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第七話 第三の料理

 なんやかんやあったが、仕切り直して中断されてしまった地図の説明が再開された。


 挿絵(By みてみん)


 「コホン...では気を取り直して地図の説明に戻るが...さっき話した通り、我が国の南側には『神聖エールデン帝国』と呼ばれる広範な地域が存在する。そして、その帝国の南東方面...内海世界の南端にあたる一帯にお前が場所を知りたがっていた『テオス・リムネー』は存在する。』


 咳払いをして、話始めたレオは内海の最南端に位置する一帯を指で示しながら説明をした。


 「その地域は現在、『メルカートゥーラ帝国』という中継貿易大国によって支配されている。この国は我々を含む他の内海世界の国とは別の宗教を信仰している唯一の国で、その始まりは預言者を名乗る一人の商人が説いた『神の掟』を信仰した人々が当時その地域を治めていた支配者を打倒し、...『テオス・リムネー』を信仰の中心地として宗教国家を建ち上げた事に由来すると言われている。」


 何やら思うところがあるのか、先ほどまでより幾ばくか低い声だった。


 「そして時から千年数百年の長きに渡って、王朝の交代を繰り返しつつも国はその規模を拡大し続け、元々の地理的優位性とその特異な宗教が育むといわれる商才とによって、ついに現在では内界有数の貿易国としての地位を確立しているのだ。』


 「地理的優位性?」


 何やら気になるワードが飛び出したのでソフィアは思わず、またもや幼女らしからぬ反応をしてしまった。しかしレオは、先ほどのこともあり多少の動揺はまだあるが今更特段驚くことはない、という様子で特に気にとめることもなくその疑問に返答するのであった。


 「あぁ、この国は主に二つの地域...内海に面し、テオスリムネーを中心とする平野部の『西部』と、さっき話した三つの大山脈...クンルン、スメール、そして二シール...山脈に囲まれた内陸部であり盆地と高原の広がる『東部』とに分かれているんだ。そしてこの地図にはこの先が記されていないが、東端にあるクンルン・スメール両山脈の谷間には狭い回廊があり、そこを抜けると『アーシュー』と呼ばれる東方世界が広がっているんだ。そしてそこから運ばれてくる高品質な絹織物や茶器といった文化物と香料などの嗜好品といった高価な商品は内海世界各国で非常に珍重されている。他にアーシュー地方へと抜ける陸路は存在せず、北の海から東の海『オケアヌス・パシフィックム』に抜けて東方世界に行くルートも冬場は氷海の存在による座礁の危険性が高く、さらに夏場は北の海から東に向かうと強い逆風に合ってしまい中々前に進めない、という二つの問題が原因で利用するのはとても難しい。だから、東方世界からの輸入ルートを事実上独占下にしているこの国は極めて有利な貿易上の地位を持っているというわけなんだよ。」


 「東方世界か...」


 ここまで説明されて、ソフィアは今説明された構図に既視感を覚えずにはいられなかった。前世の世界の歴史上において欧州地域とアジア圏を結んだとされる『絹の道シルクロード』、そしてその中間を支配したイスラーム圏といった構図は中世の欧州世界を形作っていた大きな要因だった。そして、どうやらこの世界でも似たようなことが行われているらしい事が今の説明から見て取れた。


 「(やはり、どこの世界だろうと人間の営みには変わりはないという事なのか)」


 この事実にソフィアは嬉しいような、どこか残念なような二つの感情が入り混じった複雑な心境を抱くのだった。


 「さて、長くなってしまったが取り敢えず今日は地理の勉強はこの位にして、遅めの昼食にするとしよう。よく考えたら昨日から食事をとるのをすっかりと忘れていた。中途半端な時間だが、夕食にはまだ時間もあることだし軽食だけでも取りたい。」


 「あら、それでは料理人たちに急いで何か作らせましょう。私たちもこんなに長居するとは思ってなかったから昼食はまだなのよ。久しぶりに一緒にダイニングで食べましょうか。」


 オルタンスはそう言うと、呼び鈴を鳴らしてメイドを呼び出し、今からダイニングルームへ向かうから急いでお茶の準備をしてほしいという事と、料理人に言って何か軽食を作るように、と指示を出した。メイドの方は指示を受けるとすぐさま退室し、急ぎ足で廊下を歩いて行く足音が微かに聞こえた。


