え
しん、と視聴覚室が静まり返る。
正確には視聴覚室の怪異によって閉じられた空間の中だが。愛桜がふう、と深く溜め息を吐いたことで、芥田とメリーがはっと我に返る。
「何よ、そのクソ男! さっさとあんたの力で殺してやればいいじゃない!」
「そんなことで許せませんし、私はあくまで狂い咲き桜の怪異の一部に過ぎません。全員の魂に報いるためには、掘り出せるだけでも、土に還っていない遺体を取り出してもらわないと」
それを聞いて、芥田はぽん、と手を突く。
「なるほど、愛桜さんが僕にしてほしいことってそういう」
「そ。芥田にはメリーさんって強力な用心棒がいますから、先輩に殺されそうになっても大丈夫でしょう。っていうか、先輩はそれで困って、芥田をここに閉じ込めたのかも」
今、季節は秋。ゆうやけこやけが鳴り響く夕方の視聴覚室は愛桜の心象風景だ。何をどうやって愛桜を閉じ込めたのか。おそらく、七不思議の存在になったことで、樫美夜は七不思議の力をいくらか使えるようになったのだ。
愛桜の心象風景を抽出し、影の守り人の能力で閉じ込める。芥田のメリーさんはその入り口に過ぎない。
「たぶん、芥田が何かを見つけたんだと思う。狂い咲き桜のところにいたよね?」
「うん。気づいたら、メリーがいなくなってて……パンザマストが鳴り止まなくなってた」
「パンザマスト?」
「夕方に流れるゆうやけこやけのことだよ。地方でそう呼ぶ地域があるんだって」
ふふ、と愛桜は楽しげに笑う。
「鳴り止まないパンザマスト。いいね。かっこいいじゃん」
じゃあ、それにしよう、と愛桜は黒い壁に手を当てる。
「何が?」
「先輩という怪異の名前。もしくは芥田のメリーさんの名前。『パンザマストは鳴り止まない』夕暮れに人を閉じ込める怪異だ」
「なるほど」
「とりあえず、遭わせてあげないとね」
愛桜が呟くと、愛桜が手を当てたところから、めきめきと壁が壊れていく。愛桜がぐっと手を握り込むと、黒い壁は全部壊れ、元の夕暮れで止まった校舎に戻る。
その視聴覚室には、いなかったはずの人物がいる。
愛桜は芥田たちの間を抜け、その人物につかつかと歩み寄った。
「樫美夜先輩」
それは愛桜が知るより少し背の高くなった先輩だ。制服ではないスーツ姿が眼鏡によく似合っている。
「やあ、久しぶりだね、愛桜クン」
「ご健勝そうで何よりです、先輩」
愛桜が先輩と呼んだことで、芥田とメリーがばっと振り向く。黒髪短髪に黒縁眼鏡の教師。それは日本史教師の樫美夜亨だ。
「宣言通り、教師になったんですね」
「ああ。今はオカルト研究部の顧問をしている」
「蓮沼先生はお元気ですか?」
「元気元気。非常勤講師になったけどね」
「それは何より」
愛桜は樫美夜に妖艶に笑んだ。
「人は寿命通りに死ぬのが一番美しいですもの」
「おやおや、恨み言かい?」
樫美夜はちっとも効いていなさそうにからからと笑う。これくらいで揺れるような樫美夜でないことは、愛桜が一番良くわかっている。
当然、愛桜のこれは恨み言ではない。
自分のことを殺した樫美夜のことを全く恨んでいない、と言えば嘘になる。だが、オカルト狂いの愛桜からすれば、「死んで怪異になる」しかもただの怪異ではなく「学校の七不思議」になるなんて、ロマンに満ち溢れたものだ。
愛桜からすれば、あのままあの家庭でだらだらと生きて、フリーターで食い繋ぐより、よっぽど有意義な生活と言える。
まあ、死ぬときは呼吸困難で、死ぬほどつらい思いをして死んだが。それで恨み言を言うような狭量なオカルト狂いではない。
「恨み言じゃありませんよ。先輩には素敵な体験ばかりさせてもらいました。まさか怪異になる日が来るなんて。死ななきゃ経験できませんよ」
「そうだろう」
「でもね、感謝もしていませんよ」
愛桜の死を誰も知らない。樫美夜の罪が明らかになっておらず、のうのうと教師ができているのは、愛桜が死んだことを樫美夜以外が知らないからだ。
「私は怪異になるんなら、私が死んだと認識されて、私がなったと認知されたかった。だからね、私の死を隠蔽した先輩のこと、許すことはできません」
「へえ、君に正常な倫理観があるってことかい?」
「先輩は私を何だと思っているんですか」
この視聴覚室で、何度も繰り返されたやりとりだ。思い出し笑いのように、樫美夜は朗らかに笑う。
それからごめんね、と語った。
「あれは不幸な事故だったんだ。君の家に荷物を置いて、君が帰った風を装った後、放火であの家が燃えてね。あの火事で君の死体が見つからなくて、死んでしまったことにされたんだ。誰も悲しまなかったのは予想外だったよ」
「そんなの、どうでもいいんですよ。私が誰かに悲しまれるような生活していたと思います? 両親は私がいなくなって清々したでしょうよ。もう気兼ねなくやりまくりしても、誰にも文句言われないし、金も請求されないし、見つかってもネグレクトなんて非難される心配がなくなったんですから。クラスメイトだって、変人が一人消えたくらいの認識でしょう。そんなの、生きてたときからわかっていたことですよ。私が言いたいのは、そうじゃない」
告げて、愛桜は樫美夜に手を当てた。
「さよなら、先輩。生きる地獄を味わってくださいね」
ぱりん、とガラスの割れる音がして、樫美夜にひびが入り、空間が、愛桜だけを残して砕けた。




