あ
「……い…………せん………………先輩、先輩!」
慣れ親しんだ声で樫美夜は目を覚ました。目を開けると、開け放たれたカーテンから零れる日差しに目が眩んで、それをバッグに可愛い後輩がいるのを認識した。
「あ、先輩やっと起きたー。もう、ここが視聴覚室ってこと、忘れてません?」
目元の隈がなければさぞや美人なことだろう少女は、樫美夜の属するオカルト研究部の唯一の実働部員、愛桜だ。フルネームは覚えていない。覚えなくていいですよ、と愛桜から言われた。
ここは学校の視聴覚室。そんなことは樫美夜が一番よく知っている。視聴覚室はオカルト研究部の部室なのだから。
どうやら樫美夜はうたた寝をしていたらしい。目を何度かぱちくりとして、愛桜に微笑む。
「ああ、愛桜クン、来たのかい」
「来たのかい、じゃないですよ! そりゃ日直の仕事で遅れたのは私ですけど、視聴覚室を密室にして寝るのはどうかと思いますよ、先輩」
「学校の七不思議『影の守り人』のことかい? オカルトに通ずる者としては、遭ってみたいものだけれど」
冗談交じりに笑うと、愛桜の纏う空気が少し異様なものとなる。
年齢不相応の妖艶さ。年齢不相応なところから来る危うさ。脳をぴりぴりと刺激する危ない物質が放出される愛桜の眼差しは、とても一介の女子高生が醸し出していいものとは思えない。
彼女はずいっと樫美夜に近づき、樫美夜の顔とゼロ距離になるほどまで近づいた後、低くどす黒いようで、高揚した声を紡ぐ。
「抜け駆けは許しませんよ、先輩」
近くで見る愛桜の目は黒く、ハイライトもないのに、何故だかとても煌めいて見える。入部当初から、そんな愛桜を樫美夜は不思議な女の子だと思っていた。
まあ、幽霊部員の巣窟と化しているオカルト研究部に在籍して、実働部員として活動している時点で、普通の子とは違うのだろうけど。
人との距離の取り方がバグっているのがわかった。樫美夜はいい加減慣れてきたが、こんな美少女に急にゼロ距離になられるのは心臓に悪い。同じ思春期に相当する年齢のはずだが、愛桜にはそういう意識はないのだろうか。
「……愛桜クン」
樫美夜はくい、と愛桜の胸元を軽く押して遠ざけた。愛桜は抵抗しない。これがコミュニケーションの一環だからだ。
「そうだな。行くときは一緒だ」
「やった!」
無邪気に笑う愛桜は目の下の隈があって尚、可憐だった。
本当に可愛い後輩だ。こんな後輩ができるなんて、樫美夜は思っていなかった。そもそも、オカルト研究部は樫美夜の入部した去年の時点で衰退の一途を辿っていたのだ。先輩部員が五人ほどいたが、三年になって、受験等で忙しくなり、部活動はできなくなる、ということを樫美夜に謝罪していた。
在籍者数は多いが、その大多数が幽霊部員であり、その実態から、廃部にしようという話は出ていた。樫美夜一人では抗えない状況で、胸を高鳴らせ、入部してくれた愛桜に樫美夜は救われていた。
愛桜のオカルト狂いっぷりには驚かされている。ただ、その偏りの分、理解者はいないようで、「別に理解されなくていい」と本人は言っていたが、樫美夜という理解者が現れたことを愛桜は非常に喜んでいるようだ。
「オカルト研究部の活動の一環として、夜の学校に潜入して調査の許可とか取れないんですかね? 無断で入ると警報鳴るんでしょう?」
「物騒な世の中だからね。例外を簡単には許せないだろう」
「つまんないですねー。まあ、うちの学校の七不思議は夜限定ものがなくていいですけど。こないだ、保健室の恋人チャレンジしてちょっと会話できたのは面白かったなー」
「そんなことするの君だけだよ、愛桜クン……」
愛桜は異様なまでに怪異というものに執着していた。樫美夜と挨拶して、いの一番に聞いてきたのがこの学校の七不思議についてだったくらいだ。
「普通の人生なんてつまらないじゃないですか。でも、人は簡単に『普通』って枠組みから外れることができないし、誰一人として同じ人間はいないとしたら、誰もが『普通じゃない』ことになる、なんて小難しいことを語る世の中ですよ? そんな中で手軽に『普通』の線引きを越えられるのって、やっぱり怪異じゃないですか。だって、出会える可能性は無限なんですよ?」
「なるほど。哲学的でありながら、シンプルな追求理論だね」
怪異とは神出鬼没。いつどこに、誰の前に現れるかわからない。それを前向きに捉えれば、自分の前に怪異が現れる可能性はパーセンテージで簡単には表せないほどあるということだ。
怪異に出会った、もしくは怪異に出会って生き永らえた、という事実は「普通」から一線を画する行動だ。「異常」に自ら突き進む愛桜のエネルギーにはいつも驚かされている。
樫美夜も似たような理由で怪異の研究をしていた。けれど、愛桜ほどの情熱があるかと問われると、返答に詰まる。
樫美夜は勉強ができた。それだけで「普通」の枠組みから外れていると認定されるほどに。けれど、勉強ができることはかなり退屈だった。周りの友達でもないやつに褒め称えられても、持ち上げられても、大して嬉しくなかった。
親に褒められても、嬉しくなかった。勉強ができると、教師が解説する公式の途中で、答えが粗方わかってしまう。答えがわかる「過程」を楽しむことが樫美夜にはできなかった。だから、勉強はできても、勉強に大して興味はなかった。
樫美夜はそこで未知のもの、予想のできないものを求め、その先にあったのが怪異だった。オカルトという人が形作った人でない事象は想像がつかなくて、面白かった。
オカルト研究部に入って、先輩たちが抜けて、廃部になると聞いたとき、樫美夜はオカルトを追いかけるのをやめようと思っていた。樫美夜はそこそこのオカルト狂いだが、幽霊部員ばかりの部活動を看過できないという学校の方針もわかるし、オカルトへの興味も、進路相談の影響で失せ始めていたところだ。
ちょうどいい、と思っていたのに、それが変わってしまったのは、こんなにも眩しい後輩ができたからだ。
いつか、誰かに「気持ち悪い」と言われた自分の赤い目を肯定してくれるような、少し常識から外れた女の子。樫美夜が今まで会ったことのない人種だった。
特段、樫美夜を異性として意識していなさそうなところも、好ましかった。先輩、先輩、と色目なしに頼られるのが嬉しかった。
「うん。オカルトを体験するのなら、きっと愛桜クンと一緒に、向こう側を見に行こう。約束するよ」
「本当ですか!? 忘れないでくださいよ!」
そんな青春の一幕が、どうしてだろう、愛おしくて、いつの間にか「愛桜」という存在が樫美夜の中で肥大化していくのだった。




