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第70話 春の惑星 私はあなたと一緒に生きることにした。

 春の惑星


 愛のために。

 ……あなたのために。


 質問 愛について


 あなたは愛と言う現象をどう定義していますか?


 無重力


 よく見ればさ、世界は愛で満ちているね。


 最近、とても体が軽くなった気がする。

 それはどうしてだろう?

 自分でもよくわからない。

 でも、確かにそう感じる。

 まるで重力から解放されたみたいに体が軽い。……心が軽い。


 それはとても嬉しいことだったのだけど、私はその理由が知りたかった。

 私の体が軽くなった理由。

 私の心が軽くなった理由。


 それはいったいなんだろう?

 そんなことを私はずっと眠りの中で考えていた。


 ……深い、真っ暗な眠りの中で。

 ずっと、そんなことを考えていたのだ。


 小惑星


 あなたのことを考えると、私の胸はとても苦しくなります。


 目を開けると、そこは宇宙空間の中だった。

 永遠と続く真っ暗な世界の中に、私は一人ぼっちでそこにいた。宇宙服などは着ていない。宇宙船なども近くにはない。

 私はいつもの私のままで、宇宙の中を、まるで水に満たされている真っ暗で透明な海の中を漂っているかのようにして、ゆらゆらと、穏やかな波に揺らされるようにして、……そんな空間に一人で丸くなって浮かんでいた。

 まるで、一つの偶然生まれた泡のように。あるいは、海の表面に生まれる波しぶきの一粒の雫のように。


 私の思考は、なんだかすごくぼんやりとしていた。

 眠りから覚めたばかりで、まだ、いろんなことがはっきりと思い出すことができないような、そんな曖昧とした思考の中に私はいた。


 目の前には、小惑星があった。

 名前はよくわからなかったけど、そのごつごつした灰色をした大きな岩のような塊は、図鑑やなにかの映像で見たことのある、あの宇宙を漂っている小惑星に違いないと思った。

 そんな名前もわからない小惑星の近くの宇宙を小さな白い点のようなものがゆっくりとした速度で、孤独に、一人ぼっちで進んでいるのが見えた。

 あれはなんだろう? と思ってよく見てみると、それは一つの人工衛星だった。孤独な一人ぼっちの人工衛星。(あるいは、人工衛星ではなくて、惑星探査機とかそういう名前の機械なのかもしれないけれど……)

 私はぼんやりとした意識のまま、その孤独な人工衛星が宇宙を、ゆっくりとした速度で進んでいく光景をただ、黙ってじっと、しばらくの間、その場所から見つめていた。

 やがて、孤独な人工衛星は私の目からは見えなくなった。

 ……宇宙には、私と、それから名無しの小惑星だけが、残された。


 私は自分の目の前に浮かんでいる一人ぼっちの小惑星を見て、……孤独なのは人工衛星だけではない。私もこの名無しの小惑星も、孤独なんだと思った。

 宇宙の中に一人ぼっち。

 なんの音も、誰の声も、(あなたの声も、私自身の声も)聞こえてこない。

 私は小惑星をじっと見つめた。

 小惑星はただ、そこにあるだけだった。私のことを自分のそばに引き寄せようとも、どこか遠い場所に突き飛ばそうともしなかった。小惑星は、ただの大きな石ころみたいに宇宙に浮かんでいるだけの、衛星だった。私がこの場所にいて、あなた(小惑星のことだ)のことをじっと見ていることなど、全然、わかっていないようだった。


 私は、なんだか小惑星のことがだんだんと嫌いになっていった。

 なんでこんな場所に小惑星なんかがあるのだろうと思った。

 私は別に小惑星のことなんて好きじゃないし、もし、同じようにどこかの衛星や惑星の前で目が覚めるのだったとしたら、地球とか、水星とか、火星とか、金星とか、木星とか、土星とか、フォボスとかダイモスとか、ガニメデとかカリストとかイオとかエウロパとか、……あとは月とか、太陽とか、まあどこでもいいんだけど、そういった衛星や惑星の前で目覚めたいと思った。

 私はなんだかむしゃくしゃして、小惑星が本当に嫌いになった。

 小惑星の姿なんて見たくないと思った。

 だから私は、小惑星なんか消えちゃえ!

