第一話 生誕
【??年??月??日??】
彼が次に目を覚ましたのは、肌を突き刺すような刺激と強力な光とが急に彼を襲ってきたことによる驚きに促されての事であった。まるで深い眠りから突然起こされたかのような衝撃に包まれながら彼は意識を取り戻した。その肌を突き刺す痛みにも似た刺激は寒さだった、それは生まれたばかりの赤子が母体から外界へと出た時に感じる初めての寒さであったが当の本人にそんな事が理解できようはずもない。
彼は、何が何だか理解も追いつかないままにただ、鋭敏な神経から伝わる寒さと眩過ぎる光とに動揺するしかなかった。と同時にわが身であるのに言うことを聞かない『この体は』大きな声で泣きわめく。自分が何度泣くのをやめようとしても意思に反して苦しいほどに大きく泣き叫んでしまう...ここまでくると最早すでに彼は処理しきれない情報の渦に巻き込まれパニックに陥り、自分の自我を保つのが難しくなってきていた。
...確かに自分は死んだはずだ。死んだはずの自分がなぜこんな目にあっているんだ?ここは地獄なのか?少なくとも天国とは思えない!、と苦しみながら心中で叫びんだ。なぜか頭がふわふわしており、意識と思考がはっきりと定められない彼にはこれ以上考えるということができなかったのだ。結局、彼は何も理解する事が出来ず、次の瞬間にどっと押し寄せた疲労感と混濁した意識に包まれて再び深い眠りに落ちていくのであった...
これが彼が『この世界』において初めて体験したことであり、文字通り産声を上げた瞬間でもあったのだった。
【??年??月??日 見知らぬ部屋】
...次に目が覚めた時、前よりも幾分か意識がはっきりとしていた。それもそのはずでこの時、実は前回からかなりの月日が流れ、『この体』が自意識を形成できるようになってきていたのであった。
しかし、当の本人はそのようなことを知る由もなく、自分の置かれた状況が相変わらず理解できずにいた。
「(なんだ、いったい何が起こっているんだ?確かに私はあの時、トラックに轢かれてしまったはずだ...だというのに意識がある。それに、この感覚は間違いなくベッドの上で仰向けに寝ているのだろう。...ということは自分は病院に運ばれて助って今は病室に入院中ということなのだろうか...?)」
思考が明瞭になるにつれて落ち着きを取り戻してきた彼は、自分の置かれている状況を冷静に推察し始めた。
「(いやでも待て、今見ている天井は明らかに病院のそれではない。白を基調にしているとはいえ、天井にこのような華美な装飾を施す病院など聞いたことがない。どちらかというと、西洋風の屋敷や宮殿の一室といったほうがしっくりくるような造りだろう。)」
確かにこの部屋の造りや雰囲気は明らかに病院のものではなかった。白を基調とした天井には大小の円とその周りを装飾する金と銀色で彩られた曲線模様が鮮やかに装飾されており、円の中には何かの神話にできそうな女神や天使のような神秘的な存在が多く描かれていた。いわゆる天井画というもので、宗教色が強そうなこの天井画は恐らく中世ロマネスク様式やゴシック様式の時代か、その時代の芸術に影響を受けたルネサンス期などの後世の作品なのだろう...と彼は考えた。
「(しかし、病院でないとなると一体ここはどこだろうか...?まさか本当に天国などに来たわけでもないだろうし、最初こそ地獄のように感じられたが...どうもそういう訳でもなさそうだ。ならば一体...)」
そう考えながら、とりあえず起き上がろうとするも体に全く力が入らず起き上がれなかった。
(一体なんだというんだ...事故の後遺症で半身不随にでもなったか...?しかし、首から下の感覚は間違いなくある。足だって少しは動かせているという感覚はあるし、手だって...)
と、手を自分の目の前に持ってきてぎょっとする。確かに自分の手を目の前に持ってきている筈なのにそこには...あまりにも小さな幼い子供のような可愛らしい手が、ちょこん、と存在するだけであった。
(すぅ...落ち着け、一旦深呼吸して落ち着け...今目の前にあるのは間違いなく『自分』の手だ。しかし私の手はこんなに愛らしい、『ちんちくりん』な手などでは断じてなかった筈だ。一体...一体どうなってるんだーーっ!?)
