#これこそがもっとも完全な祈り06
エステルが生まれた日は、朝から父が蒼白な顔をしていた。
母の居室前に椅子を持ってきたはいいものの、立ったり座ったり、祈るように俯いてみたり長い溜息をついてみたり、あっちへうろうろ、こっちへうろうろと落ち着かない様子で、見たことのない父の様子に、まだ2歳だったユリウスは上手く喋れないながらも大きな父の手をぎゅっと握って安心させようと試みた。
父は眉を下げ、「ありがとなユーリ」と柔らかく笑って抱き上げた。
何かを待っている様子の父は、ユリウスを抱きしめたまま椅子に腰かけ、今度は石像のようにしばらくの間動かなかった。
天高かった陽射しが橙色を帯びるまでの長い時間。
幼かったユリウスは温かい父の腕の中でうとうと眠ってしまっていた。
年がら年中忙しく、ユリウスを家庭教師たちに任せて仕事で飛び回っている父や母とゆっくり過ごすのはたぶん赤ちゃんの頃以来だ、と思った。
そういえば、なんで母様は部屋から出てこないんだろう?
暮れるのが早くなった夕方の木々のざわめきに応じて、段々と不安になる。
お仕事かな。
もしかしてお熱かな?
父が家にいるくらいだ。ひどい風邪かもしれない。
母様がいなくなったらどうしよう。
「かあさま……えぇぇぇぇんあっぁぁぁぁぁ」
突然泣き出した息子にぎょっとしつつ、あやすように小刻みに揺れながら背中をトントンと叩かれる。
「どうしたユーリ。もうお兄ちゃんになるっていうのに甘えんぼめ」
父がとびきり優しい声でユリウスを叱った。
「いやぁぁぁぁぁっぁん、かあさまがいいぃぃぃぃ」
叱られながら、ユリウスは涙の出ていない目を瞬かせ、おにいちゃんってなんだろうと考えていた。
そういえば最近母様も「もうすぐお兄ちゃんだね、ユーリ」と言っていた。
飛龍とディートリヒも「お兄ちゃんになるんだから、もうアイリスにべったりはダメだぞ」って言ってた。ペドロは「とびきり美人の妹になるぜ~。自慢の兄ちゃんにならなきゃな!」と髪の毛をぐしゃぐしゃにしてきたし、アウローラも「妹ちゃんとも遊びにいらしてくださいね、おちびさん」と微笑っていた。
いもうとってなんだ……?
なんか、なんか、嫌だ。
母様と父様を奪われそうなもの。
ぼくのことを脅かしそうなもの。
本能的に悟って混乱しきったユリウスが父の顎に蹴りを入れながら
「ぎゃぁぁぁぁん、いやぁぁぁぁぁかあさまがいいぃぃぃぃ」
仰け反って喚いていると、ふにゃぁふにゃぁとまろい泣き声がした。
「うまれた!」
バッとユリウスを抱えていることを加味せず父が立ち上がるものだから、落っこちそうになる。慌ててしがみついた。
メイドに入ってもいいと案内されて、ようやく母の居室の扉が開く。
「か、かあさま、おねつ?」
「お熱じゃないよ。ユーリ、外で泣き叫んでたでしょ。もうお兄ちゃんなんだからすぐ泣かないのよ」
またでた。おにいちゃん。
いったいなんだっていうんだ。それのせいでもうずいぶんと母の柔らかい腕の中で眠れていない。子守歌だって父は絵本ばかりで歌ってはくれない。
「ほーら、お兄ちゃんですよ、エステル。はじめまして~」
母が腕の中の小さくてふにゃふにゃしたものを見せてくる。おそるおそる自分よりも小さい手に触れる。これが「いもうと」。
壊れてしまう。大切に触らなければ。
こんな小さくて細くて柔らかいもの、すぐに壊れてしまう。
大事にしてやらなきゃ。僕がそっとそっと壊れないようにしてあげなきゃ。
――――そうか、これが「おにいちゃん」か。
☆
《ルサールカ》大破の一報が司令室に響き渡ったとき、己の走馬灯のようにエステルが生まれた日のことが脳裏を駆け巡った。
