#それはきっと、たったひとりのほんとうの神さま02
歌が聴こえる。
母も歌っていたフォークロア。
母より少し甘く、高く、聞き覚えのある声でエステルは目を覚ました。
ミルクの海のような広大なシーツの波間から這い出て、裸足のままぺたぺたと白い大理石の床を音がする方へ歩く。
眠っている間に着替えさせられたのか、ふわふわとした雲のような白いワンピースに、真っ白な壁、高い天井には天使の宗教画。
静謐でどこからかサボンの香りも漂ってくる。
……死後の世界と言われても得心はいく。
「あ……」
「あら。お目覚めになられて?」
透明なピアノの傍で歌を紡いでいた女性と目が合う。
「アウローラさま……」
「ふふふ、呼び捨てでよろしくてよ。そのお顔で様付けされるとくすぐったいわ」
「ここはいったい……」
「わたくしの隠れ家ですわ。フォート・リバティからそう離れてはおりませんが……ここは皇国にも秘密の誰もわたくしたちを邪魔することはできない場所」
分かるような分からないようなアウローラの説明に、エステルは曖昧に頷く。
「実際に見ていただいた方が早いですわね、こちらへ」
白く長い回廊の果てに、白亜の調度に似つかわしくない分厚いスチールの隔壁があった。
アウローラが慣れた仕草で暗証コードを入力すると、その先はキャットウォークだった。
見慣れた機体が整然と居並ぶ。
「《ルサールカ》《タナトス》《エーデル》、《ラルウァ》に《ルキ》――!」
レジェンズの機体が並ぶ様子を目の当たりに、熱に浮かされたようにエステルが呟く。
「《オシリス》もあるぜ。無視すんなよな」
「ライアン! 無事だったの!」
「お前もな。薬は抜けたか?」
「あ……うん、大丈夫みたい……でも、飛龍、隊長が」
「あーそれな。俺たち隊長に一杯食わされたんだよ」
苦々しい顔で言うライアンにエステルは小さく眉を顰める。
まったく話が見えなかった。
「ブリーフィングルームにまいりましょうか。みなさまきっとお待ちかねですから」
アウローラがくすくすと笑って言う。
この人も母もいつも微笑んでいた。
懐かしいサボンとミルクの甘い匂い。子守歌代わりのフォークロア。
まだくらくらする脳みそを叩き起こして、エステルは顔を引き締めた。
真実を知らなくては。――それが、仲間の裏切りだとしても。
☆
エステルの決意に反して、ブリーフィングルームはレジェンズたちで賑わっていた。
エステルをここへ連れ去ったであろう李飛龍はもちろん、ディートリヒ・ジルバーナーゲル、ペドロ・シルヴァ、アーサー・アル・スレイマン、ジェイムズ・セシル・グレンヴィル、そして父ヴィルヘルム・フォン・ヴァルトシュタインに兄のユリウスもいる。
「いやぁ、士官学校の教官が見たら卒倒しそうな光景だよな」
「なんで……こんな……」
「お、起きたか。おはよう寝ぼすけ」
「おはようユーリ、じゃないよ。なにこれ、一体どうして? 私は飛龍に殺されかけて、ライアンは違法薬物で逮捕されたんじゃ……」
「まあ落ち着け。少し座って話そう」
暖かいお茶を差し出したのは父だった。
「…………」
「嫌だなぁ。今度は睡眠薬入りじゃないよ」
「その代わりあま~い蜂蜜は入ってるけどな!」
訝るエステルに飛龍とペドロが軽い調子で言う。
なぜかドッと笑いが起きた。おじさんたちのツボが良く分からない。
「ほらほら、みなさん。エステルが困ってるでしょう。本題に入りましょうか。エステルも大丈夫ですから、お座りくださいな」
アウローラに言われて渋々座る。
「エステル、あの日のことを憶えていますか?」
「母様が死んだ日のことなら、一日たりとも忘れたことない」
「それはわたくしたちも同じ。そして不思議に思ったことはありませんか? なぜあの日、成し得たのかと」
「えっ?」
斜め上の問いに思わず父を振り仰ぐ。
父は静かな、けれどどこかふつふつと煮えたぎるものを押し殺した声で言う。
「俺が出仕の日。屋敷にアイリスとお前たちしかいなかった日。所属不明機のアラートが軍部では鳴らなかった――つまり皇国機だ。それがなぜロンギヌスの、アイリスと飛龍の目を掻い潜れることができたのか。なぜ飛龍とディディが救援隊の編成に手こずって救援が遅れたのか。なぜアイリスは《ルサールカ》に乗れなかったのか。まぁ、これは偶然の不運だったろうが……皇国の誰がアイリスを、〈マギエル〉を殺そうと企んだのか――」
「母様を殺そうと企んだ? 皇国が……? テロじゃ、なかったの?」
「ずっと、ずっと捜していた。決定的な証拠を。それをお前がユリウスに託してくれた」
