第一話 禁断の味
霧島玲の鼻腔をくすぐる芳醇なスパイスの香りは、異国への誘いではなく、禁忌の領域への招待だった。玲の細身の体が、一瞬ビクリと震えた。切れ長の瞳に、不安の色が過った。ガラス張りの扉を開けると、店内に充満する熱気が玲の頬を無数の針で刺すように襲った。
うまい、とうわさのカレー屋「伽羅」は、都会の喧噪を完全に遮断する静かな異界だった。
玲は、空いているカウンター席に腰を下ろす。メニューを開くと、そこには「極上出汁カレー」の文字だけ。選択の余地はない。玲は運命に身を委ね、注文を告げた。
ようやく玲の前に運ばれてきたカレーは、艶やかなターメリックライスの黄金の丘に、漆黒のルーが川のように注がれていた。その光景に玲の期待が膨らむ。
玲は震える手でスプーンを取り、一口含んだ。
その瞬間、彼の表情が硬直した。
口の中に広がったのは、耐え難い苦味。そして、得体の知れない「何か」が舌の上で蠢く、背筋が凍る感覚。玲のスーパーテイスターとしての舌は、この味の正体を理解することを拒否した。それは、人間の知覚を超えた何かだった。
「おろろろろろろろろっ……」
玲は思わず嘔吐する。カレーはカウンターの上で無残な姿を晒し、呪いの象徴となった。吐瀉物は、生きているかのように蠢いていた。
周囲の客たちは、驚きと嫌悪の入り混じった視線を玲に向けた。その視線は、無数の針が玲の肉体を貫くように痛かった。血相を変えた店主が、怒りに満ちた形相で玲のもとへ駆け寄ってくる。
「な、なんたることだ! こんな美味しいカレーを侮辱するとは!」
店主の剣幕に、玲は言葉を失う。客の視線は、玲を八つ裂きにする刃となって、彼の全身を切り刻んでいく。
玲は店主の怒号を浴びせられながら、店から追い出されてしまった。店の外で、申し訳なさそうに声をかけてきたのは、伽羅でアルバイトをしている星名紬。彼女の大きな瞳には、困惑の色が浮かんでいた。
「すみません……お代は結構です……」
紬の目には、玲の反応に対する不可解さと心配が混ざっていた。
*
玲は自宅アパートに戻り、ベッドに横たわった。薄暗い一室は、玲の不安を増幅させる密室と化していた。あのカレーの味――いや、味というよりも、あの異様な感覚。これまで数えきれないほどの料理を味わってきたスーパーテイスターの玲だが、あんな経験は初めてだった。それは、人間の味覚を超えた、別の次元の不快感だった。
不安が影のように心を覆う中、玲はテレビをつけ、ニュース番組を流し見していた。すると、画面に映ったのは伽羅の映像だった。玲の瞳孔が開く。
「――ここ最近、この周辺で住人の行方不明事件が相次いでおります。警察は……」
玲は思わず息を呑んだ。画面に映っていたのは伽羅。彼の全身から、一瞬にして血の気が引いた。
あのカレー。そして、行方不明事件。あの店のカレーがうまいと、うわさになったのも最近の話。
この三つは、繋がっているのだろうか――?
漠然とした予感が不吉な影を落とした。その影は、彼の未来を覆い隠すほどの濃さだった。