第六話 幼女の皮を被ったおじさん
2020/08/26更新 内海世界の地図を挿入しました!
「?...そうか、ならば説明を始めよう。」
レオは、一瞬何かに驚愕した様子のソフィアを少し不思議そうな顔で見つめていたが、すぐに気を取り直して地図の方に向き直り、説明を始めた。
「まず、見ての通り『内海世界』とは『超大陸エデルグリラ』に東西南の三方を囲まれた南北に伸びる『内海』を中心として、東を『クンルン山脈』、南東から南にかけてを『スメール山脈』、そして北西から南にかけてを大陸を南北に縦断する最大の山脈『ニシール山脈』に囲まれた地域一帯の事を指す。そして私たちが住んでいるのは、内海世界の北西部にあたるこの国...『ウラノス皇国』の南部に位置するエフェレシア地方だ。」
「クンルン...スメール...ニシール…エデルグリラ...ウラノス...エフェレシア...」
ソフィアは、地中海を縦にしたようなこの地域図を見ながら、初めて聞く異世界の地名を忘れないように小さな声で何度か復唱していた。レオとしては小さい子に教えるにはまだ少し早いだろうが取り敢えず言っておくか...といった感じで、覚えてもらうことを期待して説明していたわけではなかったのだが、目の前で熱心に地理を覚えようとする幼い娘のその様子を見た彼は感心し、ならば...と予定していたよりも少し細かに説明をしてやることにした。
「そうだ、そしてその南にある国が『フォティア公国』で更に南にあるのが、『アルボルン大公国』、これら二国の周囲には他にも多くの小さな国々...『諸侯領』が存在するが、これら三者を合わせて『神聖エールデン帝国』と呼ばれている。...国の中に国があるだなんて考え方は少し難しいかもしれないが...理解できるかい?」
レオは熱心に教えようとするあまり、子供には少々難しい事を言ってしまった...と少しバツの悪そうな顔をしてそう尋ねてきた。が、目の前にいる幼女は見た目は幼女でも中身は立派なおじさんである。それも歴史や政治には造旨が深い元学者のおじさんだ...当然理解できない筈はなかった。
「はい、要するにフォティア王国、アルボルン大公国、そして諸侯領...の三者は、『皇帝』という共通の最高権威者を持ちながらそれぞれに自治権を有する『領邦国家』であり、『神聖エールデン帝国』というのはそれらの国々によって構成されている国家連合...ないし権威者と概念を共有する複合国家または地域の名称...といったところでしょうか?」
机の上の地図を見て指さしながら、何食わぬ顔で平然と言い切ったソフィアであったが、言い切った後に顔を挙げてみると両親が唖然としてこちらを見ているのに気が付いた。少し微妙な雰囲気に困惑しているとレオが一間を置いて大層不思議そうに口を開いた。
「あ、あぁ...その認識であっている...あっているんだが...一体どこでそんな事を覚えたんだ...?」
「あ...(...し、しまったぁぁぁぁぁっ!!)」
この時ソフィアは、迂闊にも自分が物を知らぬ幼女という事を忘れてソフィアが知りえない筈の知識を用いて、あれこれと話し過ぎてしまった事に遅まきながら気づき、心の底から後悔した。数年間子供を完璧に演じてきた自分が尻尾を出す筈はない...という慢心と油断がいつの間にかできており、それが原因でここにきて最悪の形で馬脚を現す事になってしまったのだった。
「オルタンス、お前がソフィアにこんなことを教えたのか?」
「いいえ?私はソフィアにおとぎ話や童話、それに簡単な伝承の読み聞かせはしましたけど政治や地理に関することなんて教えた憶えがありませんわ...ですから、私もソフィアがどこでこんな難しい言葉を覚えてきたのかさっぱり分からなくて困惑しているのです...」
「(あぁ...最悪だ、頭がくらくらしてきた...)」
傍から見れば教えてもいない事をすらすらと話す幼女など奇妙な対象でしかないだろう。それにこういった科学が未発達で宗教権威が強そうな世界では、この手の奇妙な子供は忌避の対象になる可能性があり、貴族の子弟と言えどもよくて修道院送りという名の無期懲役か、悪ければ魔女狩りの対象として処分されることもあるという事を歴史を勉強したソフィアは痛いほどよく理解していた。だからこそたった今、自分が犯したミスは致命的なものになりかねない危険性を孕んでいることもはっきりと認識しており、それゆえに思わず気分が悪くなる程の緊張にさらされているのだった。
「ソフィア、いったい誰にそんなことを教えてもらったんだい?世話係の乳母か?それとも他の使用人の誰かに聞いたのかい?」
「えーと、それは...」
ここで選択を誤れば身の危険が生じかねない、と考えたソフィアは何か突破口はないかと、必死に頭を巡らせて遂に、これだ!という一つの妙案を思いついたのだった。