 「さて、それではこれを片づけて私たちも行くとするか。」


 レオはそう言って、机の上に広げた地図を手に取り、クルクルと巻いて紐で閉じると立ち上がって自分の執務用の机の引き出しに片づけた。


 「さ、行きましょう」


 ソフィアとオルタンスも一緒にソファから立ち上がり、来た時と同じく手をつないで扉の前まで行っているレオの後ろについてダイニングへと向かった。






 彼らが着くとすでに、部屋の中央にあっていつも彼らが食事をとっている長机の上にティーセットなどの食器類が並んでいた。席に着くと、メイドがポッドを載せた台車を押して部屋に入ってきて、レオ、オルタンス、ソフィア、といった順番で各自のカップにお茶を注いだ。いつもの事だが、この国では食前に紅茶やハーブティーなどを飲む習慣がある。消化を良くするためだったり、食べ過ぎを防ぐためだったり、その時々で理由は色々とあるが葉の効用で健康を維持・促進するという考えからきている習慣のようだった。ソフィアとしては、「まぁ前世でも食前にコーヒー等を飲む習慣の国も多かったから特に違和感は感じない」という程度でむしろこの習慣を好んでいた。


 お茶を飲んでみると、フローラルの香りとほんのり甘いりんごの風味が口に広がり、どうやらカモミールティーらしいという事が分かった。


 「あら、とっても美味しいわね。どこの産地のものかしら。」


 「これは先日、私が皇都から戻る際に皇室御用達の茶葉商人から購入したものだ。オルタンスは昔から紅茶の茶葉とハーブティーのハーブだけには口うるさいからな。」


 「まぁ!それではまるで私が他の事には無頓着な女みたいな仰り様じゃありませんか!ひどいですわ!...ふふっ」


 二人はお互いに会話を楽しんでいる様子であった。特にいつもにこやかなオルタンスだが、今日は一段と笑顔に磨きがかかっている気がする。まぁ、久しぶりに夫とまともに会話できているのだから気持ちが高揚するのも無理はあるまい...と、ソフィアはカモミールの香りを味わいながら二人の様子を観察していた。


 「(それにしても、カモミールを飲んでいたら甘いものが食べたくなってしまったなぁ)」


 カモミールは甘いリンゴの風味がする、とは言ったが風・味・は・あ・く・ま・で・風・味・である。ソフィアにとってその味は率直に表現すると、リ・ン・ゴ・と・花・の・香・り・が・つ・い・て・い・る・お・湯・、という身も蓋もないものなのであった。


 そうこうしていると、食事が運ばれてきた。まず先ほど飲んでいたカップが下げられ、水で希釈したワインが注がれているグラスがそれぞれの前に並べられた。念のために言っておくが別にこれはアルコール中毒だからという訳ではなく、単純に水は衛生の悪さからそのままでは飲めない...現実に汚いかはともかく、少なくとも観念上の問題として...からだ。現実でも19世紀や場合によっては20世紀まで水をそのままでは飲まないという地域が多かったのだ。中には『水を飲むなんて非常識で頭のおかしい行動だ』という人や更には『動物と違って、人間は体の構造上、膝を曲げなければ川から水を飲むことはできず、そのような苦痛(膝を曲げること)を生じる現象を自然なものとして神が我々を作ったとは考え難い。』などという事を大真面目に言う科学者までいたそうだ。だから、異世界と言えどまだ浄水処理の技術が発達していないであろうこの世界で純粋な水を飲まないのは何も不思議な事ではないのだ。少なくともソフィアはそう考えていた。


次に、食事が並べられていく。現在時刻は三時であるからと指示した通り軽食の名にふさわしいものであった。献立としては、季節の野菜中心で兎肉が少々入った軽めのスープやタマゴサラダが副菜として、肥えた去勢鶏のパテを主菜としたものでありどれも量はすこし控えめであった。そしてそれをマンチット(白パン)風のパンを各々の食べるサイズに切り分けたものを主食として食べたのだった。どれも、腕のいい料理人がよりを掛けて作っているだけあって軽食であっても大変美味であった。


