王妃(仮)の秘密
「本当に大丈夫?」
エメラルドの瞳が憂いを持ってわたしを映している。艶やかな髪は輝くばかりの白金、その唇は薔薇のように鮮やかで、儚げな様は朝露の妖精のようだ。同じ容貌をしているのに、どうしてこうも与える印象が違うのだろう。
「大丈夫ですって、姫様。わたしは元、庶民ですよ。丈夫だし、殺しても死にませんって」
わたしは孤児院で育った。両親の顔を知らない。母は娼婦だという話だ。堕胎されなかったのは幸運だっただろう。人気の娼婦だったらしいし、美貌を受け継ぐかもしれないお腹の子が惜しくなったのかもしれない。
お腹はいつも空いていたけど飢えたことはないし、薪は不足していたけど凍えるほど寒かった覚えもなく、大きな病気もならずにこの年まで生き伸びることができた。機嫌が悪い修道士に当たり散らされ、鞭で打たれたこともあったが、世話役のお婆さんが詩の朗読、恋文の書き方を教えてくれ、最低限の教養を身につけた。後から思えば、栄養失調にもならなかったし、酷い虐待も受けなかったので他の孤児院に比べれば待遇も良い方だったと思う。それは偶にやって来る貴族たちが結構な寄付金を落としていったからだろう。
そんなある日、他の子供と比べて器量の良かったわたしは、そんな客の一人の案内を務めることになった。わたしは青い顔をしていただろう。何しろ修道士はいつになくはりきっており、失敗したら鞭が待っていることは明白だった。しかしわたしの顔を見た相手は、わたしより遥かに真っ青な顔をした。
「王女殿下っ!」
彼は宮殿に出入りを許される結構位の高い貴族だった。そしてそいつはユーディット様の……わたしに瓜二つの王女のご尊顔を見知っていたのだ。
それからわたしの運命は変わった。
その貴族の計らいで初めてユーディット様に会った時、わたしは鏡でも見ているのかと思った。何しろそっくりで、年の頃合いもよく似ていた。姫様も同じ心持だったと思う。だがぽかんと口を開けるわたしに対し、にっこりとほほ笑んだ。
「これからよろしくね、もう一人のわたし」
ユーディット様はお体こそ弱いが、大変思慮深く、年齢の割に大人びていて、そこら辺の淑女顔負けの教養を納めていた。何が言いたいかと言うと、それだけわたしが覚えることはたくさんあった。
周りの大人は、体調を崩す姫様の代わりに夜会や儀礼に参加できるよう、高級娼婦である姉さんたちが足元にも及ばないほどの知識と、やっとこともないダンスと、数多の外国語をわたしに叩きこんだ。オノグルに嫁ぐことに決まった時は本気で殺意が沸いた。何しろオノグルの言葉は近隣のどの国とも似てないのだ。
綴りを一文字間違えただけで容赦なく鞭が飛んでくる生活にくじけそうになる度に、姫様は「負担をかけてごめんなさいね」と労り、飯を抜かれたらこっそり焼き菓子をくれた。そんな優しい姫様がいたからこそ、ここまでやってこられたのだ。
その姫様が白雪の額に皺を寄せ、珍しく険しい顔をしている。
「今から機密事項を話すからよく聞いて。現国王はこの結婚に乗り気じゃないわ」
人払いをし、わたしと二人っきりの室内で、姫様はさらに声を潜める。
「何故です? 姫様みたいな素敵な女性を娶ることができるなんて、世界一の果報者じゃないですか」
本気で首を傾げているわたしに、「優しいのね」と自嘲気味に笑う。
「身体は弱くて職務もろくにできない、取柄は若さと美しさだけの姫よ」
「そんなこと言わないでください! 姫様はお優しいし、学もあるし、高貴な血筋だし……」
「裕福な庶民なら、或いは一貴族ならそれで良いかもしれない。けれど、これは政略結婚。相手の国に利益がなければいけないわ」