「もしかして」
アトゥルから最期に預かったデータを思い出す。
「そう、あれに《あの場でするはずのない声》が入っていた」
ユリウスがデータを再生する。
はっはっ、と短い呼吸を繰り返す。
どくどくと鼓動がうるさくてよく聞こえない。
「ユーリ、もう一度」
それでもエステルは目を瞑らなかった。三回目でふと気づく。
この前も聞いたばかりの声。威勢よく拳を天高く突き上げていたあの人。
「フィアラ……殿下……」
過呼吸になるエステルに、心底気の毒そうなアーサーの声が降る。
「そう、なぜここで彼の声がするのか。皇族ならロンギヌスの目を掻い潜れる。蜂の巣のときもきっと同じように皇族特権で飛龍に黙ってクレイドルを配備した。ライアンと君が気づきそうになったから、慌ててライアンを君から引き剥がした」
「ロンギヌスにスパイがいる……!」
鷹揚に飛龍が頷く。
「そう、だから説明省いたけどロンギヌスから俺と一緒に抜けてもらったわけ。あのままだとアイリスと同じようにフォート・リバティ戦で自軍に殺されてた可能性があるからね」
「殿下がどうして。殺すぐらいなら第16世代機の開発なんて許可しないんじゃ」
「第16世代機を君はアイリスだって本当に思ってる?」
「……………………」
「そういうことだよ」
嗚咽するエステルをそっと抱きしめて、「復讐は何も生みません」アウローラが言う。その言葉にエステルはぎゅっと身を強張らせる。
殺してやりたい。
母様と同じ方法で。いや、もっと残忍な方法で。
殺してやりたい。
殺してやりたい。
わたしたちが苦しんだ分、苦しめてやりたい。
「そう。復讐は何も生まない。ただ、尊厳を守るために必要なときもある」
父が、ヴィルヘルムが言う。
「俺の手で、この事件は幕引きにしようと思っていた」
「って言うから、全員で皇国抜けてきてやった。一人で格好つけさせるのは癪なんでね」
「ディートリヒ」
「わたくしは皇帝になることにこだわりはありません。けれど、フィアラが間違った道を行くなら話は別。わたくしも――立ちましょう」
「アウローラ」
「母様の死の謎はまだ残ってる。戦えるか」
「…………当たり前でしょ、ユーリ。わたしは〈マギエル〉なんだから」
わたしは〈マギエル〉にならねばならない。
それが〈マギエル〉の娘として生まれ、3歳で母を殺された、この血の宿命。
誰より気高く、誰より強く、誰より速く、誰より孤独に
――〈マギエル〉とはそういうものだ。
でももう孤独じゃない。みんなと戦える。独りじゃない。
すべての謎のために、わたしは今再び〈マギエル〉という名の剣を取る。
☆
フォート・リバティ戦は熾烈を極めていた。
連合の本拠地ともあって、連合も総力を挙げて一気呵成にクレイドルを吐き出してくる。
その数は数千に上った。
エース級はそうそういないとしても、地球から38万㎞離れた皇国からでは数が圧倒的に違う。
第16世代機を旗頭に皇国から宣戦布告したはいいものの押されていた。
そこに天秤と薔薇のマークを背負った黒い機体がサッと十数機を一気に薙ぎ払う。
負けじと白い狼に濃紺の機体、黒い狼に水色の機体、ユニコーンを背負った白い機体、ハヤブサに紅の機体……と数機が戦場を駆け巡る。
「おい、うそだろ!」
「レジェンズの機体だぞ、誰が動かしてんだ!?」
「第16世代機ってことは本人か!?」
「態勢を立て直せ、崩されてるぞ!!」
それは充分、連合本部の動揺を誘った。
そこへ甘やかな声が響き渡る。
「わたくしはアウローラ・ディ・スフォルツァ。皇国軍・連合軍ともに兵をお退きください。この戦闘に大義はありません。暴力ではなく対話で第五次世界大戦の始末を今こそしようではありませんか」
アウローラの声を無視して双方のクレイドルが絡み合い、撃ち合い、消滅していく。そこここで展開される素粒子分解領域のせいで、夜だというのに白昼のように明るい。
「フィアラ。皇国の安全な場所からではなく最前線で戦う者を見なさい。あなたの命令のせいで死んで逝く者たちが惜しくはないのですか?」
何らかの命令が下されたのか、皇国の動きが激しくなる。
クレイドル同士だけではなく、地対空ミサイルで連合のクレイドルを撃ち落とす算段らしいが、ただのミサイルでは素粒子分解領域には太刀打ちできない。
《ルサールカ》以下レジェンズが敵味方関係なく動力源を切って戦闘不能にしていくが、殺さないのは根こそぎ消滅させるより技術と集中力がいる。
しかも斬っても斬っても数百単位で群がってくるクレイドルにレジェンズといえども疲弊しはじめていた。