 と、心の中で強く思った。

 すると、私がそう思った瞬間に、小惑星はふっと、一瞬で、本当にあっという間に、(まるで最初からその場所に小惑星なんてなかったみたいに)私の目の前から消えてしまった。

 ……私は、消えてしまった、この宇宙からなくなってしまった、小惑星の消えてしまった真っ暗な宇宙空間を見て、あ、と思った。

 私は、小惑星が消えてしまったことを後悔した。

(私はすごく悲しい気持ちになった)

 でも、そのあとで私が後悔をして、もう一度、小惑星と会いたいと思っても、もう二度と、小惑星は宇宙の中にその姿をあらわすことは決してなかった。

 ……だから、私は宇宙の中で一人ぼっちになった。(孤独なのは、やっぱり私だった)


 私は、自分が確かに誰かとしっかりとつながっている。そう信じていたかった。

 ……これは、夢だろうか? それともこれは、……私の本当の現実だろうか? (夢だったらいいな。現実だったら、すごくいやだな)


 なんだかひどく疲れてしまった私は、真っ暗な宇宙の中で、できるだけ小さく丸くなって、また目を閉じて、そんなことを考えた。私は眠ろうと思った。安心できる眠りの中に逃げ込もうと思ったのだ。でもいくら待っても、私に安息の眠りは訪れなかった。なぜか私は、全然眠くならなかったのだ。


 宇宙を飛ぶ孤独な白い彗星


 ……ずっと、誰かを探しているような気がする。


 ……やっぱり、眠れない。

 しばらくして、眠ることを諦めた私が目を開けると、世界はやっぱり真っ暗なままだった。(目を閉じていても、開けていてもあんまり私の見ている風景は変わらなかった)

 私はしばらくの間、そのままぼんやりとなにもすることもなくて、そのまま宇宙の中に一人ぼっちで浮かんでいた。


 それからどれくらいの時間が経過したのだろう? (正確な時間はわからないけれど、結構長い時間がたった気がする)

 しばらくして、私はまた最初に小惑星を見ていたときと同じように、少し遠くにある宇宙を飛んでいる不思議な物体の姿を見つけた。

 ……あれは、なんだろう?

 そう思ってよく見てみると、……どうやら、それは『孤独な白い彗星』のようだった。(今度は、人工衛星ではなかった)

 私は宇宙を飛ぶ孤独な彗星の姿を見つめた。

 それは白い光の尾をひく大きな、……大きな彗星だった。


 それは、人工衛星が飛んでいった方向とは真逆の方向に向かって、宇宙の中を一定の速度で、ゆっくりと進んでいた。

 人工衛星が飛んできた方向と真逆ってことは、あっちには地球があるのかな? と、私は思った。詳しいことはわからないけれど、普通に考えれば、そちらの方向には人工衛星が宇宙に向かって打ち上げられた場所である地球があるはずだと私は思った。

 私は、宇宙を飛ぶ彗星の姿を見ながら、しばらくの間、考えた。


 そしてあるとき、本当にその瞬間、ふと私は、『地球に帰ろう』と思った。


 あの彗星についていけば、もしかしたら私は自分の故郷の星である地球に帰れるかもしれないと思ったのだ。

 真っ暗なままの、永遠の孤独が続いているような宇宙の中をむやみに動き回る気にはどうしてもなれなかったのだけど、あの白い彗星についていけばなんとかなると思った。

 あの白い彗星が、目印となって、私を地球のある場所まで導いてくれる、ような気がしたのだ。

 そんなことを考えていると、なんだかすごく力と勇気が湧いてきた。


 今すぐにでも地球に帰れるような気がしてきたのだ。


 真っ白な尾を引く彗星は、一定の速度で真っ暗な宇宙空間の中を飛んでいた。私は宇宙の中をゆっくりと泳ぎながら、そんな彗星のことを見失わないようにして、彗星のあとに向かって、進んでいた。