 しかし、ソフィアが最も好んだ料理は主食の白パンでも、主菜のパテでも、ましてや副菜のサラダやスープでもなかった。それは、最後に訪れた『第三の料理』であった。


「おや、最後は『タルムーズ』か」


「!(おお!)」


 このタルムーズというのは、中世でとりわけデザートとして人気の高かったチーズ入りの小さなパイであった。ただデザートとはいっても現在のそれとは意味が違う。その昔、料理を食卓から下げることを『デセルヴィール(deservir)』と呼んでいた。そこから派生して食事の最後に出す料理を『デセルト(desserte)』と呼ぶようになり、これが最終的にデザートへと呼ばれるものに変わっていくのであった。つまり、この小さなパイは現在で言うお菓子や新鮮な果物を意味するデザートではないが、その他の料理とも一線を画した『第三の料理』と呼べるものであったと言える。


 そのレシピは、シャルル5世の料理長をしていたタユヴァンという人物が上流の人々に向けて製法を紹介した著書に記されている。『タルムーズに詰める上質のチーズをそら豆大に切り、溶き卵を混ぜる。次にパイ側を卵とバターに浸し...』...原文のままだと21世紀の人間には少々わかり辛いので、理解しやすいように正確に述べると、これはつまり卵とフレッシュチーズ(一般にパリに近いブリー地方のチーズ)のクリームを、卵とバターを入れてこねたパイ生地に流したものである。このレシピは、このような折込パイ生地(あるいは練りこみ)パイ生地が600年前からその製法を確立させていたという事を教えてくれる実に意義のあるものだ。…余談だが、『現代』における洋菓子のタルムーズはこれとはレシピが変わっており、クレームパティシエールとシュー生地を混ぜたものをパイ生地に詰めて焼いた甘くて美味しいタルトレットになっている。


 異世界とはいえ、このレシピをメインとして作っていた時代のプロの一品...前世では本を見て想像するしかなかった一品が今、目の前に現れた...これだけでソフィアは今までの悩みなど全て忘れ去ってしまった。今や彼女の関心は目の前の小さなタルト一つへと集中していた。


 「...(いざ、実食!)」


 彼女は小さなタルトにその手を伸ばし、それを口の前に持ってきて一通り匂いを堪能した後、意を決して一思いにそれを頬張った。


 「こ、これが...!」


 書かれた文章を見て延々とその味を夢想していた彼女だったが、実際に口にするとそこには、想像の範疇を大きく超えた美味しさが広がっていた。


 「(このフレッシュチーズで作ったクリームの味の豊さはなんだ...!それに、このパイ生地も並大抵ではない!バターの風味がこんなにも豊かでまろやかな味だというのに、サクサク感が一切損なわれていない!ここまでバターの風味を際立たせるには生地をこねる際にバターを多めに入れる必要がある。しかし、いたずらにバターの分量を増やすようなことをすれば、薄力粉と強力粉の微妙なバランスで成り立っている折込パイ生地の特徴であるサクサク感を損ないかねない、が!しかし!このパイ生地は風味とサクサク感、その両方が遺憾なく発揮されている!これは料理人が何度も試行錯誤して、その分量の『黄金比』を身に着けているからこそできる芸当に違いない!)」


 一口で分かる職人の技に、ソフィアは高揚を抑えられなかった。


「(更に、これも独自の工夫としてだろう...チーズの味のまろやかさを引き立てるために、おそらく少量のハチミツがこのクリームには混ぜ込まれている!注意しなければ気が付かないかもしれないほどの少量だが、これが在るのと無いのとではタルトレットそのものの雰囲気が大きく異なることは疑いようがない。混ぜなかった場合には塩味が強くなり、『デザート』というよりも『アントレ(オードブル)』としての印象が強くなってしまう。無論、副菜を食べた後、主菜に入る前に食欲を掻き立てるというのであれば塩味の強い『アントレ』としての方がよいであろう...しかし!今回のタルムーズは食事の最後に供されている『デザート』だ。デザートには多くの意義があるがその一つに、食事の最後に五感に満足感を与え、緊張感を解きほぐし、食事の参加者が幸せな気持ちで家や各人の部屋に帰る事を至上の目的にするという意義がある...まさにその『気遣い』こそがデザート、ひいてはすべての料理に求められる基・本・姿・勢・だ。その基本を忘れず、『料理の一部としてのデザートの役割』を守るという前提の下でここまでの逸品を出す努力をした料理人には、美食家を自称する身として最大限の賞賛と賛美の声を送りたいものだ!)」


 ソフィアは確かに、甘味が最も好きだが甘味というには少し微妙なこういった『第三の料理』の事もこの上なく愛してやまないのであった。

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