あわせて胃酸が食道を逆流し喉を灼く感覚が襲ってくる。
ストレスで胃潰瘍になったらどうしてくれる、あのじゃじゃ馬が。
だから軍属なんて許さないと言ったんだ。
大切にしてきた。
あの事件の前も、後も。
誰よりも傍にいて道に迷わないように、その足下を照らしてきたつもりだ。
手本となるよう背中を見せてきたつもりだ。
それを事もあろうか〈マギエル〉になりたいなどと言い出し、妹は軍属の道を選んだ。
「《ルサールカ》大破、パイロットは意識あり。僚機によりサルベージ!」
「ロンギヌスは一度後退し、戦線を立て直す。……エース級でこれは痛いな」
飛龍が司令室のモニタを見ながらぼやく。
戦力ダウンにぼやいたのか、そもそもの役者不足にぼやいたのかはさておき。
父がホットラインを取る。相手は神国連盟か。
ユリウスはモニタを睨みつけながら、そっと司令室を出る。
ゆっくりと、そしてだんだんと猛スピードでロンギヌスの格納庫へ駆け抜ける。
許さない。
母を死なせたクレイドルを。
許さない。
妹を傷つけるクレイドルを。
許さない。
ユリウスの大切なものを奪う争い絶えない世界を。
事務官服を殴るように脱ぎ捨て、戦闘用制服に腕を通す。
ああ、虫唾が走る。着ることはないと思っていた。
僕はこの世界を、クレイドルが支配するこの世界を、憎んでいる。
なのに今、格納庫のキャットウォークを走り抜け、回収したばかりの《ルサールカ》に飛び乗る。
「あ、おい、ダメだよ。再調整までしばらくかか……る……」
「ユリウス・フォン・ヴァルトシュタイン一等書記官……!?」
「外務省は搭乗禁止で……誰かちょっと李隊長呼んで来い!」
動揺も怒号も素知らぬ風で、ジェイムズ・セシルとアーサー仕込みの超速タイピングで次々とプログラミングを書き直しシステムを再構築していく。
再起動した《ルサールカ》があの日のセリフを繰り返す。
ビーッ!!ビーッ!!ビーッ!!
《エラーです。搭乗者エラーです。搭乗者を変更してください》
「やかましいな、いつもお前は」
完全に据わった目でユリウスは言い放つ。
「従属しろ《ルサールカ》。〈マギエル〉の血を一番濃く引いてるのは――僕だ」
Enterキーを押したその瞬間、システムレッドからグリーンへ次々に代わっていく。
「ほらやっぱりキミは乗る側の人間だよ、ユリウス。整備班、行かせてやんな」
飛龍のしたり顔に整備班が蜘蛛の子を散らしたようにセイフティゾーンまで慌てて下がる。
「ユリウス・フォン・ヴァルトシュタイン、《ルサールカ》出るぞ」
☆
蜂の巣の総攻撃は予想に反して大軍勢だった。
否、地下組織であったがゆえに憶測を見誤ったと言う方が正しいだろうか。
ともかくも未明を狙って神国連盟の国境に進軍した蜂の巣は、なぜか最新式クレイドル数十機を中心に展開し、神国連盟を苦戦させた。
地下組織がいったいなぜここまでの武装を持てるのか。
神国連盟の中心部に近い第二の主要都市シュメルまで侵入を許した明け方、それは判明する。
先陣を切るのはメタリックブルーの機体、そこには皇国軍の中枢・特飛隊ロンギヌスのマークが印されている。
「おいおいおい、お嫁ちゃん、裏切るの早くね?」
「導師、いかがいたしましょうか」
「ん~。龍には虎をってことで、連合に援軍要請。ボクはお嫁ちゃんのパパとでも話してこようかなァ。どんな顔して出てくるんだろ~」
「かしこまりました」
「あと、とっとと逃げていいぜ~。蜂の巣の狙いはボクだからねェ、ここに近いほど危険度が高くなる」
「我は導師の盾なれば、いつまでもお供いたします」
「はァ~難儀だねぇ。うっぜ」
呵々と大笑して、アトゥルははだけた姿のまま皇国とのホットラインを取る。