 それから、いろんなところを旅しながら、私はようやく目的の星を見つけた。


 そこには誰かが流した大きな涙の粒みたいな地球があった。


 私はずっと私の視界の中にあった真っ白な彗星に、ありがとう、さようならと言って、別れを告げて、(ちょっと悲しかった)それから地球に、ごめんなさい、ただいまと言って、私が遠くの宇宙から故郷の星に帰ってきたことを告げた。(真っ白な彗星は私にさようならも言わないままで、地球の横を通過して、それからまた宇宙の彼方に飛んで行ってしまった)


 ……私は、あなたのいる星に無事に帰ってくることができたのだ。


 そのことがすごく、本当にすごく嬉しかった。


 春の惑星


 私はあなたと一緒に生きることにした。


 孤独な人工衛星


 それは、まるで奇跡みたいな出来事だった。


「人工衛星って、初めてみたけど、こんな不思議な形をしているですね。それに思ったよりも、ずっと大きいんだ。人工衛星って」

 巨大な展示物として、飾られているもう現役を引退した本物の人工衛星の姿を見て、春は言う。

「そうだよ。結構実物は大きいし、どれも個性的で、面白い形をしているんだ」にっこりと笑って、芝生は言った。

 春はいろんな人工衛星の写真が載っている展示物のコーナーに目を向けた。そこには歴史上の古い順番からいろんな形をした各国の人工衛星の写真が、簡単な説明文とともにずらりと並んでいる。

 有名なものだと、スプートニクとか、カッシーニとか、ガリレオとか、あとは日本のはやぶさなんかもそこには写真が載っていた。(ほかのものもたくさんあったけど、春にはよくわからないし、よく知らないものばかりだった)

「芝生さんは、ここにある展示物の名前。全部わかるの?」春は言う。

「うん。一応わかるよ。宇宙好きだし。勉強もしてるし。あと、人工衛星だけじゃなくて、衛星とか、遠い銀河の星の名前とか、写真で見るブラックホールの姿とかも知っている」嬉しそうな顔をして芝生は言う。

「そうなんだ。すごいな」

 春は歩きながら言う。

 芝生はそんな春の少し後ろを歩いている。

 春は現在、大学の一年生。そして、芝生は大学院の二年生だった。(修士二年生だ)

 年齢でいうと春は今年十九歳。芝生は二十六歳だった。(芝生は二年、浪人していた)二人の年齢は七歳も離れている。そんな二人がこうして知り合いになったきっかけは、芝生が春の家庭教師として、春の両親に雇われて、約一年の間、春の部屋で仕事をしていたことがあったからだった。


 二人が今いる場所は春と芝生の通っている大学の(二人は同じ大学の大学と大学院に通っていた)近くに新しく建設された宇宙ステーションの記念館の館内だった。

 この場所には宇宙に関する資料や、二人がさっきまで見ていた引退した人工衛星の実物や、それに本物のもう使われていない宇宙ロケットなども、展示されていた。

 この場所に春を誘ったのは、芝生だった。(どこでもいいというから、芝生が前からいきたいと思っていたこの場所を春に提案すると、春はそこでいいと芝生に言った)

 芝生は宇宙工学を専門にしている大学院生で、もし論文や就職がうまくいけば、将来鏡はこういった宇宙関連の技術開発に関わることになるのだという。(芝生本人は人工衛星の開発に関わる仕事がしたいと思っていた)

 春が後ろを振り向いて、芝生を見ると、芝生はとても高い天井を見上げていた。春が芝生の視線を追ってみると、そこには月の周期をあらわしている天体模型が飾ってあった。(本当にすごく高い場所にその天体模型はあった)

