い
らーんらら、らららら、らららららー……
ゆうやけこやけがオレンジ色の空に響く。子どもたちに、早くおうちへお帰り、と急かすように。
それはいつものなんでもない光景。
高校生ともなれば、そんなパンザマストで帰ったりしない。部活動は六時半まで。下校時刻は七時。ゆうやけこやけが響くのは五時の時報のようなもの。
グラウンドで野球部が練習をしている。彼らは日が暮れて暗くなるまで、練習を続けるだろう。校舎の上階からはブラスバンドの音が聞こえる。彼らは明かりのある教室で、暗くなってもその音色を吹き鳴らす。
ぽー、とチューニングの音が響いた。ビブラートのような音の揺らめきが感じられる。
部活動の他にも、図書委員は図書室が閉まる六時半までいずっぱりだし、生徒会室では近くある生徒会総会の準備やらが行われている。
高校生にとって、ゆうやけこやけは帰宅を促す曲ではなく「午後五時である」という知らせに過ぎなかった。
花の高校生とも言われるほどだ。パンザマストごときで遮られていては、青春を謳歌できない。
けれど、夕焼けに照らされながら、学校から伸びる坂道を下って帰る者もいる。男子制服に身を包んだ少年。いくら昨今国際結婚が一般的になっているとはいえ、その少年の金髪は、周囲を他の生徒が囲んでいたら、浮いたことだろう。とはいえ、夕映えに煌めく金糸は綺麗だった。
校舎の視聴覚室から、カーテンをめくって、一人の女子生徒がそれを見ている。
「せんぱーい、やっぱり、次の研究テーマはあの人にすべきじゃないですかぁ?」
栗毛をハーフツインテールにした目の下に隈のある女子生徒が、教室内に振り向く。先輩と呼ばれたらしいのは、眼鏡をかけたインテリ風味の男子生徒。何かしらの部活動だろうか。二人の他に、教室内に生徒は見当たらない。
「やめておきたまえ、愛桜クン」
眼鏡のブリッジをかちゃりと持ち上げ、先輩と呼ばれた彼は少々風格のある物言いで、後輩に告げる。
「彼の謎に挑んだ者、彼に因縁をつけた者、彼にいじめをはたらいた者、その全てが、精神崩壊を起こしたり、意識不明になったりしている。彼には確実に何かが憑いているのだろう。だが、手を出そうものなら、我々の命すら危うい」
「けど先輩」
がらんとした教室を示して、後輩は言う。
「このままじゃ、オカ研廃部ですよ?」
オカルト研究部。この学校では通称幽霊部と呼ばれている。
何故幽霊部などと不名誉な呼び名がついているかというと、幽霊部員になりたい者たちが所属する部活動だからだ。つまり、実質稼働している部員は視聴覚室にいる二名のみ。部員数のみで大した実績のない部活を学校は排除しようとしているわけである。
「樫美夜先輩は悔しくないんですか? 幽霊部員の巣窟にして放置しておいてから、好き勝手に廃部にしようなんてする学校の方針、幽霊部員だから関係ないみたいに行動を起こさない部員連中。ムカつきません?」
「悔しいとかムカつくとかを行動原理にしているわけではないからな。まあ、我が部が部活動に邁進しない幽霊部員の魔窟となっていることは誠に遺憾に思うが」
樫美夜の言葉に愛桜がそのそれなり整った面差しを歪めてけっという。
「こらこら、花の乙女がそんな顔をするんじゃない」
「綺麗事とお世辞ドーモ。綺麗事とお世辞で飯食えるんだったら、人間、苦労しませんよ」
「まあ、それはそうだな。だが、幽霊部員が集うのは文化部の宿命というものだよ」
「それより、さっきの金髪男子って、具体的にどんな噂流れてるんですか? 先輩が止めるってことはそれなりの情報が集まってるってことですよね」
愛桜の明察に、樫美夜はふむ、と頷く。それから、徐に口を開いた。
「彼の名前は芥田莉栗鼠。名前からわかる通り、キラキラネームだ」
「キラキラネームっていうか、リリスって確か西洋で馬鹿有名な女の悪魔の名前ですよね? どうして悪魔の名前を子どもにつけようと思うのか、親の神経が疑われるわ……」
「リリスは響きが可愛いからな」
「それにしたって女の名前を男につけますかね……はー、ヤダヤダ。普通の名前でよかったー」
「ちなみにくさかんむりに利益の利、動物の栗鼠と書いて莉栗鼠だそうだ」
「最悪すぎる」
「そう、そのキラキラネーム故に、彼はからかわれるのが常。今は名前を享受しているらしいが、彼の保育園からの知り合いによれば、彼は『リリスちゃん』と呼ばれることに大変抵抗感を覚えていた時期もあり、からかわれるたびに殴り合いの喧嘩になりそうな雰囲気になったほどだという」
それはそうだろう、と愛桜は溜め息を吐く。
愛桜も一昔前ならなかなか攻めた名前だが、愛に桜で「アイラ」と字面も発音も良いためかなりマシな部類だ。莉栗鼠は駄目だ。カタカナならまだ受け入れられたかもしれないのに、当て字である。当て字にしたってひどい部類だ。