「あ、パパ~? 義父上? お義父さま? 何でもいいや、ヴァルトシュタインか李飛龍出してくれる?」
間もなくして繋がったコールに、メタリックブルーの機体の映像を見せつけながら無邪気を装った声でアトゥルは告げる。
「なんかぁロンギヌスが攻め込んできてんだけど、こいつらやっつけたあと、皇国にも核の二、三発は落としていーよね?」
☆
未明に蜂の巣が神国連盟に総攻撃をかけたというニュースは、三十分足らずで皇国本国にも届いた。
一時間後、地球の連合軍に動きありとの報告が上がり、ロンギヌスパイロット全員がブリーフィングルームに集められた。
そこへ顔面を蒼白にしたライアンとエステルが駆け込んでくる。
「隊長! シオン以下、十数機がロスト!」
「宿舎にも基地のどこにもいません!」
「落ち着け。分かってる」
慌てふためく二人とは対照に、飛龍がモニタ上の地図を指しながら静かに言う。
「既に知っての通り、神国連盟に蜂の巣が総攻撃をかけた。現状、第二都市シュメル方面へ進攻中。連合軍に救援要請した模様。神国連盟とは先日友好条約を結んだばかりだ。我々も導師救出と事態鎮静化に出動する。そして――交戦対象はロンギヌスだ」
「……っ」
「は……!?」
シオンがいない。
発覚したときからのエステルの懸念が現実になっていく。
ライアンは心底理解できないというように何回か頭をふった。
「シオン・トゥローズルが僚機とともに基地を離脱し、地球へ向かったのは確認できている。また外務省宛に、神国連盟からの情報も入っている。俺も確認したけど、あれは《エンリル》。シオンに宛がった機体で間違いない」
「隊長、違う! そんなわけねぇ、シオンは裏切ったりしない!!」
声荒げて否定するライアンを飛龍は一顧だにしなかった。
「パイロットは総員発進準備。ミッションは導師アトゥル・クシャトリヤの救出が最優先。また制圧時、蜂の巣の生死は問わないものとする。皇国内から火種を出した以上、威信にかけて俺たちで消すよ」
「隊長、シオンじゃねぇ! シオンじゃ……」
はあ。
冷たい鉛のような重たい溜息だった。
「キミさぁ、乗らないなら出てってくれない? ロンギヌスは撃って撃って撃ち続ける、そういう部隊だって言わなかったっけ」
「…………ッ、お前のせいだ! 全部お前の――お前がいるからシオンは!」
飛龍の眼光の鋭さに怯んだように身体を反転させると、ライアンはドン、とエステルを思い切り突き飛ばして出撃するためブリーフィングルームを出ていく。
「わたしの」
「せいだけじゃない。いずれは起こるテロだったよ」
ごまかされた、とエステルは頭の片隅で思った。
隊長は、飛龍は優しい。嘘ではない。嘘はつかない。
けれど、逆に事実を突きつけてきて苦しい。
わたしのせいだ。
アトゥルと婚約したから。
蜂の巣は皇国純血主義過激派だ。
その頭目が親しい同期であることには驚いたが、皇国五家が裏を引いていたことには合点がいく。五家筆頭の血筋に他国の血が混ざるのが耐えがたいのだろう。
「で、キミは出るの? 出ないの?」
「出ます。わたしは〈マギエル〉にならなければいけないので」
「…………」
飛龍は何も言わずに少しだけ目を細めた。
エステルにはそれが何を意味するのか、品定めなのか心配なのか、その色を読み取ることはできなかった。素早く敬礼してキャットウォークを駆ける。
《ルサールカ》のコクピットへ身を滑らせて、一瞬瞑目する。
「――エステル・フォン・ヴァルトシュタイン。《ルサールカ》起動」
ポンッと電子音がしてAIが応答する。