「宇宙関連の技術は今、すごい速度で進化しているんだ。本当にすごい。本当に魅力的な分野だよ。いろんな発見も続いているし、もしかしたら、宇宙人と出会えるかもしれないし、まあ、そこまで贅沢は言わないとしても、宇宙の秘密の片鱗くらいは僕が生きている間にわかるかもしれない。もしそうなったら、すごく嬉しいよ。宇宙が本当はどんな形をしているのか、すごく興味があるんだ。宇宙は本当は広がり続けているのか、あるいは縮んでいるのか、閉じているのか、あるいは、開いているのか、多元的宇宙はあるのか、それとも宇宙は一つだけなのか、そういうことを考えるだけでもわくわくするよね」嬉しそうな顔で芝生は言う。

 春はそんな芝生の横顔を見ながら、自分の受験のころのことを思い出していた。

 あのころは、毎日のように芝生が春の横にいて、いつも一生懸命になって、真面目な芝生は春に勉強を教えてくれた。

 まだ、ほんの一年くらい前の話だというのに、それはもう随分と昔の話のように春には思えた。春は「どう、わかった?」と言って、自分に向かってにっこりと笑う芝生の顔を思い出した。それは春が、今年一年、ずっと求め続けていた風景だった。

 ……そういえばあのころ、私は芝生さんのことを先生って呼んでいたんだっけ? なんだかすごく懐かしいな。

 そんなことを春は思った。

 芝生が春の家庭教師をやめてから、(二人は同じ大学にある大学と大学院に通っているにもかかわらず)こうして二人だけで話をしたり、どこかに出かけたりすることは、今日が初めてのことだった。


 二人は昼食を取るために、宇宙記念館の中にあるレストランで食事をすることにした。

 レストラン『三ツ星座オリオン亭』の店内は結構混んでいた。

 二人は食券を買って、料理を頼む人たちの列の後ろに並ぶと、それから少し時間をかけて、食券を店員さんに渡して料理を注文して、その料理を受け取り、それから二人で座れる席を見つけて、その席に座った。

 席は窓際の席で、大きなガラスの壁の向こう側には、もう宇宙にいくことのない、この宇宙記念館のシンボルにもなっている、引退した本物の宇宙ロケットの姿が見えた。

 建物の外にある木々は赤く紅葉していて、今が秋の終わりごろの季節(冬の始まる季節)であるということを、この風景を見ている春に、思い出させてくれた。

 春と芝生は二人ともカレーを注文した。

 具のたくさん入った(星の形に切られているニンジンが特徴的だった)三ツ星カレー。(700円)

 と、手書きの看板がお店の前にはおいてあった。(おすすめ料理なのだろう)

 メニューの中にはお子様ランチもあり、その器はスペースシャトルの形をしていた。(もしかしたら、芝生さんはこのお子様ランチを頼むかも、と一瞬春はわくわくしたのだけど、そんなことはなくて、芝生は普通に三ツ星カレーの食券を買った)


「去年の今頃は、ずっと一緒でしたね。私たち」

 自分の目の前の席に座って、三ツ星カレーを食べている芝生に春が言った。

「……うん。そうだね。ずっと勉強ばかりしていた」

 水を一口飲んでから、芝生は言う。

「芝生さんは、今もずっと勉強がなりしているんでしょう。……すごいな。尊敬しちゃいますよ」春は言う。

「自分の好きな分野のことだからね。受験の勉強とはまた違うよ。それに、春くんも大学で勉強しているんでしょ? 同じだよ」

 芝生は言う。

「私は、去年ほどは勉強していません。さぼっているわけじゃないけど、普通に学んでいるだけです。あのころみたいに、必死になって、なにかを学んでいるわけじゃありません」春は言う。


「まだ、自分がどんなことを本当に学びたいのか。自分がどんな職業に就きたいのか。それがわからない。将来の自分が、大学合格したあとの今も、まだ上手く想像できないんだね。春くんは」

