と仕合しあいたかったのだがな」

「あんたなんか父さんの手を煩わせるまでもないわ」

 撫子が構えを取る。

 左足を一歩前に出して半身を作り、左手を顎の高さに上げると細い指を畳んで拳を作った。右手も同じように拳を作り、それを胸の前に置いた。

 光は構える撫子を初めて目にした。

 今までは構えすら取らずに相手を圧倒していたのだ。

「見せてもらおうか、浅倉の血の力を」

 男は撫子に無造作に接近した。悠々とした足取りで撫子の目の前に迫る。一見隙だらけに見えたその男の動作だったが。

 空気が弾けるような音が五つ連続で響くと、二人は互いに距離を取った。

 光の目には全く捉えられなかったが、二人の間で打撃が交わされたらしい。

 撫子の唇から、糸のように赤い血が流れた。血は雨と混ざり合うと、綺麗なラインを描く撫子の輪郭を伝い、地面にポタポタと落ちた。

「――上等ォ」

 撫子は血を拭うこともなく、凶悪な笑みを浮かべた。

 光の知らない浅倉撫子がそこにはいた。

 撫子は一瞬で男との間の距離を詰めると、次々に打撃を打ち込んだ。左の突きから一拍すら置かずに放たれる右の突き――その後に続く攻撃を光の目は捉えられず、また、言語化もできなかった。最後の一撃だけは、()()()に身体を折り曲げる男の顔面に向かって突き上げられた膝蹴りだと認識できた。

 撫子はうつ伏せに倒れた相手の延髄に向かって躊躇いなく足を振り下ろす。

 しかし、男は仰向けに転がり、撫子の蹴りを受け止めた。男は撫子の足首を掴んで引き込もうとしたが、撫子は回転しながら足を抜き後退した。

 取り立ててダメージもなさそうな様子で男が立ち上がった。

 男は左足を前に半身で構えると、だらりと左腕を脱力し、揺らし始めた。何をする気だと思ったその刹那、踏み込んだ男は左腕を鞭のようにしならせて撫子に突きを打ち込んだ。

「――ッ」

 雨粒を霧状に弾き飛ばすほどの速度で放たれたその一撃を、撫子はバックステップで回避した。男はフッと息を吐くと、同じような突きを連続で放ち続けた。二発、三発と避けているうちに、撫子から余裕が消えていく。

 撫子は踊るようにステップを踏むと、男の背中側に回りこもうとした。男は左腕を振り回し、裏拳で撫子の動きを牽制する。

 動きと動きの間の中で男の正面ががら空きになった瞬間、撫子は踏み込んだ。

 誘われたのか、撫子があえて誘いに乗ったのかは分からないが、そこに男が右の拳を振り下ろした。

 鈍い衝撃音と共に、吹っ飛ばされた撫子が空中で回転した。

 光は声にならない悲鳴を上げた。致命的な一撃を食らったと、光は思った。

 撫子はなんとか着地したが、しゃがみこんだまま立ち上がることができない。

 追撃されればそこで終わってしまう。

 光が植え込みから飛び出そうと腰を浮かせた瞬間――

「手応えがなかったな」

 男が呟いた。その左腕はまただらりと下げられているが、先刻までとは雰囲気が違っている。肘から先が、あらぬ方向に曲がっていた。

 撫子はゆっくり身体を起こした。その顔には凄絶な笑みが浮かんでいる。

「当然よ。後ろに跳んでかわしたんだから」

 撫子が空中で回転したのは、男の突きの威力を殺すためだったのだ。そして、その突きが触れた瞬間に、相手の左腕の関節を何らかの攻撃で破壊していた。

 撫子は男に肉薄すると連打を浴びせた。男も長い足を器用に使って蹴り技を見せるが、撫子はそれをかいくぐり、こめかみ、顎、みぞおち、金的と相手の急所に次々と打撃を打ち込んでいった。

 それはある種の舞踏のような華やかさすら感じさせた。

 男は次第に反撃の手を失い、打たれるままになっていった。

 クライマックス――光が目を見開くのと、撫子の掌底が男の心臓の位置に打ち込まれるのは同じタイミングだった。

 人体と人体が触れ合った音とは思えない破壊音と共に男は吹き飛び地面に転がった。

 撫子はふうと息をつくと、ゆっくり首を回した。止まない雨が、撫子の火照った身体を冷やすように降り注いでいる。

 地面に仰向けに転がったままの男が、呆然とした口調で言った。

「……これが……浅倉一族の『殺人芸術』か……子供と思って甘く見た」

「それが辞世の句ってことでいいのかしら?」

 撫子は勝ち気な笑みで男を見下ろした。

「化け物を殺すために、化け物になった一族――それがお前たちか」

「ま、父さん曰く、私達分家の人間は半端モノらしいけどね」

 撫子は気楽な口調で言った。

「まったく面白い。これが任務でなければ気の済むまで仕合いたいところだが――」

 男はバネのように身体を跳ねさせて立ち上がり、まったく残念だと呟いた。撫子が訝しげな顔で男を見る。

 光は男の顔を改めて観察した。手負いの肉食獣を思わせる面相からは、まだ戦意が消えていないことが読み取れた。髪は短く刈り込まれていて、そのまま顎髭と繋がっている。苦悩が刻まれたような眉の下にある、濁った黒い両の瞳は何も映さず――