母はノーマルのまま使っていたようだが、味気ないのでAIの見た目はピンク色のウサギに変更した。ウサギがくるくると忙しなく動いてシステムをひとつひとつ起動していくアニメーションが可愛くて気に入っている。
《ルサールカ、システムオールグリーン!》
オペレーターがAIの声を合図にハッチを開放する。
「《ルサールカ》針路クリア。発進どうぞ」
「エステル・フォン・ヴァルトシュタイン。《ルサールカ》出撃」
ぐっと重たいGがかかった後、内臓と足が浮くような何とも言えない浮遊感に包まれる。宇宙空間を猛スピードで駆け抜け、地球へ向かって落ちていく。
☆
きみは、まっさらで、なんて未完成。
守らなければ。我らの女神を。
「皇国から複数の降下部隊を確認。シオン様、来ます!」
「ああ、彼らは俺が対処する。お前たちは進攻を続けろ」
「承知いたしました!」
夜明けの空にきらと光るロンギヌスの降下部隊を見上げて、シオンは複雑な――でも少し安堵した表情を浮かべた。
李隊長には手の内は全て読まれているだろう。
だとすれば、シオンが対峙するのはライアンではなくエステル。
説得して降伏させることをまず試みるだろう。ロンギヌスとしても仲間内から離反者を出した事実を伏せたいはずだ。
果たして読みは当たった。
《エンリル》。
メタリックブルーのシオンの機体から距離を置いて、漆黒の旧型機が舞い降りてくる。
《ルサールカ》。
死の女神を意味する、魔女が娘に遺した世界最強の機体。
「皇国軍特別飛行隊ロンギヌス隊長、李飛龍の名代にて命じます。シオン・トゥローズル。投降し、兵を退きなさい」
「断る」
「あなたが蜂の巣総統であることはまだ公にはなっていない。司法取引に応じれば減刑も可能です。繰り返します。投降し、兵を退きなさい」
エステルの声が少し震えている。
ああ、よかった。本当によかった。シオンは思う。
これから為すことはきっと彼女の心に刻まれる。
自分の命も危うくなるが故国のためだ、致し方ない。
「――断る」
「なんで、シオン……っ! お願い、今ならまだ間に合うの」
「じゃあお前に条件がある。飲めるなら考える」
「なに? わたしにできることなら」
「導師アトゥル・クシャトリヤとの婚約を破棄しろ」
「……蜂の巣の理念? 皇国純血主義? まだ本当に結婚するかなんて分からないのにこんなテロ起こしたの!? バカじゃないの……!」
「何と言われようが、皇国五家に他人種の血が混ざるのは我慢ならない。皇国民の模範、規範であるべき我らが下等人種と混じり合い、劣等なる遺伝子を皇国民の血に混ぜることなど許されるはずもない。なぜお前は分からない。皇国五家筆頭の人間だろう? 下等人種と分かり合えるとでも思っているのか? 我らの尊い血をなぜ薄めようとする?」
「ダウト。シオン、あなた本気で言ってない。本当の言葉じゃない! ねえ、何が本当かは分からないけどまだ間に合う。投降して!」
それらしい言葉で固めた嘘をいとも簡単に見破られてシオンは苦笑する。
昔から……出会ったプライマリースクールの頃から、なぜかエステルには嘘がつけなかった。必ず見破られて本音を引きずり出された。
これでこそ我らが女神。
だから李隊長もエステルをシオンの説得にあてたのだろう。
「導師アトゥル・クシャトリヤとの婚約を破棄しろ」
「シオン!」
条件に嘘はない。見破る要素がない。
だから、エステルは板挟みになるしかない。
知っている。
衛星が二つも墜とされたのだ。皇国民を思えばこそ、彼女がアトゥル・クシャトリヤとの婚約を早々に破棄するわけがない。
分かっている。
彼女の眼中に自分はいない。その瞳に映る世界はあまりに狭く、ほとんどの人間は通りすがりの遠景にしかなれない。愛されないなら憎まれたいと願っても、足元に転がっている路傍の石にしかなれない。
