ゑ
正常なゆうやけこやけが、止まった。
芥田がはっとする。人の気配が、側に感じられたから。
そこには、ゆらゆらと立ち上がる樫美夜の姿。芥田は信じられない気持ちで目を見開く。まさか、瑪莉依が負けたのか?
「莉栗鼠ごめん! 愛桜ちゃんを信じて!」
聞き慣れた少女の声に、芥田はほっとする。メリーが樫美夜の操る影の守り人の力で亡き者にされたわけではないらしい。
愛桜を信じるとは、どういうことだろうか。メリーが無事なのなら、メリーが自主的に空間を解除したことになる。それはメリーの作る「地獄」という監獄から出てもいい、という通達だ。メリーの空間から出てきた者は廃人になる。例外はない。樫美夜は怪異を操れても、人間だ。だが、立ち上がる気力がある。廃人になったようには見えない。
「うあああああああああっ」
濁った雄叫びと共に、立ち上がった樫美夜が莉栗鼠に飛びかかってくる。莉栗鼠はなんとか逃れたが、桜の木の根に引っかかって、転んでしまう。
廃人とまではいかないまでも、樫美夜の精神状態が異常なのは確かだ。愛桜も言っていたが、樫美夜は極度の運動音痴である。それは芥田の知る教師の樫美夜も変わらなかった。運動会の教師リレーで精鋭揃いの教師陣の中に入れられ、教師チームが樫美夜のターンで最下位になるのはもはやお決まりである。そこからの追い上げが凄まじいのだが、割愛。
そんな樫美夜が、転んだ芥田の足をぱしりと捕まえ、仰向けにする。芥田は後頭部と右半身を地面と木の根に強かに打ち付けることとなり、うっと呻いた。
明らかに樫美夜が芥田を害しているのに、メリーが能力を発動しない。メリーが慌てて駆け寄って、樫美夜を引き剥がそうとするが、幽霊であるメリーは生きている人間の樫美夜に触れることができない。
樫美夜が馬乗りになってくるのを実感しながら、芥田は可能性を推理する。華奢な芥田は運動音痴でも成人男性である樫美夜の力に勝てない。警察が早く到着することを祈るくらいなら、芥田はメリーを信じる。
『愛桜ちゃんを信じて!』
つまり、この状況を打開するために、愛桜が動いていて、愛桜が動くためにはメリーが隔離空間の能力を解かなければならなかった。
都合よく解釈するならそうだ。
のし、と樫美夜の体重が芥田の腹部にかかる。手が伸びてきて、がしり、と樫美夜の指が芥田の首にかかった。ぎりぎりと絞めてくる。
ぼやけてくる視界の中、芥田は樫美夜の目を見た。そこにはハイライトがなく、焦点もぶれぶれの正常には見えない目。メリーの空間内で起こったことの効果は効いているようだ。
ただ、油断ならない。樫美夜は頭が良く、狡猾な人間だ。少しでも油断や隙を見せたなら、樫美夜の思惑にはまってしまうかもしれない。
最悪の想定はある。樫美夜が、メリーの空間を影の守り人で破り、メリーの能力発動を封じているというのが今、という状況だ。芥田はメリーがいなければただの高校生である。少し幽霊が見えるだけの。
殺されれば、普通に死んでしまう。人間だから。ここは異空間ではないから。警察が着けば、樫美夜は現行犯で逮捕されるだろう。だがそれまで芥田が生きている保証なんてどこにもない。だとしたら……
だとしたら、桜の木の下の無念たちを、他の誰が弔えるというのだろう?
そう思い至ると、思考がクリアになった。首を絞められて苦しいことはわかるが、腕を動かすことができた。
「っ!」
芥田は樫美夜の片方の手首を掴み、首から引き剥がそうとする。酸素が足りない。頭がくらくらする。けれど正念場にこそ発揮される火事場の馬鹿力というものがはたらいて、芥田は狂った樫美夜と競り合うことができた。
片手だけだが、指が食い込むほどから、肌に触れる程度までに離せる。少しだけ息が楽になった。
「莉栗鼠を放しなさいよ! バカー!」
メリーはその辺の石を拾って樫美夜に投げつけていた。樫美夜にぽてぽてと攻撃というには愛らしい音を立てて当たる小石たち。残念ながら、樫美夜はそちらに反応することがなかった。
まあ、小石に攻撃性がないし、樫美夜のこのちょっと通常よりも異常な力の発揮は火事場の馬鹿力に近いものがある。感覚器官が鈍くなっているのだろう。
「こら、こらー!」
半泣きになりながら、自分のために石を投げているメリーに、芥田は少し和んでしまった。
気が緩んだ。
ばきっ……嫌な音がして、芥田が衝撃に目を見開く。馬鹿みたいに与えられた痛みに、感覚器官は正常な作動をせず、芥田の紫の目からぼとぼとと、生理的な涙を生んで、土の肥やしにしていく。
樫美夜の手首と競り合っていた手は掴み返され、あらぬ方向に折れていた。それだけじゃない。おそらく手の骨にもひびがいくつも入っているだろう。芥田の手は無力化された。
そして、刺すように樫美夜の親指が芥田の喉に突き立つ。芥田はかはっと空気の塊を吐き、目玉が半ば飛び出るくらいに、目を見開いた。瞼は痙攣して正常に動かない。意識もほとんど飛んでいた。がくがくと震えることしか、もう芥田にはできない。
呼吸ができているのか、全然わからない。次第に前後感覚がなくなり、上も下も右も左もわからなくなっていく。メリーの声さえ聞こえなくなって、夕焼けも桜も見えなくなって。
「ごめん、待たせたね」
愛桜のその声だけが、やたらはっきりと聞こえた。