 目が合った。

 光は、自分の首から上が吹き飛ばされたような錯覚を覚えた。

 死のイメージが脳に直接流し込まれたような寒気と共に、今すぐ逃げろという本能の声が響いた。

 しかし、もう遅かった。

 男はその場から数メートルは跳び上がると、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、光の目の前に降り立った。

 植え込みの中に手を突っ込み、光の胸倉を掴んで引きずり出した。

「この少年はお前の『ボラード』だな」

 男はそのまま光を片手で持ち上げる。規格外な暴力に突然(さら)された光は、もがくこともできずに宙吊りにされた。喉が締め付けられて、言葉を発することができない。

 撫子は目を見開き、困惑の表情を浮かべた。舌打ちをして男を睨みつける。

「『ボラード』……? ――私の『よすが』は澄乃の筈よ!」

 撫子が吠える。

「知らんな。リンクが確立しているのはこの少年に間違いない。()()姿()になれば、はっきりと分かるのだ」

 男は背中の巨大な羽を力強くはためかせた。

「私はササボンサム。UMAの力を授かった者だ」

 撫子は鬼のような形相で拳を握り、男――ササボンサム――に示した。

「――光を放しなさい」

  殺意だけを研ぎ澄まして音にしたような声だった。

「どうした? 声が震えているぞ」

 ササボンサムは更に高く光を持ち上げた。盾のように撫子に向かって掲げる。

 光は手足を振り回してなんとか脱出しようと試みる。酸欠気味の頭では、上手くササボンサムの手から逃れる方法など思いつかなかった。

 光は自分の間抜けさを呪った。

 こんなにあっさり捕まるなんて、余りにも情けない。

 浅倉撫子をよろしくね――という、あの女性の声が耳の奥に響いた。

 僕なんて助けなくてもいいと、光は叫びたかった。

「――――ごちゃごちゃ言わずに光を返せ――――!!!!!!!!」

 獣のような声と表情で撫子がササボンサムに飛びかかる。

 ササボンサムは羽ばたいて空に舞い上がり、あっさりと撫子の攻撃をかわした。ジェットコースターの先端に縛りつけられたような加速感で光は目の前が真っ白になる。その間にも光の首はきつく締め上げられて、だんだんと意識が遠のいていく。

「こいつを返してほしければ我々のアジトまで来い。場所はお前と『ボラード』との繋がりが教えてくれるだろう」

 薄れゆく意識の中で光が最後に見たのは、ササボンサムに蹴り飛ばされた撫子が、萬守湖に巨大な水柱を作っている光景だった。


◇◆◇◆◇◆◇◆


 ――その刹那、拝殿の中の空気は張り詰めて、二人の男女を包みこんだ。

 光は自分自身の口から吐き出された言葉に驚いて、その場で石像のように固まってしまった。

 撫子も息を止めて目を見開き、その黒い宝石のような瞳に光を映して硬直している。

 急に遠くなったセミの声。湿り気を帯びた真夏の空気。汗と日焼け止めの匂い。深い場所に手招きするような部屋の暗がり。

 時間の間隔が消失し、剥き出しになった二つの感情の主体がそこに残される。

「――それは『暴言』なの――?」

 撫子が目を伏せて、弱々しい声で訊いた。

 光は「当たり前だ」と言うべきだった。そして「ごめんね」と言うべきだったのだ。

 そうすれば何も変わらず、いつもの二人に戻れたはずだった。

 だが、その時の光は違っていたのだ。

 光は自分の胸の奥にある欲望の声を聞いた。

 ここで「今のは私の言葉ではありません」と言うことは、嘘だと思ってしまったのだ。

 だって、撫子が、そこにいるのだから。

 撫子に、触れてみたいと思ったのだから。

「――――違うよ」

 光は嘘を付いた。

 嘘を付くことで、本当のことを言ったのだ。

 順序も伝え方も、何もかも全部間違えているが、嘘ではなかった。

 撫子が足をもじもじと動かした。日焼けとは無縁の、きめ細かい肌の白い足。練習中に何度も見てきたその足が、今の光には恐ろしく扇情的に見えてしまった。光はごくりと唾を飲み込んだ。

 顔を上げると撫子がこちらを見ていた。

 その表情は、普段の撫子とはまるで違っていた。

 撫子は怯えていた――光に。

 困惑と恐怖に縁取られたその表情を見た瞬間、光は、しまったと思った。自分の手から何かがボロボロとこぼれ落ちていくような感覚だった。待って違うんだと心の中で叫んでも時間はもう戻らない。

 撫子の目から一粒の涙がこぼれ落ちた。長い長い沈黙。

 ――――そして。

「ごめんなさい」

 そう言った時の撫子の表情を、光はきっと生涯忘れることができないだろうと思った。


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