「エステル、いいんだ。もう、いいんだ、せめて俺のこと許さないでほしい」
「シオン!」
「投降はしない。蜂の巣はこれからも皇国民以外の淘汰を望む。――止めたいなら、殺せ」
言うや否やクレイドルの素粒子分解領域を展開する。
ヴォンと唸りを上げて《ルサールカ》へと突進する。
「なんで……っ」
苦悩に満ちた声で《ルサールカ》も素粒子分解領域を展開する。
そのあとはもう、撃ち合うしかなかった。
士官学校の卒業試験ではどの科目でもエステルが上位。
だが〈マギエル〉じゃない。分は悪いが勝てない相手じゃない。
殺すつもりはない。中破させて動きを封じ、シオンの目的が達成されるまで大人しくしていてもらえれば充分だ。
急上昇からの旋回で《ルサールカ》の背後をとる。
「もらった!」と思うも素粒子分解領域を展開され、相殺される。
相殺し合う素粒子の濛々たる煙で見失ったところで背後を取られ、ギリギリで回避する。
「殺したくない、投降してよ!」
「そんな甘さでは〈マギエル〉にはなれないぞ、エステル」
「そーそー。いつどんなときも卑劣な手を使っても敵は殺さないと。ね、お嫁ちゃん」
「あ、ぐがっ…………!!??」
濃紅の機体がどこからともなくステルスで現れ、《エンリル》を分解する。
コクピットの半分を一瞬で失った《エンリル》は主を守れず、シオンの左半身もまた一瞬のうちに喪失した。
「シオン!!!! ――誰!?」
「婚約者に向かって誰はひどくない、お嫁ちゃん。きみが裏切ってなくてよかったよ、殺さなくて済んだ」
「アトゥル」
「でもちょっと興奮してきちゃったな。その機体、〈マギエル〉のだよね。――戦おうよ」
「今は救出に向かわせて! シオンが死んじゃう!!」
「だぁめ」
「アトゥル!!」
「嫉妬深いんだ。ちゃんとボクだけ見ててくれなきゃやだ。さっきのやつはどうせ死ぬよ」
素粒子分解領域を展開され、エステルが絶望の叫びを上げる。
話が通じない。交戦するしかない。
――せめて、シオンの回収を僚機に……
「目、離すなっつってんだろ」
急旋回、急上昇、重たくぶつかり合う素粒子展開領域。
強い……! 今まで訓練してきた誰よりも、強い。
レジェンズ級の圧を感じて、エステルは生唾を飲み込む。
気を抜けばシオンのように一瞬で喰われる。
ぐっと加速した《ルサールカ》にアトゥルが快哉の声を上げる。
「いい、いいねいいね。そうそう、もっと来てよ。ボクをもっとゾクゾクさせてよ、生きてるって感じさせて」
「無駄口叩いてるとうっかり死んじゃうわよ。――わたし今怒ってるの」
「えーそりゃあ怖いなぁっと!」
バチィッと分解領域を相殺しあって、お互い距離を取る。
「わかったよ、元お仲間の裏切り者、先に助けに行く?」
「……! ありがとう。あなたも無事でよかった。首都に帰って休んで。最前線にいると思わなくて救出部隊は首都ヴィクラマーディティヤに向かったから」
《ルサールカ》を反転させ、地に堕ちた《エンリル》救出に向かおうとしたその刹那。
ビーッ!!ビーッ!!ビーッ!!
「やめろ、エステル……!」
激しい警告音と共に虫の息に掠れたシオンの制止が入る。
ジュウウウウと感じたことのない熱が《ルサールカ》を通して伝わってくる。
「きみやっぱ〈マギエル〉なんかじゃないね。つまんな。戦闘中に油断して背中見せてんじゃねーよ」
アトゥルの素粒子分解領域が《ルサールカ》を融解してくる。
完全に背後を油断していた。攻撃なんかしてこないと思いこんでいた。
AIがシャットダウンし、警告音だけがコクピットに鳴り響く。
やられた……!!
死ぬ?
え? こんなところで?