しかも百歩、いや、千歩か万歩譲って女ならまだしも、男につける名では断じてない。だが、残念なことに、親層にキラキラネームブームの世代がいるのだろう。それか相当頭が悪い。そういうのの被害を被った一人が芥田というあの男子なわけだ。
名前のインパクトだけで既に「頭痛が痛い」と言いたくなるほどの情報量だが、話はこれからである。樫美夜が遠い目をした。
「しかし、殴り合いには発展しなかった。芥田少年は拳を握りしめることはあっても、それを相手にぶつけることのない人物だった」
「すごいですね。あたしなら、からかわれた瞬間にぶっ飛ばす自信ありますよ」
「愛桜クン、短気は損気だよ」
わかっている。例え話だ。
「にしても、芥田は懐が広いですね。前世は仏陀か?」
「だが、芥田少年が手を出さない代わり、芥田少年をからかった人物は悉く、怪奇現象に見舞われるのだ」
そう、それが愛桜がオカルト研究部の研究テーマとして芥田莉栗鼠を取り扱おうとしたきっかけの噂なのだ。
「歩く都市伝説。学校の七不思議の七つ目を握る子ども……色々言われてるらしいじゃないですか」
「さすが、部活動に参加するだけあってそこまでは調べているようだな。関心関心」
「だからこそ、なんで研究テーマにしないのか不思議なんですよ」
「理由は二つある。
一つは『研究テーマにする』という行為そのものが彼の人格を無視した行いであるという点だ。都市伝説だの、七不思議だの言われているが、芥田少年は一人の人間であり、その人権は守られるべきだ。実験台のモルモットのように扱うなど言語道断」
「人道的な理由ですね」
確かに「研究テーマ」として扱おうという愛桜の姿勢や発言は褒められたものではなかった。芥田は一個人であり、その人間としての尊厳は普通の人同様に守られるべきである。
「それで、理由は二つって言いましたよね? もう一つはなんです?」
「もう一つは、『触らぬ神に祟りなし』ということだ。オカルト研究部として成果を挙げなければならないのは、部の存続のために必須だ。けれども、芥田莉栗鼠について調べ、接触し、そのレポートを書いて提出したとしよう。それを『面白おかしく吹聴している』と芥田少年を取り巻く怪異に認識されたら、我々も被害を受けかねない。つまり危険だということだ」
どうやら、芥田が都市伝説だの七不思議だの言われている現象の裏にはそういう条件があるらしい。
「怪異に遭った人間は皆、芥田少年に何かしらの言い掛かりやからかいをはたらいた者たちばかりだ。時にはいじめと受け取れる行動をした人物も含まれている」
「いじめや言い掛かりは完全に自業自得じゃないですか。因果応報ってやつですよ」
「ただ芥田少年のフルネームを聞き返しただけの人物も被害に遭っている」
樫美夜の言葉に、愛桜はむ、と黙る。
キラキラネームを聞き間違いじゃないか、と聞き返すのは自然なことだ。聞き間違いを疑いたくなるほどあり得ない名前というのは存在する。「芥田莉栗鼠」なんてその最たるものじゃなかろうか。聞き返す方の気持ちはわかる。
だが、ただ聞き返しただけの人物が推定芥田の怪異に巻き込まれる、というのは果たして「因果応報」と言っていい事象だろうか?
怪異というのはそもそも、人間にとって利便性のあるものではない。無差別に人間を襲うから恐れられ、怪異として力を得ていくという。芥田の怪異は無差別性を持っているからこそ、都市伝説だの七不思議だのと大仰な二つ名が授けられているのだ。
芥田の怪異、と言っているが、芥田莉栗鼠が操れる怪異ではないのかもしれない。そうなると危険性は格段に跳ね上がる。
だが、愛桜はくつくつと笑った。
「だからどうしたってんですか」
愛桜は拳をぐっと握り、顔色の悪い中に隈を垂らして浮かんだ目に狂気を宿して捲し立てる。
「怪異が怖くてオカ研名乗れるかよ! こっちは愛する部活の未来がかかってるんですよ!? それほどの怪異なら、むしろ調べたいし、自分で体感したいくらいですよ。先輩はオカ研のクセにひよってんですか?」
挑発的な愛桜からの視線。それを受けた樫美夜は、一瞬きょとんとした後、ふ、と笑みを浮かべ、眼鏡のブリッジを押し上げる。
かちゃり、と音が鳴ると共に、眼鏡が不敵に煌めいた。
「そう……そうだったな。キミならそう言ってくれると信じていたよ」
すると樫美夜は視聴覚室のスクリーンに、プロジェクターの映像を映す。いつの間にか、タブレット端末が繋いであった。
時々、この先輩の行動力についていけなくなるんだよな、と思いつつ、愛桜は樫美夜を見た。
樫美夜は高らかに宣告する。
「では、部活動を始めよう!」




