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メリーの空間では、怪我は負うが、死ぬほどの怪我を負っても死なない。死なないが普通に痛い。
人が最も恐怖するもの。それは痛みである。わかりやすい感覚器官への訴え。それは体も心も簡単に傷つけることができる。
メリーの信念は芥田を苦しめるやつには芥田に与えた以上の苦しみ、兆倍の苦しみを刻み、精神を瓦解させることだ。芥田がそんなことを望んでいないことは知っている。これはメリーのエゴでやることだ。だから、芥田は過程を見る必要はない。それゆえの異空間での裁きなのである。
メリーの空間を出たら、精神を病んで廃人になるように。その廃人になった過程を気取らせないことが、芥田を犯罪や怪異を悪用する裁けない罪から遠ざける方法だとメリーは頭を回していた。
しかし、人間のメンタルというのは、その信念や妄念が強ければ強いほど、折れにくい。廃人になるまで痛めつけるのがメリーの成すべきことである。
そのため、ドロップキックで鼻の骨が折れた程度では怯まない樫美夜とはあまり相性が良くなかった。
だが、体術においてはメリーにアドバンテージがある。愛桜曰く、樫美夜は極度の運動音痴なのだ。頭は悪くないだろうが、おそらくメリーの次の挙動がわかっても、それに対処するための身体能力がない。そのために、少女のドロップキックをもろに顔面で受け止めてしまうのだろう。
だからその差を怪異殺しである影の守り人を従えることによって埋めているのだ。
だが、ここは桜の木が植わっている屋外。影の守り人は閉じ込めて能力を殺すという最大のアドバンテージを発揮できない。対人戦においては多少動けるようだが、視聴覚室という固定位置に引きこもっているために、時には荒くれ者と対峙して懲らしめるメリーと比べて、動きが鈍い。充分強くはあるが。
この空間で怪異殺しの影の守り人がメリー本体を殺したら、メリーの存在そのものが消えるだろう。それは樫美夜がこの空間から無事に出るためには、影の守り人にメリーを殺してもらうしか方法がないということだ。
影の守り人の攻撃を掻い潜りながら、樫美夜に痛みを与え続け、廃人状態にする。なかなかにハードな課題だ。
それが、メリー一人なら。
影の守り人はすぐ身を翻し、樫美夜に危害を加えようとするメリーに襲いかかる。今度は胴体を狙い、仰け反りも飛び退きも許さない絶妙な高さの攻撃。
だが、女性であるメリー、幽霊であるメリーは通常の人間よりも身軽であり、体術に優れていた。常人離れした跳躍で、止まった影の守り人の鎌の上に降り立つ。そこから更に跳び上がり、宙返りをすると、影の守り人の脳天目掛けて足を落とした。ここはメリーの空間。メリー自身の身体的な重さは自由自在に操れる。
影の守り人が頭を抱えて蹲った。無理もない。人間だってそういう反応をするであろう威力の攻撃だ。
一瞬でも影の守り人を戦闘不能に陥れたなら、樫美夜に迫るチャンスだ。そのチャンスを逃すメリーではない。
影の守り人を踏み台にして、樫美夜の方へ向かう。狙うは首。樫美夜は痛みではどうにもならない。たぶんグロテスクなことをしても平気だろう。メリーの強みを潰してくる、ある意味樫美夜自身がメリーという怪異殺しだった。
ただ、ここはどんな傷を負おうと死なない空間。樫美夜の処遇については、まず首を落としてから考えれば良い。それに影の守り人は樫美夜の影を媒介に動いているようだし、樫美夜を殺れば、影の守り人も封じられる。
メリーは景気よく樫美夜の首を吹き飛ばした。
が。
「っ!?」
右足に影の守り人の影が絡みついた。本能的に危険を察知したメリーは、右足をどうにかされる前に自分で切り落とす。言うまでもなく、メリーは地面に崩れ落ちることとなった。ほぼ同時に樫美夜の体も崩れる。影が小さくなったため、影の守り人は縮んだ。
「痛み分けだよ」
首だけになって転がった樫美夜がメリーに告げる。メリーはそちらに振り向き……にこ、と笑った。
「何か勘違いしていらっしゃるようですけれど、いつからわたしが一人きりだと思っていたんですか?」
「え?」
きょとんとした樫美夜の首が誰かに持ち上げられる。ずり、と眼鏡が落ちて、真っ赤な目が現れ、夕陽に目を細めた。
首だけなので、振り向くことができない。自分を抱えているのは誰か、樫美夜にはわからなかった。メリーは片足をなくして歩けず、ぺたん、と地面に座っている。メリーと対象者以外、この空間には入れないはずなのに。
「樫美夜先輩、お久しぶりです」
その声に樫美夜はぞっとした。体がくっついていたら、鳥肌を立てていたことだろう。
どこか年不相応に妖艶でいて、少女の声。樫美夜先輩、と呼ぶ人物を樫美夜は一人しか知らない。この声を聞き違えるはずもなかった。
「愛桜クン……」
「ピンポーン。忘れちゃったのかと思いましたよ。何せ、自分が殺した人間の名前ですからね」
あ、と愛桜が付け加える。
「別に殺されたことそのものは恨んでいませんし、怪異になったこと自体はわりと楽しんでますよ。それでも、許してはいけない一線というのが人間にはあって、私自身がその裁定をできないから、樫美夜先輩を真っ当に警察送りにしようとしているんです。人殺しは子どもでもわかる犯罪行為ですもん。死者が許す許さないんじゃないですよ。社会が、人間が蠢く世界が、許さないんです」
先輩は頭がいいからわかりますよね? とどこか子どもに諭すみたいな声で愛桜は言う。
「生きてても仕方のない人間だったかもしれないけど、私だって、未来は当たり前に来ると信じていた。先輩と一緒にオカルトを知り尽くす旅だってしたかった。平和ボケしてると揶揄されるこの国でなら、そういう未来を当たり前に享受できるって、信じていたんです」
馬鹿ですよねー、という間延びした愛桜の声がゆうやけこやけに溶けていく。
「あのとき、警察に通報して、犯人捕まえてもらえばよかったんですよ。犯人が捕まらなくとも、桜の下からごろごろ出てくる死体を弔うことくらいできたんです。そんな当たり前の良心が、先輩にはなかったんですね」
「愛桜クン、僕は」
「間違っていた、とか言っても、司法は許してくれませんよ。彼女たちもね」
そう言って、愛桜は。
ぐちゅり、と樫美夜の頭から目玉をほじくり出し、その目玉を桜の木の下の髑髏たちに放った。




