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次の日は上靴が泥まみれになっていた。芥田はなんだ? とは思ったが、とりあえず外の水道で泥を落とし、職員室でスリッパを借りた。
教室のベランダで上靴を干している芥田に対し、担任は思うところはあれども特に指摘しなかった。芥田自身が平気そうだったからだ。
だが、更なる事件が起こる。ベランダに干していた上履きに何者かが給食で出たジャムを塗りたくり、上履きが蟻まみれになっていたのだ。それは芥田本人より女子たちが阿鼻叫喚となり、芥田はそれらの悲鳴を不愉快そうにしながら、また上履きを洗いに行くのだった。
「上履きを干すなら管理をしっかりしなさい」
担任はそう芥田を諭した。芥田ははい、とだけ答えた。
自分の所有物を管理するのは当然のことではあるが、小学生に上がったばかりの子どもに何を言っているのだろうか。
そもそも管理するといっても、教室の中では干せないし、悪戯されることなんてどうして想定できるだろう。芥田は見た目は派手だが、派手な行動はしていないのである。
諦めて、上履きを持ち帰り、家で洗うことにした。
それで一件落着……とはいかない。
スリッパ生活とはいえ、外履きの靴は下駄箱に入れなくてはならない。下駄箱への悪戯はエスカレートしていった。
あるときはてんとう虫が大量に入っていたり、あるときは芋虫が二、三匹入っていて、危うく踏み潰すところだったり、あるときはみみずがうねうねしていたり。芥田は無表情でぽい、と捨てていたが、女子たちはそれをドン引きで見ていた。
芥田が教師に何も言わないことにより、そんなことが毎日続いて、とうとう事件が起こったのは、入学して僅か二週間のことだった。
きっかけは、放課後、芥田が昇降口を通りかかったことだった。下駄箱の前にとあるクラスメイトがいた。
そのクラスメイトを仮にCと呼ぶことにしよう。
「あれ、Cさんどうしたの?」
「!?!?!?」
びくんと飛び上がらんばかりに驚いて、芥田を無視してその場を去るC。それから開きっぱなしの芥田の下駄箱が赤い絵の具まみれになっているのを見れば、否が応でも、Cが悪戯の犯人であることはわかる。
芥田は、静かにキレた。そうして、放課後だからと返された携帯電話で写真を撮った。下駄箱の惨状を。
それから、躊躇なく職員室へ向かい、担任に写真を見せ、現場を見せ、自分が遭っているのがいじめらしいことを話した。
ただ、複数人である可能性もあったため、Cさんだけの犯行とは断定しなかった。
「何かこんなことをされる心当たりは?」
「ありません。なんでこんなことされなきゃないんだって思います。会って二週間くらいしか経っていないのに。先生はわかりますか?」
芥田の棘のある物言いに、担任は何も答えられなかった。
愛桜が苛立ったように、組んだ腕の上で指をとんとんとする。
「愛桜クン、貧乏ゆすりはやめたまえ」
「貧乏ゆすりなんてしてませんよ」
「世の中では不快不愉快を表す挙動のことを貧乏ゆすりという。特に音のするものなんかは嫌われやすいぞ」
ぐ、と愛桜は指で腕を叩くのをやめる。代わりに拳を握りしめた。
「でもムカつきません!? なんですか、この教師! まるで芥田が悪いみたいな言い方して! 自分のクラスで起こっているいじめで、加害被害の分別もつかないなら教師やめろや」
「愛桜クン落ち着いて」
ふんすふんすと怒る愛桜を宥めつつ、樫美夜も憂いを帯びた様子で眼鏡のブリッジに手をかける。