「はい。そうです」小さく笑って春は言う。

 自分がなにを勉強したいのかわからない。自分がどんな仕事をしたいのか、わからない。……自分がなんのためにこの世界に生まれてきたのか、……わからない。自分がどうして、生きているのか、わからない。

 後半の問いかけは秘密にしていたけど、その前半の二つの疑問はずっと受験勉強を芝生に教わっている間、春が芝生に言っていた言葉だった。

 その答えは、今もわからないままだった。

 春は勉強がそれなりにできたほうだとは思うけど、(学年の成績は毎回、上位。でも、志望校の合格判定はBだった)でもそれはただ与えられて問題を解いたり、教科書や参考書の問題を暗記する、と言った作業がたまたま春が得意だったというだけで、なにかとても強い、春の中にある意思、願望、欲求、熱意、あるいは夢、と言い換えてもいいのかもしれないけれど、そういった感情に支えられたものではなかった。

 だから春は自分が大学受験に失敗すると思っていた。

 実際に、あの少し気の抜けた、二年前の芝生に会う前の私なら、きっと大学受験に失敗して、今頃、どこか『遠い場所』に一人旅にでも出ていたのかもしれない、と春は思っていた。(本当にそうなっていたと今も思う)

 でも、芝生に出会って、春は変わった。


「こんにちは。初めまして。今日から、春さんの家庭教師をすることになった芝生です。よろしく」

 と言って、にっこりと笑った、あの芝生の顔を、春は自分が一生忘れることはないだろうと思っていた。(思っているだけじゃなくて、きっとそうだと信じていた。だってそれは、私が世界で一番好きな人の、一番好きな表情だから)

 芝生と出会ってから、春は初めて、誰かに憧れる、誰かのことを一生懸命になって追いかける、と言う感情はこういう感情なのだと知ることができた。

 それまで春は誰かに強烈に憧れると言った経験をしたことが生まれてからこれまで一度もなかった。(両親のことは尊敬していたけど、誰か知らない他人に憧れることはなかった。それに芝生に対して感じた憧れの気持ちは、明らかに両親に対する尊敬の気持ちとは違っていた)

 まあ、とは言っても、最初から春は芝生に憧れたわけではなかった。

 むしろ最初に見た芝生の印象はあまりよくないものだった。

 芝生は普通の青年であり、一応、整った顔立ちをしていて、髪型にも服装にも、清潔感もあって、真面目で、悪いことなんて絶対にしないような(虫も殺せないような)そんな、すごく人の良さそうな人に見えた。春の芝生に対する第一印象は『優しい人』だった。(まあ、だからこそ、春の両親はそんな好青年の芝生を春の家庭教師として、採用したのだとは思うけど……)

 でも、芝生はどこか個性もなくて、きている小綺麗な服装も、シンプルでぱっとしていなくて、顔もすごくかっこいいというわけでもなくて、背もすごく高いわけでもなかった。(体力もないし、話もあんまり面白くなかった)

 そんな芝生を見て、春はどうせ勉強を教わるのなら、もっとかっこいい人がよかったな、とむしろ、少しがっかりしたくらいだった。

(そんな思い出も、今となってはすごく懐かしくて、微笑ましい思い出だった)


 そんなことを思い出して、今、自分の目の前にいる芝生の顔を見てくすっと春は笑った。

「どうしたの? 春くん」芝生は言う。

 美味しそうに三ツ星カレーを食べている子供みたいな芝生のことを見て、「ううん。なんでもない」とにっこりと笑って、嬉しそうに春は言った。

 それから春は自分も、三ツ星カレーを食べ始めた。

(カレーはすっごく美味しかった)


 ある日、君が笑った。


 春はあることを決意して、今日、芝生と会っていた。

 それは芝生に、自分の秘めた思いを全部、残らず吐き出して、(それは大量に、春の心の中に溜まりに溜まっていた。忘れようと思っても、どうしても忘れることができなかった)芝生に愛の告白をすることだった。