「まったく敵味方関係なく……どっから沸いてくんだよこれ!?」
「いやぁ。年取ると、この数はキッツイねぇ。昔は簡単に捌けてたのにね」
「昔は何も考えず消しちゃってたから。戦闘不能にするほうが技術的に厳しいですね」
のべつまくなしに撃ちまくるものの、悪鬼ことアーサーですらさすがに息が上がっている。
「まだなの……ユーリ!」
エステルは皇国へフィアラ捕縛に向かったはずの兄の名を呼びながら小さく舌打ちする。
このままじゃ押し込まれる――。
ここでの負けは文字通り死を意味する。そして戦火の拡大も。
アウローラの言葉が通らない以上、打開策はフィアラを確保するしかない。
エステルは焦っていた。
☆
「フィアラ殿下」
「ヴァルトシュタイン。どこ行っていた。またあの女が――」
言いかけて渋い顔でフィアラが止まる。
「パイロットスーツでどこへ行く。クレイドルでダンスパーティーか?」
「フォート・リバティへ合流します」
「あの女のところへか! 許さん、許さんぞ!!!!」
激昂するフィアラの耳朶を銃弾が抉った。
「ぎゃッ」
「ああ、腕が落ちていなくてよかった。遥か昔、士官学校で射撃は1位だったんですよ」
ヴィルヘルムは銃を構えたまま不自然なほどにこやかに言った。
「殿下、今日が何の日かお分かりになりますか?」
「こ、近衛兵、近衛兵はいないのか!! 誰か!!」
「ああ。人払いしたのでしばらく二人きりです。五家筆頭の権力があって本当によかった」
ふふ、と笑うのがフィアラは怖くてたまらない。
感情をどこかに捨てたような無表情のヴァルトシュタインが笑っている。
嗤っている。
「今日は祝祭ですよ」
「祝、祭……?」
何を言ってるんだこの男は。
フォート・リバティ戦が苦境のこの時に。
あの女が邪魔をする今この時に。
「いいからさっさとアウローラを排除し、フォート・リバティを占拠せんか!!」
「殿下、私は嬉しくて堪らない。ずっとこの日を待ち続けていた。アイリスを殺した奴を殺せる日を、この復讐の祝祭を」
恍惚とした表情にぞっとする。
銃口はいつの間に距離を詰められたのか、フィアラのこめかみに張り付いている。
冷たい汗が伝う。
「英雄は死して高き名を残す。――皇国が世界の覇権を獲るために必要なことだった!」
「なるほど。一理ある。あれ以来〈マギエル〉は伝説から神格化された」
「それにアレは東アジア出身だろう。皇国民ではない、お前に相応しい女は幾らでも宛がってやる。そう固執しなくても」
「ああ、忘れてました。東アジアの研究所生まれだと。皇国純血主義の殿下らしい」
「魔女はアウローラ派だったろう。アウローラでは世界の覇権は握れん。それを排除するのに邪魔な者を消したまで。皇国民ではない女が軍部を掌握しているのもおかしな話だった」
「鄭瞬燐も李飛龍も移民ですがね。皇国五家やロンギヌスも解体されるおつもりで?」
「そのうち皇国の血の者に入れ替えるさ。トゥローズルは役に立ったが悪いことをした」
なるほどなるほど、と頷くヴァルトシュタインにフィアラは小さく息をつく。
こいつは話の分かる男だ。
蜂の巣の件も神国連盟に対しても上手く対処してくれた。
こいつは真に皇国民として信用できる臣下……
パァン‼
「そんなんで納得できるわけないだろう、阿呆が」
フィアラのこめかみから硝煙が立ち昇る。
頭半分の脳漿を吹っ飛ばして、フィアラは床に倒れ込む。
部屋が静まりかえったのを悟ってか扉が開く。
「父さん」
「終わったぞ」
「うん」
「――エステルを迎えに行かないと」
振り返ると自分と同じパイロットスーツ姿のユリウスがいて、ヴィルヘルムは知っていたかのように微笑んだ。
ユリウスは泣き笑いのような顔でバッと直角に礼をする。
「僕を《エーデル》に乗せてください。僕に行かせてください――もう、逃げたくない」
「本当に俺そっくりになりやがって。無様な動きしたら引きずりおろして俺が乗るからな」
「はい!」
ユリウスは世界が許せなかった
自分から様々なものを奪った世界。
クレイドルで支配されている世界。
妹が意固地に見えるほどの決意で戦火に身を投じなければならない世界。
何もかもが儘ならない世界。
暖かな毛布をはぎ取られて裸で放り出されたような不安定な世界。
「僕はこの世界を終わらせるよ。いいよね、神様」
ユリウスは世界が許せない。
クレイドルが許せない。
でも一番許せなかったのは、守れない弱い自分だった。
もう逃げない。投げ出さない。
「僕だって〈マギエル〉だから」