孤高の女騎士は苦悶する
創世暦五八六年四月九日の黄昏時、ヴァスタニア騎士団本部で鍛練に勤しむレナトス・フォン・ヴァスタニアのもとを、一人の男が訪れた。騎士団には普段、夜分の来客など滅多にないはずなのだが──しかし今日ばかりは、先例という先例はまるで役に立たなかった。
「今日も殊勝な心がけっすね、団長。《親御さん》も毎夜毎晩心配してるでしょうし、夜が更ける前に帰ったらどうです?」
「……ヒラリウスか。もう少ししたら、帰ろうと思っていたところだ」
ヒラリウス・ナスターチウム。二年前、齢十八という若年にして副団長の座に就いた、レナトス・フォン・ヴァスタニアに比肩する剣術の天才である。優れた能力を持つ反面、休暇中は存分に遊び倒す、言ってしまえば非常に暢気な男だ。
そんな彼が、刻限を過ぎた頃に騎士団の訓練所兼本部を訪れるなど一体どういう了見かと、レナトスは寸時疑いを抱き──しかし自分で考えても一向に答えが出なかったため、直接彼に訊いてみることにした。この間、約十秒である。
「……して、何用だ? まさか、剣の腕を磨きに来た訳でもないだろう」
訓練御用達の木剣を振り下ろす手を止めて、レナトスは彼に向き直る。
「そりゃ本当にまさかっすよ──団長、明日誕生日っすよね?」
「……ああ、そうだな」
さも自分の誕生日を憶えていないとでも言うような調子で、彼女は言う。実際、レナトスは今日が自らの誕生日だという事実を、一切認識していなかった。
「それで、ですよ。急で申し訳ないんすけど、明日、遊びに行かないっすか?」
「……断る。騎士団長としての責務を果たさなければ、ヴァスタニアの民に顔向けが─────」
「アコトさんも来るっすよ」
毎年のように繰り返される常套句を遮り、ヒラリウスは反駁を重ねる。
「……貴様、民間人を巻き込むとは……」
「そうでもしないと、団長みたいな人は乗ってくれないじゃないっすか。──それで、どうなんです?」
「…………」
先程までとは様相を一変させ、苦悶の表情で苦心し苦悩するレナトス。それもそのはず、彼女が外部の人間にめっぽう甘いことは、もはや周知の事実というか、むしろ羞恥というか──もういいや、とにかく騎士団の団員達は皆知っている。故にヒラリウスは、アコトという部外者を交渉に持ち込むことで、自分が有利になるよう手駒を動かしたのであった。
……
俺、駒だったの?
「……分かった、誘いを受けよう。しかし、何故……アコトを? 彼はただの観光客なのだろう」
「《ただの》観光客?」
ヒラリウスは語気を強めて言った。
「それは……どういう意味だ」
「団長も分かってるでしょう。あの《紅竜》を単身で引き付けて、あの規模の《火》を撃てるただの観光客が、一体どこにいるって言うんすか?」
それから、「まあ、つまるところ」とヒラリウスは付け足して。
「アコト・ヨマワリ──国を護る一人の騎士として、彼がこの国に仇なす人間かどうか見定める……っていうことっすよ」
「……なるほど、お前の考えはよく分かった」
得心のいったように頷くレナトス。
しかし。
だがしかし。
「─────しかし、同意はできないな」
「……理由を聞かせてもらっても?」
《実際にそうではないこと》を、彼女は主張する。
「確かにお前の言う通り、彼はヴァスタニアの脅威になり得る存在だ。あれほどの強さを持つ者が敵に回れば、王都は一瞬にして火の海だろう。だが、私にはどうしても──彼が、悪い人間には見えんのだ」
「それは、《先代》のような?」
「…………ああ。そのような奴ではないと、信じたい」
信じなければならないかのように。
「それでこそ、団長っすよ」
ぼそり、と呟くヒラリウス。
「……? 何か言ったか?」レナトスがそう訊き返すと、彼は、
「さあ、幻聴じゃないっすかね?」
─────気の抜けた笑みで、答えた。
かくして前日譚は終わり、後の《王世子往々にして王制を制し逢瀬で逃げ果せ失せる》、所謂デート回に続くのだが──その話は、またどこかで。