 大きな、本当に大きなもう宇宙に向かって飛び立つことのない、引退した宇宙ロケットが見える建物と建物の間にある通路の途中で、春は、「あの、芝生さん。ちょっといいですか?」と言って芝生に話しかけた。

 春は一人でその通路の途中に立ち止まっていた。 

 その少し先の通路の上には芝生がいる。

 ほかに人は誰もいない。(そうなるまで、春がタイミングを図りながら、芝生に話しかけることを、……ずっと、待っていたからだ)


「どうかしたの?」

 相変わらず呑気な顔をして、芝生が春のほうを振り返った。

 でも、そこにいる春の真剣な表情を見て、芝生はすぐに、春がこれから、とても大切な話を自分にしようとしていることに気がついたみたいだった。

 芝生は春と同じように真剣な表情になると、ゆっくりと通路の上を歩いて、春の少し前のところまで移動をする。

「芝生さん。大切なお話があります」

 春は芝生の顔を正面から見て、そういった。

 春の顔は、真っ赤だった。それにその体は小さく、……ずっと震えていた。

「どんな話?」芝生は言う。

 その芝生の表情は、子供を見つめる大人の顔、だった。

 家庭教師をしてもらっているときに、(……そして、きっと今も)ずっと芝生が、高校の制服をきている春に向けていた表情だった。

 自分が芝生に子供扱いされていることが、春はとても嫌だった。

 高校の制服を着ている間はしょうがないかもしれない、と思っていたけれど、高校を卒業して、春が大学生になったあとも、芝生の顔や態度はなにも変わらなかった。

 春は、ずっと芝生のことを忘れようと思っていた。

 そうするべきなのだと思った。

 実際に、芝生は自分(春のことだ)のことを忘れようとしているように見えた。二人の関係は家庭教師と生徒であり、大学受験が終わったら、それでおしまい、ということらしかった。

 ……その芝生の考えは、たぶん、正しいのだと思う。

 だから、春も芝生のことをずっと忘れようと、努力をした。

 ……でも、忘れられなかった。

 ううん。むしろ、その思いは強くなるばかりだった。

 芝生と会えなくなって、連絡もあんまり取れなくなって、……もう春はどうにかなりそうだった。


 我慢するんだ。

 私たちはもう大人なんだ。

 子供みたいに自由に恋愛しちゃいけないんだ。(……自由恋愛なんて、絶対に嘘っぱちだ) 

 そう思って、春は芝生を自分の中から消してしまおうとした。

 ……でも、そうすると、春の心は『ただの空白』になってしまった。なにもない、ただの真っ白な紙のような空間になってしまったのだ。(空っぽになってしまったのだ)

 まるで自分の中から、とても大切ななにかが失われてしまったような気がした。

 その大切ななにかを失ってしまったことで、春は、その大切ななにかを失ったぶんだけ、その重さのぶんだけ、……春の心と体が、すごく軽くなってしまったような気がしたのだ。(ふわふわと、風船のように、空中に浮かぶことだってできるような気がした)

 春は、ただの毎日ぼんやりするだけの、人形のような人間になってしまった。

 ……どうして自分は、そんな風になってしまったのだろう? そう考えてみても、……春は最初、その理由がまったくわからなかった。

 でも、最近になってようやくわかった。

 それは、きっと私が芝生さんのことを、……ある日、本当に、私の願い通りに、……きっと、忘れてしまったからだった。

 あんなに大好きな、芝生さんのことを、私の中から、私自身の手で、……消してしまったからだった。(そのことに気がついたとき、春の瞳からは、涙が溢れ始めた)

 ……ずっと好きだった芝生さんのことを思い出して、……芝生さんの顔を、芝生さんの声を、芝生さんの笑顔を、……芝生さんの手を、……思い出して、……思い出して、……春は一人で、ベット中で、毛布にくるまって、大声を出して、泣き始めた。それから、ずっと、ずっと、春は、まるで小さな子供みたいに一人で泣いていた。