あまりにも不可解な事が目の前に現れ、またしても大パニックに陥った。すると自分の意思とは関係なく、またしても内から湧き上がる衝動に体が支配され、大声で泣き始めてしまった。
すると、どこからか廊下を早足で歩いてくる足音が聞こえ、部屋のドアが開けられる音がすると一瞬の後に浮遊感が訪れ、抱き上げられたのが分かった。
「よ~しよし、どうしたのかな~?おトイレかなぁ?それともミルクが飲みたいのかなぁ?」
抱き上げられると不思議と安心感に包まれ、涙が嘘のようにピタリと止まった。抱き上げた者のほうを見ると、美しい金の髪をした純白の肌の女性が甘い声でそう言ってきた。
「(何なんだこの女性は、いきなり人を持ち上げてまるで赤ん坊に話しかけるような口調で...)」
そこで、ふと気づく。そう、自分は一応成人男性であり、こんなか弱そうな女性に軽々と持ち上げられるような大きさではなかった筈だ。それに付け加え、先ほど見たあまりにも小さな自分のものと思しき手...彼の中で一つの、それもどう考えても悪い冗談としか思えないような仮説が浮かび上がってきた...自分はもしかすると赤ん坊になってしまったのではないか?と。
「(いやいや、まさかそんなファンタジーな話、ある筈が...)」
そういってかぶりを振り、きっと思い過ごしに違いないのだ...と自分に言い聞かせる。しかし...ふと横を見た瞬間に彼は絶句した。
「おー、まー、おー...(Oh,My,God...)」
彼が見た先には、姿鏡があった。縁が綺麗に金で装飾された美しく豪奢な鏡だ。部屋の中世西洋風の様式と見事に調和していて部屋主のセンスは素晴らしいものだ、と普段なら賛辞のセリフを述べているところだったろうが今はそのような事を考える余裕は彼にはなかった。なぜならば、その鏡には自分を抱き上げている目の前の女性と女性に抱かれて目を丸くしている...どう見てもまだ 1 歳 前 後 の 小 さ な 子 供 が映し出されていたからだ。
「ん?何か言いまちたか?」
女性が首をかしげて顔に微笑を浮かべながら幼児言葉でそう優しく語りかけながら、彼の方を覗き込んでくる。ここにきて彼は茫然となりながらも、なぜ自分が軽々と細腕のか弱い女性に抱き上げられたのか?なぜ目の前の女性がこんな幼児に対するような話し方をしてくるのか?という疑問の答えを文字通り目にして理解した。目の前の女性は『幼児に対するような喋り方』をしていたのではなく、『本当に幼児に向けて』話していたのだ!
「...(あー、なんということだ...何かおかしいとは思っていたが、まさか本当に幼児になってしまったとは...以前はあまり真面目に神など信じなかったが、ここまで奇妙な現象を目にすると超越的存在がいることを信じたくなってきたよ...)」
彼は飛びそうになる意識を何とかつなぎ留めながらも、自分の頭がくらくらしてくるのを感じていた。もし、以前の彼が他人からこんな非現実的な話をされたらそいつの頭がおかしくなったに違いないと思っただろうことは間違いないが、今日からはそのような『メルヘン』な話にも一応耳を貸さなくてはなるまい、と彼は自嘲気味に考えて赤ん坊には不似合いな笑みを浮かべた。
「あら?笑ってるの?偉いでしゅねぇ~よちよち」
目の前の女性は目の前の『赤ん坊』が大層不満げな目をするのもお構いなしに頭をなでてくる。赤ん坊のほうとしては、「頼むからその気色悪い声音と言葉遣いをやめてくれ」と、口に出して抗議したい気持ちでいっぱいだったが、まだ未発達な声帯と口では当然ながら言葉を口にすることなど叶わず、更には手足も力がろくに入らないために、不本意ながら手を拒むこともできないまま唯々諾々と撫でられるしかなかった。
「よちよち、やっぱり『女の子』には笑顔が一番よね!とっても素敵よソフィア」
目の前の女性がそう口にし、彼が...いや『彼女』がその言葉を理解するまで一瞬の時間を要した。ようやく理解した次の瞬間、ソフィアと呼ばれた赤ん坊はとてつもない大きな泣き声をあげて、悲しいかな誰にも理解されないであろう悲嘆の涙を流すのであった。