#彷徨えるカムパネルラと魔女の聖名(みな)において01
わたしは失敗した。
たかが一度の攻撃でパニックを起こして戦闘不能になった。
〈マギエル〉にならなくてはいけないのに。
わたしは蒼褪めて冷え切った父と兄の指を暖めなくてはいけないのに。
わたしはいつも寂しげなあの人の傍にいなくてはいけないのに。
〈マギエル〉にならなくてはいけないのに。
わたしは、母の代わりになることでしか、価値がないのに。
わたしは――失敗した。
☆
飛び起きると背中と左目に激痛が走った。
視界が暗い。左目から上半身すべてに包帯が巻かれている。
右腕に刺されていた点滴を慎重に抜き、エステルは部屋を見渡した。
消毒液の臭いと廊下を行きかう足音。
――どうやら母国の医務室に寝かされていたらしい。
ぼんやりと記憶が戻ってくる。
アトゥルとの交戦で無様な敗北を喫した後、ライアンによってサルベージされてロンギヌス本拠地まで戻ってきた。その後も錯乱し続けていたところまでは思い出した。
顔から火が出そうに熱い。泣きそうだ。シオンのことで焦っていたとはいえ。相手が一応は婚約者と油断していたとはいえ。攻撃体勢にあるクレイドルに易々と背中を見せるなんて、士官学校生でもやらないミスだ。
「起きたばかりで羞恥に悶えてるとこ悪いけど、少しいい?」
呆れかえった飛龍の声が降ってくる。
「隊長……申し訳ございませんでした! わたし、シオンを」
「死んだよ。元々蜂の巣の生死は問わずだったし蜂の巣は事実上壊滅だしでお手柄お手柄」
「お手柄……あ、あれは、シオンは仲間……」
「問題はその甘っちょろさ。保護対象と交戦した挙句、背中斬られてんじゃないよ。死にたいわけ?」
「も、申し訳ありません」
「しばらく兄妹仲良くおうちで謹慎してな。いいって言うまで出撃させない」
「えっ、困ります! 隊長、わたし出れます!」
「はァ?」
カツカツ、と苛立ちを隠さず爪先を鳴らす。
生まれて初めて向けられる飛龍の怒気にスッと胃の腑が冷えた。
「一から十まで説明しないと分かんない? キミは皇国が誇る特飛隊ロンギヌスのエースで? 五家筆頭のお姫様で? あろうことか保護対象で神国連盟の最高権力者で婚約者殿と一戦交えてあっさり負ける、それも〈マギエル〉の機体で……っていう皇国の恥部を世界に向かって発信してくれちゃったわけだけど? 帰ってきたら帰ってきたで錯乱状態でコクピット開けずに医療班と整備班の作業を妨害して、あまつさえ兄貴に代わりに出撃させたわけ。外務省はクレイドルに乗れない特約条項があるっつーのに、キミが怪我したからってブチ切れて神国連盟まで出撃しちゃったわけ。おかげでロンギヌスも外務省もキミら兄妹の大失態を[蜂の巣/ラ・リュッシュ]攻略っていう朗報でうまいこと誤魔化して何とかかんとかようやっと尻ぬぐいしたわけよ。それでもまだ出撃したい不問に付されたいなんて我儘通ると思ってる? で、一から十まで上司に説明させたわけだけど申し開きどうぞ?」
「ユーリ、兄が出撃したんですか!? クレイドルで!?」
「キミこれだけ叱られて反応するとこそこですか、そうですか。まぁいいや。その辺は謹慎中に兄妹水入らずで話しなよ」
「…………隊長」
「なに」まだ不機嫌な声がする。
「よわくて、〈マギエル〉になれなくてごめんなさい」
「――キミが〈マギエル〉になろうがなるまいが構わないけど、早死にしないでくれよ」
俺たちの心臓がいくつあっても持たないよ。
そっと左目の傷に触れながら言うその言葉は、もういつもの優しく寂しげな声音だった。
☆
「よォ、ドシスコン! 謹慎生活エンジョイしてるぅ~!?」
派手なアロハシャツに煽り口調でわざわざユリウスの自室までやってきたペドロを、ユリウスは間髪入れず腹に膝蹴りを入れて父の部屋へ通じる廊下へ速やかに転がした。
「いってぇ……良い一撃入るようになったな! 軍部行く!?」
「さっさと父さんの用事を済ませて帰るか、死ぬか選びます?」
「二択が極端! ホントおまえ、親父似でやんの~!」
何を言っても掌で転がされる。
ユリウスは諦めて「何か話があるなら座れば」ぞんざいに椅子を勧めた。
「何しに来たんですか? 父さんの荷物取りに来たわりには格好がラフですね」
「まァこの格好で外務省には戻れないわな。いや、おまえら兄妹の顔を見にね」
冷蔵庫から瓶ビールを二本出して、「え~おまえ、部屋にビールあるの~? おっとな~」「帰れよ」ペドロにひとつ差し出す。