「正直、こんなにはっきり加害被害がわかるものでも、教師の立場は難しい。教師に求められるのは調停者としての役割だ。どちらの肩も持たない中立。被害側からすれば、肩入れしてほしいものだが、公平に判断するにあたって、どちらの味方でもないことを示すのは重要だ。その点で、この教師の確認は間違っていない。間違ってはいないが、まあ、僕にも愛桜クンの言いたいことはわかる。
難しいものだよ。揉め事の仲裁というのは世の中で一番不条理な立場だ。そうならないで済むのなら、一生なりたくないものだね」
「ご高説なんてどうでもいいですよ。この後Cはどうなるんですか? お決まりの展開でメリーさんにお仕置きされるんですか?」
「日曜朝アニメじゃないんだから、お決まりの展開などと言わないでほしい」
だがまあ、と樫美夜は頷く。どうやらCもクソガキたちと同じような末路を辿ったらしい。
「しかし、今回焦点を当てたいのはこの教師である」
ゆうやけこやけが流れると、なんだか懐かしい気分になる。ゆうやけこやけに急かされるように、家路を急いだ自らの幼少を思い出すからだろうか。
教師は頭を抱えていた。定時上がりで飲み会に誘ってきた同僚を見送り、悩ましげに児童の連絡先名簿と電話を交互に見ていた。
入学式から一ヶ月も経たないうちに、自分の担当クラスからいじめが出るなんて、と。
いじめ問題は現代では当たり前のように表面化し、いじめの解決には教師の度量が試される。
「入学早々いじめ出るとか、お前もついてないな」
飲みの誘いを断ったとき、同僚に言われた言葉が蘇る。非常に胸糞が悪かった。酒も飲んでいないのに、胃もたれを感じる。
軽薄で不愉快な言葉だ。いじめが出たのを「ついてない」なんて表現するのは。まるでその教師の運だけが悪かったかのような言い回し。
確かに、入学式から二週間でいじめが露呈するなんてレアケースだろう。だが、それは時間の問題で、どんな学年のどんなクラスだって、いついじめが起こってもおかしくない爆弾を抱えている。ついてないな、と笑ったお前のクラスだって、表面化していないだけで、悪意ある行いが蔓延っているかもしれないだろう。被害者がそう思っていないだけで、端から見たらいじめにしか見えないような光景がそこかしこに広がっているだろうに、それが被害児童の心を蝕む前に汲み取ってやるのが担任の役目だろうに。ついてない、で片付けるなんて、言語道断だ。
「それにしても、今時の子はしっかりしてるな……まさか証拠写真持ってくるなんて」
教師は芥田を思い出す。そういえば、上履きが汚れてスリッパ生活を余儀なくされていた。ジャム蟻たかり事件もあった。それを予兆と汲み取らなかった自分にも責任はある。
それにしたって、入学二週間でこれは、いくらなんでも展開が早すぎないか?
「というか、手慣れてるんだよなー、リリスくん。もしかして、保育園の頃からこういうこと続いてる?」
芥田も災難だなあ、と同情しつつ、同情するなら肚を決めて加害児童側に連絡をしないと、と電話を取ろうとしたそのとき。
ピルルルルルルルルル!!!!!
心臓が飛び出るかと思うほどのタイミングで、がらんどうの職員室中にコール音が響き渡った。職員室の電話は連動している。が、静寂の中だと、同じ音のはずのコール音が混ざり合って不協和音を醸すようだった。
ゆうやけこやけすら歪んで聞こえるほどだ。先程とは別の意味で頭を抱えながら、教師は受話器を取った。
「はい、下沢小学校です」
ぴたりと止んだコール音に少しほっとしつつ、教師は電話の向こうに耳を澄ました。微かにゆうやけこやけが聞こえてくる。
だが、相手は無言だ。十秒ほど待ったが、返事がないので「もしもし?」と問う。
そこで、ふと気づいた。
このゆうやけこやけ、いつまで鳴っているんだ?
カーテンが、開いていた窓からの風にさあっと揺らめく。
「わたし、メリーさん」
その声は電話口と、真後ろからした。
「今、あなたの後ろにいるの」