第十七話 暇つぶしとペンのお話
【正統歴1560年 9月20日 ウラノス皇国 皇都エフェレシア侯爵家上屋敷】
...ソフィア達は上屋敷の中に入った後、三人で軽くお茶をしながら休憩していた。
他愛もない話をしながら、今後のスケジュールについて詳しく話をしていると、初老くらいの見た目の白髪の執事が部屋に入ってきて、レオに何やら耳打ちをしていた。
「...ふむ、分かった。すぐに向かうから準備をしてくれ」
「了解いたしました旦那様。」
そういうとその執事は少し早足でいそいそと扉の外へと出て行った。
レオの隣に座っていたオルタンスが不思議そうな顔をして、レオに尋ねた。
「あら?まだ到着したばかりですのにどこかにお出かけですか?」
「あぁ、急な公用ができてしまってな...今から皇宮へ行く。なに、大したことではないからそう長くはならんだろうが...少し人と会う約束もあるから、帰るのは夜頃になるやもしれん。」
レオはそう言いながら自分のカップに入ったお茶を飲み干し、席から立ち上がった。
「まぁ、長旅でアナタもお疲れでしょうにご苦労様ですわ...夕食はどういたします?外でお召し上がりになってきますか?」
「いや、晩餐までには帰ってくるようにする。屋敷で食べるよ。」
「では、そのように料理人達に伝えさせておきますね。あと、前にも言いましたが私もこの後、何名かの方々に挨拶回りをしに行ってまいりますので...」
「あぁ分かっている。久しぶりに皇都へ帰ってきたのだから、積もる話もあろう。特に皇王妃殿下にはよろしく申し上げておいてくれ。」
「はい。承知いたしましたわ。」
そうして二人の会話が終了すると、レオはソフィアの方に向き直って、
「ソフィア、私たちはこの後、少しのあいだ屋敷を空けるが何も心配することはない。エフェレシア領の下屋敷からお前の世話をいつもしている何名かの使用人達も同行させているし、この上屋敷のメイド達を取り仕切っているメイド長や、執事長にも我々の留守の間、お前の事をよろしくと頼んである。今日は自室で本を読んだり、邸内の散策でもすると良いだろう。我々もできるだけ早く帰ってくるようにするから大人しくしているんだぞ?」
「はい、お父様たちもご公務やご挨拶まわりなどに行かれる際には道中お気をつけて。」
そこで、レオは少し笑った。ソフィアが気になって首をかしげていると、レオがそれに気づいて返答してきた。
「ふっ...いや、ありがとう。何、別にお前がおかしなことを言っている訳ではないのだが、ここは一応、宮殿の敷地内なのだ。非常に広いから『皇宮』とは少し距離が離れているが、それでも敷地内に張り巡らされた道路を馬車で行けばものの数分で見えてくる距離ではある。」
「え...それは...先ほどの言葉はなんとも余計な事でしたね」
言われてみれば以前はこの屋敷は離宮の一つとして使われていたというのだから、宮殿と同じ敷地内に位置していても何ら不思議ではなかった。
だが、仮にも皇王やその一族が住む皇宮と同じ敷地に屋敷を構えているなど、何度考えても途方もない事だった。
分かってはいたが改めてその現実を認識して驚いたソフィアであったが、それと同時にさっき自分が言った道中の安全を祈る言葉が少々ばかり滑稽なものに見えて、レオが笑った理由に得心がいった。
...同じ敷地内...要は庭の中を移動するのを一々心配するというのもなんともおかしな話だ。
「いや、そんなことはないよ。余計な事を言ったのは私の方のようだな...お前の言葉は有難く受け取っておくよ。...それではそろそろ行ってくる。」
「はい、行ってらっしゃいませ」
レオはそう言うと玄関ホールの方へと歩いて行った。恐らく正面玄関に馬車を用意させてあるのだろう。
そして暫しの間、オルタンスと二人でお茶をしていたが彼女もそろそろ行くというので、ソフィアは自分の部屋へと使用人に先導して貰って向かった。