「僕よりあいつんとこ行ってくださいよ。あれはあなたが来たら素直に喜ぶ」
「おまえのことも心配なんだよ。おにーちゃんのこともちゃんと心配させろって」
「なんなんですか、もう…………僕は何ともないですよ、アトゥルにも勝った。妹の仇はとった。一方で、手前勝手な出撃も反省している。外務省が私的に武力行使なんて言語道断だ。謹慎は然るべき処置、むしろ甘すぎると反省しているんです。僕は平静だ」
苦笑いでペドロはビール瓶の口にライムを押し込んだ。
フレッシュな青い香りがふっと立つ。
「でも結果、おまえも〈マギエル〉になっちまった。クレイドルなんか大嫌いだって言って憚らないやつが、《ルサールカ》を乗りこなしちまった」
「異動はしませんよ、軍部になんか行かない。その道は十三年前に消した」
「アイリスが生きてたら乗ってたか?」
ゆるゆるとユリウスは蒼い目を昏くする。
「たらればの話は嫌いです。僕は誰にもクレイドルに乗ってほしくない。それだけで平和が手に入るのに、どうして誰もアレをぶち壊さないんだ。死んでからじゃ遅いのに」
「昔は守れたんだよ、クレイドルさえあれば。撃って撃たれては変わんねーけど」
「……酔ってるから訊くんですけど、昔ディートリヒと母様って付き合ってたんですか?」
あからさまに酔っていない顔でユリウスがばっさりと話を逸らした。
「えっ?」
「あー、その反応は付き合ってたやつだ。だからうちに寄り付かないんですかね」
「えーっと」
「ディートリヒ以外にも母様と付き合ってた人います? ペドロは?」
「親父に訊け! わ~かったよ、おれはエステルのところへ行く。それでOK?」
「どうぞごゆっくり」
「おまえも逃げろよ、ちゃんと。思い詰めすぎるなよ」
言い捨てて出ていくペドロの後ろ姿を見ながら、「ちゃんと逃げろってなんだよ」呟く。
もう逃げに逃げた。
母の影から、〈マギエル〉から、クレイドルから。
その結果、逃げることを許されなかったエステルが人身御供のように他国に差し出され、テロを鎮圧する過程で顔にまで大怪我を追った。
僕のせいだ。僕が逃げたから、あの子は代わりにすべて背負ってしまった。
ユリウスこそが正統な後継者たるべく魔女が育てた一粒胤だったのに。
エステルはそこにあるだけでいい星だったのに。
☆
アトゥルと会いまみえたその一瞬。
怒りで沸き立つような血がすぅっと凪いだ。
すべての音も映像も止まって見える。
《ルサールカ》のAIの声だけがクリアに脳に直接響いてくる。
「アトゥル・クシャトリヤ――!!」
「今度はおにーちゃんのお出ましかよ」
半笑いの声が濃紅のクレイドルから反響する。
「暇人か」
嘲る声に無言で素粒子分解領域を展開する。
「外務省がこんなことしていーわけ?」
「妹を傷つけられた兄個人として来ている。本国は関係ない」
「そうは問屋が卸さないと思うけど……ねッ」
バチィと領域同士がぶつかって、飛散する。
虹色の光が瞬く。
瞬時にお互いまた領域を展開する。
ユリウスのほうが僅かに速く、濃紅の機体の装甲を融解する。
「ぐっ」
《ルサールカ》の演算リソースを攻撃と速度に割り振って、コンソールを叩く。
いとも容易く照準が合わさる。手がオートマティックに動く。
脳から夥しい量のドーパミンが出ているのが分かる。
間一髪を掻い潜って、照準の十字からアトゥルが逃げ出す。
「逃がすか、下衆が」
「あはははは、そう、これだよ。これを、きみを待ってたんだ――〈マギエル〉」
「……」
ぴくりとほんの刹那、ユリウスの手が止まる。
「その名で呼ぶな」
「そう言うなって。ずっと待ってたんだ。ヒリヒリさせてくれよ、おにーちゃん」
また分解領域が爆ぜて、目が眩むような光を放つ。
逃げを打つかのように全速力でバックしていくアトゥルの機体を、誘い水と分かっていて深く追う。
読み通り、曼陀羅のような紅い分解領域が網を張っていて、《ルサールカ》の黒い分解領域とかち合う。
「押し込め《ルサールカ》。卑しくも世界最強の魔女だろう」
ユリウスは謳うように言うと演算リソースを攻撃に全振りした。
奇しくもそれが、かつて東アジアの悪鬼と呼ばれたパイロットを墜とすために父が使った戦術とは知らず、防御を棄て去った。
当然、紅い分解領域のほうが脆く、ガラスが割れるように破裂し、アトゥルの機体に《ルサールカ》の黒い分解領域が喰いこむ。