「い、いやぁぁぁぁぁ!! 閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて」
地上に向かい急降下していく《ルサールカ》にあの呪いの言葉を吐き続ける。「閉じて」って言えば、わたしは死なない。
その様子をだんだんと失われる視力でシオンは見ていた。
まだまっさらで未完成な、魔女にはなれない俺の女神。
〈マギエル〉になるのだとキラキラした顔で前だけ見つめていた、俺の女神。
ごめん。ごめん。ごめん。助けてあげられなくて。辛い思いをさせて。
ごめん。ごめん。ごめん。いくら言ってももう伝わらない逃げだけど。
好きだった。好きって伝えればよかった。何も変わらなくても。俺を見てくれなくても。テロなんて手段で心が手に入るわけもないのに。
シオンは最期の力を振り絞って、僚機――《オシリス》へと回線をひらく。
「頼む、ライアン。助けてくれ」
☆
ライアンの手によって《ルサールカ》と《エンリル》はサルベージされた。
《エンリル》パイロット、シオン・トゥローズルは収容とともに即、大量出血による死亡の告知がなされた。頭目を喪った蜂の巣は精彩を欠き、ロンギヌスによって鎮圧。
導師アトゥル・クシャトリヤも無傷で救出されたものの皇国による保護は拒み、首都ヴィクラマーディティヤに残留することを選んだ。
《ルサールカ》パイロット、エステル・フォン・ヴァルトシュタインは収容時には意識はあるもののひどく混乱しており、コクピットを開けようとしなかった。
「閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて」
「おい、エステル! 開けろって。怪我の手当てもだし《ルサールカ》の再調整もしなきゃなんねーんだよ!」
「閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて」
「…………まいっちまいましたね」
ライアンが怒鳴ろうがお構いなし。医療班と整備班が顔を見合わせて、無理やり外部からコクピットを開けるか……という話になりかけたとき
「どいてくれ、僕が今開ける」
涼やかな声がキャットウォークから響いた。
滑らかな銀髪、底知れぬ湖のような蒼い双眸、ぞっとするほどの美丈夫。
「ユリウス・フォン・ヴァルトシュタイン一等書記官!?」
「エステル」
「閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて」
「大丈夫だ、もう開けていい」
「……おにいちゃん?」
「ああ、よく頑張ったな、エステル」
ユリウスの声に微動だにしなかった《ルサールカ》のコクピットが容易く開く。
「っぁ、うあああああああああああ」
泣きじゃくる妹を抱え上げ、医療班に引き渡すと、そのままユリウスはひらりと《ルサールカ》に飛び乗った。
「あ、おい、ダメだよ。再調整までしばらくかか……る……」
「外務省は搭乗禁止で……おい、誰か急いで李隊長呼んで来い!」
動揺も怒号も素知らぬ風で、ジェイムズ・セシルとアーサー仕込みの超速タイピングでシステムを再構築していく。
再起動した《ルサールカ》があの日のセリフを繰り返す。
ビーッ!!ビーッ!!ビーッ!!
《エラーです。搭乗者エラーです。搭乗者を変更してください》
「やかましいな、いつもお前は」
完全に据わった目でユリウスは言い放つ。
「従属しろ《ルサールカ》。〈マギエル〉の血を一番濃く引いてるのは――僕だ」
その瞬間、システムレッドからグリーンへ次々に代わっていく。
「ユリウス。何してる」
笑い含みの飛龍の声がして、やれやれといった風情でユリウスは振り仰ぐ。
「妹をいじめたやつにちょっとお灸据えに行こうかと」
「外交的に困るんじゃないの、外務省さん」
「妹を壊されて黙ってるやつは兄貴じゃない」
「ふ、ふふっ、やっぱりキミは乗る側の人間だよ。整備班、行かせてやんな」
飛龍のしたり顔に整備班がぎょっとしながらも発進シークエンスを開始する。
妹は愛した。母が遺したクレイドルを。その絆を。
妹は信じた。だから付け込まれて痛い目を見る。
甘い。弱い。子どもっぽい。〈マギエル〉たりえない。
全部それでいい。そのままでいい。
冷酷でしたたかで人を信じない大人には僕がなる。
エステルがエステルのままでいられるように、僕が世界の形を変える。
〈マギエル〉なんかいらない。クレイドルなんて消えてしまえ。
その日が来るまで僕が、お兄ちゃんが守ってやるから。
「ユリウス・フォン・ヴァルトシュタイン、《ルサールカ》出るぞ」