長い廊下を歩き、階段を上がってまた暫く廊下を歩いてようやく自室に着いた。自室の中に入るとすでに自分の荷物は運びこまれて荷ほどきが済んでいるようであった。
メイドたちがいると思うように寛げないのでソフィアはメイドたちに部屋の外へと行くように命じた。
そして、使用人たちが部屋の外に出て行ったのを見計らい、ベッドの上に飛び込んで、のんびりと寛ぎ始めた。
「ふぅ...なんだか飽きてきたな...」
しばらくの間、ベッドの上でごろっと横になりながら本を読んでいたソフィアはそう呟いた。
そして、以前から読んでいる『この世界の歴史』の本を閉じて、枕元のサイドテーブルの上に無造作に置いた。
「部屋に居るのも飽きてきたし、まだ二人が帰ってくるまでだいぶ時間がある...そろそろ、邸内の散策にでも行くかなぁ」
そう言ってソフィアは、普段使っている自分の筆記具や便箋などが荷ほどきされて収納されている机の引き出しから、携帯用のペンとインク壺、それに手帳を取り出してポケットの中に入れた。
どんなことでも気になったことや新たに知ったことは書き留めておくという彼女の前世からの癖は今も変わらず続いている。
彼女がこれに関連してこの世界に対して抱いた不満は、紙が豊富にあるのはいいが、ペンが未だに羽ペンを逐一インクに浸して使うという非効率な筆記道具しかないという事であった。
前世でも、19世紀初頭頃になるまで万年筆は登場しておらず、それまではかの中世暗黒時代を生きた知識人や行政官も、ルネサンスや産業革命といった華々しい科学・思想・芸術の革命が起きた時代の立役者である偉人たちも、ペンやインクの質などの程度の差こそあれ、皆一様にこの不便な羽ペンを使っていたのだ。
彼らは万年筆などの便利な筆記具を知らないから素晴らしき人間の長所である『無知』と『慣れ』によって気にとめることもなく素晴らしい創作物を作り、人類の叡智を書き記していたのだろう。
だが、万年筆はおろかシャープペンシルやボールペンなどのより便利で書きやすい道具を使っていたソフィアには、書いている途中にすぐに文字がかすれてインクを付け足さなければならないこの道具が不便で仕方がなかった。
文字を書くことは『思考』をするという事にほぼ同義だ。しかし、この不便な道具はペン先でインクを溜める能力が乏しいためにすぐにインク壺につけなおす必要がある。そこで一瞬『思考』が途切れてしまうのだ。
だからソフィアは不便以上の問題をこの道具に見出していたのだが、メモを気軽に取れる道具とそれを書き記す文字があるだけでも感謝すべきだろう。紙が異様に高価だった時代もあった...というより人類史においてはそちらの方が長かった訳だし、文字が発達していない或いは存在しない『無文字社会』だって数多く存在した。
一応言っておくと、別に彼らの文明が劣っていたなど考える気はソフィアには毛頭ない。むしろ文字社会の国々よりも高度に発達した天文学や建築学を擁した無文字社会の国家も過去に存在したのだからそう言った面では尊敬の念すらある。
しかし、なんにせよ思考する際に文字が有用な道具であるのに変わりはない。文字は自分の過去の思考を長く将来にわたって記録し続けてくれるだけでなく、過去や現代の他の地域の知識人たちの思考や知識を分け与えてくれるのだ。
...話が少しそれたが、ともかくソフィアは少々不便に感じながらもその愛すべき人類の偉大な発明品を携えて、邸内や屋敷裏にある庭園の散策をしに部屋の外へと赴いた。
...それはソフィアにとっては暇つぶしの散歩程度の意味しか持たない筈だった。少なくともソフィアはそのつもりで出かけた。
しかし、この暇つぶしで終わる筈だった行動が、彼女のこの世界における人生を大きく変えるある出会いに繋がることになるのだという事を、この時のソフィアはまだ知らない。