「《ルサールカ》、殺さない程度に動力源を破壊し離脱」
「はァ? 離脱? ちゃんと殺せよ! 〈マギエル〉」
「その名で呼ぶな。妹の婚約者殿で、神国連盟の導師殿を殺すわけがないだろう。――ただお灸を据えに来ただけだ」
「ちくしょう逃げるな、こんのドシスコンが」
止めとばかりに分解領域を展開して、即時に離脱。
距離を取るユリウスに、動力源を失って市街地に急落していきながらアトゥルが断末魔を上げる。
墜ちるのをしっかりと見届けて、ユリウスは《ルサールカ》を反転させた。
妹と同じ轍は踏まない。
勝利が確定するまではトリガーから手を離さない。
本人の希望に反して、ユリウスは確かに冷徹な「乗る側」の人間に違いなかった。
☆
「なんで勝手なことすんの」
リビングで何とはなしにニュースを見ていると、ぶすくれた口調で包帯姿も痛々しい妹がアイスクリームを携えてソファ越しに話しかけてきた。
「なんでって。やってしまったものは仕方ないだろう。お前が弱っちいから」
「ユーリのばか! バニラあげないよ!」
「バニラと何があるんだ、チョコファッジ? ……ま、ならどっちでもいい」
「ばーかばーか、二つとも食べちゃうよーだ」
「謹慎中に太ったらみっともないぞ」
「…………わたしの情け深さに咽び泣いて感謝してよね」
バニラを渡した後、ずずず、と頭を倒して人を勝手に膝枕にしてくる妹を、その黒く柔らかい髪をユリウスはそっと梳きやった。
「痛かったろ、ばかだな」
「ちょっと、ちょっとだけね、死ぬかと思った」
「だからだよ」
「?」
「僕が出た理由。お前が死ぬかと思ったから」
「ユーリは逃げたくせに……今さら〈マギエル〉を名乗らないで。それはわたしの名よ」
「強く速く美しい――極めた者が名乗る。〈マギエル〉とはそういうものだろう。僕もお前も紛い物だ。今はまだ、〈マギエル〉の域には誰も到達していない」
「…………とらないで、わたしは〈マギエル〉にならなきゃいけないのよ」
なんで、そこまでこだわるんだよ。
あまりに頑なな妹の態度に呆れながら、ユリウスはお決まりのセリフを返す。
「安心しろ。僕はクレイドルを憎んでいる。そうそう乗る気はないさ。お前が目に余るお転婆しない限りはね」
今回の戦闘でエステルの左目は完全に喪われたそうだ。それを再生医療で復元して、もう来週には夏の晴れた日のような蒼い目が戻るという。
ユリウスは朧げな記憶でディートリヒや飛龍に母が投げかけた問いを思い出していた。
「死して、生き返って、また戦場で死して……私たち何がしたいんだろう」
「平和ってそういうことなのかな。何回死んでもいい、そんな安心が欲しいんだっけ?」
「本当のしあわせ、ってそういうことだっけ」
母は滅多なことで憤らない人だったが、言葉尻にやるせない思いが垣間見えた。
記憶と記録を照合すると、軍が正式に一部の重症兵・死亡兵に再生医療を施すことに踏み切った時期だったようだ。
決めたのは飛龍だった。
――珍しく母と口論していたのを憶えている。
「〈マギエル〉になりたい、あの子の夢を潰さないためだよ」
「……あの子のためだけに世界の理を壊していいの?」
「キミは母親だろう? 何かあったとき、平静でいられるか?」
「いられるわけないじゃん。でも――うちの子のためだけに世界のバランスを壊すのはどうかしてる」
「……心配なんだよ、キミとあの子たちが。心配させてくれよ」
「そうじゃないってなんで分からないかなぁ」
会話は平行線だった。
そこに父が帰宅して――父は何と言ったんだったか。思い出せない。
「ユーリ、ユーリってば! 聞いてる!?」
エステルの金切り声でふと我に返る。
「なんも聞いてない」
「ユーリのばか! アイス溶けちゃうよっつってんの!」
「あ、ああ……」
液体になってしまったバニラを啜り、ユリウスは考える。考える。考える。
「エステル、目痛いか?」
「んー……治るから大丈夫。次は絶対負けない」
にっと笑う妹を見てユリウスは飛龍の選択でよかった、と思った。
世界のバランスなんてどうでもいい。
本当のしあわせなんてくそくらえ。
大事なものを大事にできる範囲で大事にして何が悪いんだ。
「お前が死んだら、僕は再生するからな」
「ユーリや父さんが死んだら……死に方で考える」
「お前はそれでいいよ」
蕩けたバニラを飲み干して、冷たい唇でユリウスはエステルの額にくちづけた。