 ……忘れていて、ごめんなさい。

 ……本当に、ごめんなさい。芝生さん。

 そう思って、泣き続けた。

 春は本当に、この日のことを後悔していた。

 そしてもう二度と、そんな思いをしないために、春は大好きな芝生さんにきちんと自分の思いを伝えることにしたのだった。

 芝生さんに大好きですって、『愛の告白をしよう』、と思ったのだった。


「芝生さん。私は、あなたのことが、ずっとずっと出会ったときから、大好きです。だから、私と正式にお付き合いをしてください」

 春は言った。自分の思いをきちんと言葉にすることができた。(それは、何十回、何百回と練習してきた愛の言葉だった)

 その春の言葉を聞いて、芝生はすごく驚いた表情をした。

 春の思いは、きっと(いくら鈍感な芝生さんとはいえ)、こうして言葉にする前から、芝生にも伝わっていたと思う。

 でも、それでもやっぱり、芝生はとても驚いていた。

(きっと、芝生さんは、私はやがて自分のことを忘れて、誰かほかの素敵な男性と恋に落ちると思っていたのだろう。残念ながら芝生さんの思っていたようには、ならなかったのだけど……)

 芝生は黙ったまま、じっと春のことを見つめている。

「芝生さんは今、好きな人とかいるんですか?」

 芝生は無言。

「恋人はいますか?」

 春は言う。

 芝生は、やっぱり無言のままだった。

「私が芝生さんの恋人じゃ、……不満ですか?」春は泣きながら、言う。

 ……いつの間にか、春は静かに、孤独に泣いていた。(なんだか、ずっと黙っている芝生さんがずるいと思った。そう思うと、今度は、なんだかだんだんと腹が立ってきた)


「どうしていまさら、そんなことを僕に言うの?」

 と、泣いている春のことを心配そうな顔をして見ながら、芝生は言った。

 ……どうして?

 ……どうしてって、そんなの、私が芝生さんのことが大好きだからに決まってるじゃないですか。いまさらって、……あなたのことが、忘れられないからに決まってるじゃないですか? ……それなのに、どうして? なんで、……どうして、そんなことを私に聞くんですか? ……あなたは本当に『馬鹿』なんですか?

「……ときどき、心が割れてしまいそうになるんです。もう絶対に、芝生さんと離れ離れになりたくないんです。芝生さんがいなくなったら、私は『迷子になっちゃう』んです。きっと、この宇宙博物館の外にも、出られないくらい、迷子になっちゃうんです。芝生さんがいないと、私の心は、このまま、本当にばらばらに砕けてしまうのではないかって、……夜眠る前にすごく、怖くなるんです。

 ……私は芝生さんのことを愛しているんです。本当に大好きなんです。……だから、ずっと芝生さんのそばにいたいんです。私のことを、芝生さんにも愛してもらいたいって、そう思うんです……。本当に、……ただ、それだけなんです」

 泣きながら、春は言った。

 ……それから、両手で、どんどん溢れてくる涙をぬぐいながら、……これじゃあ、だめだめだ、と思った。

 泣いてばっかり。

 私はもう大人です! 全然、芝生さんが思っているような子供じゃないんです! ……って、芝生さんに言うつもりだったのに、……それを言いたかったのに、だけど、現実の私は、泣いてばかりの、甘えてばかりの、子供のままだった。きっと私は、もう、ずっと一生、大人になんてなれないんだ。……きっと。

 ……芝生さんが私を愛してくれないのなら、それでも別にいいけど……。

 私たちが離れ離れになった理由。本当の気持ち。

 それはきっと本当に私たちがお互いのことを愛しているからだと思った。お互いの人生を、大切にしたかったから、幸せな未来を壊したくなかったから、……だから私たちは、遠くに離れ離れになろうとしたのだと思った。

 ……でも、あるいは、ただ怖かっただけなのかな?