「利益ならあります。この婚姻は両国の和平の架け橋だっていつも姫様仰っていたじゃないですか」
事実はどうであれ、建前はそうだ。そして姫様はその建前を事実にすべく、病身に無理を重ねてきたのだ。
「現国王は先の戦争の最前線で戦った最高司令官でもある。聞いたことあるでしょ? もし自国と兵糧が許せば、彼はこの国を征服したかもしれない」
その瞳は冷たかった。大好きな読書を楽しむユーディット様ではなく、この国を思う王女殿下の目だ。
「オノグルは戦争で多額の賠償金を得た。現国王の兄は女好きでわたしの噂を聞きつけ、和平条約に婚姻を盛り込んだ。現国王はそれに反対し、もっと賠償金を搾り取るべきだと主張したらしいわ」
「なんてこと! 姫様と賠償金を同じ天秤に乗せるなんて!」
「それだけ貧しい国なの。わたしは現国王の判断は間違ってないと思うわ。現国王は事あるごとに難癖をつけて、わたしとの婚姻を反故にし、代わりに本来の賠償金を得ようとしている。
彼は徹底した現実主義者。国のためなら肉親でも手をかける冷血な男。君主としては優秀だけど、隣国としてはこれ以上操りにくい男は居ないわね。大義名分にも、目先の欲にも左右されないのだから」
隣国の王の二つ名は、「黒豹」「軍神」と多々あるが、その一つに「兄殺しのシレークス」というのがある。平民の子で本来王位を継げないはずだった彼は、父の死後、クーデターを起こし、放蕩に耽る兄を打ち取ったのだ。
姫様の一段と低い声に、わたしの血の気も引いていく。
「こんな状況でわたしが体調を崩し、婚礼を延期すれば……」
そうだ、本来なら体調を崩したことを正直に打ち明ければよいのだ。同盟国の王なら待つだろう。身代りなど立てる必要はない。しかしそんな理屈は通用しない。王はこれ幸いと婚姻を破棄するだろう。下手すれば『理由をつけて花嫁をよこさないのは、我が国を軽んじているのか』と攻め入ってくる可能性だってある。
身体が芯から震えた。怖くないと言えば嘘になる。身代りがバレたら、いやバレなかったとしても、今度打ち取られるのはわたしの首だろう。だが……。
「お任せください。姫様の代わりを立派に務めて見せますわ」
笑え! 強張る唇に命じる。恐れを悟られてはならない。大恩ある姫様に恩を返す絶好の機会だ。この婚姻を無事に果たせば、徒に戦いを仕掛ける理由がなくなる。オノグルの王の不況を買って殺されたとしても、姫様のお命を守れる。
わたしは、わたしの愛する人たちを、わたしの育ったこの国を、守ってみせる。
「姫様も安心して、早くお体を治してください」
「違うの、これは……」
姫様は突然咳き込んだ。通常の咳ではなく血を吐くような、激しいものだ。
「姫様、しっかりしてください! 誰か、咳止めを、誰か!」
慌てて外に駆けだしかけたわたしの手を、何かが掴んだ。砂糖菓子の指には、思いがけず力があった。
「気を付けて」
ふと、手を眺めながら思う。姫様は何に気を付けろと言ったのだろうか。何を恐れていたのだろうか。震えが走り、肩を抱く。きっと夜風が寒いせいだ。
この国に嫁いでくる時に、顔見知りの侍女は愚か、衣服の糸の一筋すら持ち込みは許されなかった。敬愛する姫様もいない。わたしはこの国でたった一人。
にゃあ、と鳴く声がした。気が付けば、黒猫が寄り添うように座っていた。苦笑しつつ、抱き上げる。
わたし、姫様と違って身体が丈夫なのが唯一の取柄だけど。
「今言ったことは、わたしたちだけの秘密よ」
小さな生き物の温もりを噛みしめる。こんな小さな獣に縋るなんて滑稽だと思うけど。大丈夫、まだやれる。見知らぬ人たち、馴染みのない地。でも仲間が一人、いや一匹でもいるなら、頑張れる気がする。