「それは...ごめんなさい!実はわたし、お母様たちの目を盗んで勝手にお父様の書斎に何度も入ってたの!...それで、あそこの本棚にある本を見ていて...むずかしいご本ばっかりだったけど、字はお母様に教えてもらって少しは読めるようになってたから...」
「何!?」
これはもちろん嘘である。ソフィアは今まで一度もこの部屋に入ったことはなかったし、本棚の本も読んだことはあるか何が蔵書されているのかさえ知らなかった。
しかし!今さっき部屋に入ってきた時に部屋の中を見渡した際、彼女は今自分たちがいるのと反対側の壁側にある本棚の中に『Politique(政治)』や『Le Prince(君主論)』といった政治に関する単語が入ったタイトルの本が並べられている本棚を見つけており、その事を思い出した彼女はそれを活用した必死の言い訳を思いつき、見事な演技でその嘘をあたかも『知られたくなかった真実を知られてしまった...』といった苦々しい様子で打ち明けたのだった。
「それではお前は禁じられていたにも関わらず!この部屋に忍び込んで、あそこにある本棚の本を読んでいたというのか!」
「ご、ごめんなさい...でもどうしても色んな本が読みたくて...それに、この部屋に来ればお父様の事が何か知れるんじゃないかなって、思ったから...ぅう...勝手なことをして本当にごめんなさぃ...」
ソフィアは泣きそうな顔でそういい切ると、堰を切ったように涙をポロポロと流し始め、次の瞬間には両手で顔を覆って嗚咽を漏らし、大泣きを始めてしまった。
「あ、いや、その...確かに言いつけを守らなかったのはいけないことだが、別にお前を責めている訳じゃないんだ...つい、キツい言い方をしてしまっただけで...」
レオは目の前で娘が急に大泣きし始めてしまったので、思わず狼狽しどう慰めていいのかもわからず、すっかりと困り果てた様子であたふたとし始めた。
「あぁ...!どうすればいいんだ...オルタンス!何とかしてはくれないか!」
「まったく!こんな小さい子に対してあんなに強く怒鳴りつけたりしてはいけないに決まってるでしょう!...よーしよし、ソフィア~いい子だから泣き止んでちょうだい...ほら!アナタも何とか仰ってくださいな!」
「お、おぉ!ソフィア、本当にすまないな...ソフィアはただ本が読みたかったのと、長らく不在にしていたこの父の事を知りたかっただけなのにまるで悪戯を叱りつけるような言い方をしてしまって...どうか仕事ばかりをしていてお前の気持ちを気にかけてやれなかった父を許してほしい...」
普段の威厳をすっかりと失ってしまったレオは、おろおろとしながらオルタンスに助けを請い、彼女に叱られながら何も言い返すこともできず、叱られた子供のようにしょんぼりとした様子でソフィアに謝っていた。
「っぐ、ひっぐ...怒ってないの...?」
「あ、あぁ!もちろんだ!なぜおまえを怒ろうものか!むしろこの私こそお前に叱られてしかるべきかもしれないというのになぁ...ソフィア、本当にすまなかった。これからは執務の時以外はいつでも自由に本を読んでくれて構わないし、私も極力お前に寂しい思いをさせないようにするつもりだ...だから許しては貰えないだろうか...?」
「え、ほんとに!とっても嬉しい!ありがとうお父様!」
レオから謝罪と、本の自由閲覧権まで手に入れたソフィアは、さっきまでの大泣きがまるで嘘だったかのように晴れ晴れとした笑顔でそう言い、それを聞いたレオもオルタンスもほっと胸を撫でおろすのであった。
...もうすでにお分かりかもしれないが、大泣きしたのは勿論ソフィアの演技であった。つまるところ『うそ泣き』というやつだ。彼女は先ほどまでのやり取りを通して、レオが最初の公私の別のない堅物という印象に反して、娘に対する一定の情を持つ私人としての顔を持ち合わせていることに勘付いていた。
そして彼女は前世において、いつの時代どこの国でも娘を持つ多くの父親が理屈抜きで、自分の『娘の涙』にとても弱く、それが原因で家庭内において何度も煮え湯を飲まされる事になっているらしい、という事を娘を持つ多くの知人や、歴史上の人物たちを見てよく知っていたのだった。...そしてそれは、家を空けることが多く子供に寂しい思いをさせている、という負い目のある父親にほど効果的である事が多いのだということも...
これを使い古された陳腐な手段と鼻で笑う者は多いだろう...しかし彼女は、『有効な手段であるから多用されるし多用されるからこそ陳腐になるのだ』、という自分自身の座右の銘に従い、この方法を躊躇なく採用し、見事に『寂しい思いをした娘』という役を子役顔負けの迫真の演技力で演じて自分の父親を手玉に取ったのであった。
その結果は見ての通り上々であり、ソフィアとしては何の不満もない素晴らしい結果に終わったということは言うまでもないであろう。これはまさしく、幼女の皮を被った人生経験豊富なおじさんだったからこそ勝ち取れた勝利と言える。