 今みたいになってしまうことが……。

 ……私は、ただ、『本気で、人を好きになること』が、……ただ、怖かっただけなのかもしれない。

 私の、大切なもの。

 私の、大切なこと。

 ……私の、……大切な人。

 ……もう、混乱している春には、自分にとって、なにが大切でなにが大切ではないのか、もうなんにもわからなくなてしまった。

 ……それは全部、芝生さんのせいなんだよ。……だから、責任、とってくださいよ。

 と、泣きながら春は思った。

 春は、芝生さんと離れ離れになってから、ずっと一人で立ち止まっていた。

 ……そして、これからもずっと一人でこの場所に、この暗くて、寒い場所に、ほかに誰もいない場所に、たった一人で立ち止まり続けるのだと思った。


 ……さようなら。芝生さん。ばいばい。と春は思った。


 でも、そんな風に一人で泣いている春の頭を優しく撫でてくれる人がいた。いつの間にか両手で自分の顔を覆って泣いていた春は、びっくりして、顔を上げて、……その懐かしい手をどけて、光り輝く世界を見る。

 すると、そこには、芝生さんがいた。

 芝生さんはいつもの、あの優しい顔で、泣いている春を安心させるように、にっこりと笑っていた。

 私の前に芝生さんがいる。

 今も、ちゃんといてくれる。

「僕も、ずっと前から、あなたのことが大好きです」

 と霞む世界の中で芝生さんは言った。

 ……それは、まるで奇跡のような出来事だった。


 私の心はどこにある?


 芝生と春が正式な恋人同士として、お付き合いをすることになったのは、そんなことがずっと昔にあったからだった。

 あの当時のことを思い出すと、春は今でも本当に恥ずかしくなってしまった。今も春は、あの当時のことを思い出して、その頬を少し赤く染めていた。

 ……でも、あのときの私にとって、それは本当に切実な問題だった。どうして、あのころの私は、あんなに必死だったのだろう? と、今考えてみても、自分でもその答えがよくわからなかった。(……自分自身のことなのに、だ)

 そのことを芝生さんに聞いてみると、芝生さんは「そんなものだよ。みんなね。自分でも、自分のことはよくわからないものなんだよ」といつものように優しい顔で笑って春に言った。(当時の自分のことは棚にあげておいて)

 芝生さんがそういうのならそうなのだろうと思って、春は納得した。

 私だけじゃない。

 みんながそうなのだ。

 自分のことは、自分でもよくわからない。(これが正解なのだと思った)

 春は視界の隅々まで広がっている、青色の空を見上げる。

 そこには、真っ白な宇宙船が、宇宙に向かって飛んでいく風景が広がっている。

 それは、芝生さんが、就職している宇宙関連の企業のチームのみんなと一緒になって開発をした、新型の宇宙船(きぼうという名前の宇宙船だ)だった。

「きっと、これから、人類はみんなが宇宙に旅立っていく時代がくるよ。今からそれが楽しみだね」と芝生は言った。

 春には本当にそんな時代が来るのか、よくわからなかったけど、芝生さんがとても楽しそうに話をしていたから、それでいいと思った。


 世界には優しい夏の日の風が吹いている。

 その気持ちのいい風の中で、春はにっこりと笑った。

 世界は上と下の一面が、青色と緑色。(余計なものは……、なにもない)

 ここはまるで天国のように、美しくて、綺麗な場所だった。


 ……そんな風に、にっこりと笑ってから、きっと私がこうして今も笑えるのは、芝生さんのおかげだと思った。(あなたが私のそばにずっと一緒にいてくれるからだと思った)

「春は宇宙に行くなら、どこの惑星に行ってみたい?」楽しそうな顔をして、もうとても小さくなってしまった、真っ白な宇宙船の飛んでいく青色の空を見上げながら、芝生は春に言う。

「どこでもいい。芝生さんと一緒なら」

 にっこりと笑って、きちんと大人になった春は、白衣姿の芝生の隣でそう言った。


 おーい! 私はここにいるよ。


 春の惑星 終わり

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