新たな日常
朝が来た。新しい朝だ。
窓を開けた。冴え冴えとした空気が窓から流れ込み、余計なものをそぎ落としていくようだ。不思議と晴れやかな気分。王に言いたいことも言えたし、目標も決まり期限もだいぶ先。ふっきれた、と言うのだろうか。
「失礼します、ひ……」
起こしにやって来たドミナは、既に身支度を整えているわたしを見て目を丸くした。
「今日からわたしの侍女は二人だけでしょ。自分でできることは自分でしようと思って」
「有り難い申し出ですが、一国のお妃さまにご不便をおかけするわけには……」
「不便だなんて思わないわ」
ボタンまで留めてもらう箱入りの姫様ならいざ知らず、わたしは元侍女だ。
「窓ふきでもモップ掛けでも床の雑巾がけでも何でもやるわよ」
「やらなくて結構です!」
温厚な彼女が珍しく上げた悲鳴に、あら残念、と肩を竦める。正直、貴婦人の仕事よりそっちの方が慣れているのだが。
くれぐれも何もなさらないでください、とよくできた侍女に念を押され、わたしは朝食のために食堂へ向かった。欠伸交じりのロサが給仕したパンとスープをつついていると、元わたし付きの侍女たちがぞろぞろ現れた。数が減っているので全員集合と言うわけではない。元の三分の一くらいか。
「昨日はありがとう」
まだ城に残っていたのか、と思いつつ、笑顔でねぎらう。
「皆、素晴らしい働きだったわ。何人かの婦人にお褒めいただいたの。これならあなたたちの就職先もすぐ決まるでしょう」
「あの」
そう行ったきり、侍女たちは黙っている。スープ冷めちゃうんだけど、と思いつつ続きの言葉を待っていると。
「わたしたちをあなたの元で、もう一度働かせていただけませんか?」
あなたはわたしたちの主じゃない、と非難した気の強そうな侍女の発言に、少なからず驚く。
「わたし、お妃さまのこと、誤解していました。敵国の出身だからって、あなたを見る目が曇っていました。あなたがどんな思いでこの国に来たのか、知らなかったし、知ろうともしなかった」
彼女たちは深々と頭を下げる。
「厚かましいお願いだってわかってます。下働きでも何でもやります。わたしたちを傍においてくださいませんか」
「随分移り気なのね」
彼女たちの言葉は嬉しいと思ったし、ありがたいと思ったけど、素直に受け入れる気にはなれなかった。
「わたし、以前あなたたちに、家族が路頭に迷うと脅したわよね。
わたしはこの国で、あなたたちの身辺を保証できない。わたしに従っていたら、わたしの言葉が現実に、いえ、もっとひどいことになるかもしれない」
王は猶予をくれたけど、味方になったわけではない。一年後、わたしが磔にされるとき、わたしに付き従ってくれたものは、どうなるのだろう。風見鶏のようにコロコロ気分を変えるお嬢さんたちを守る力が、わたしに残っているのだろうか。
侍女たちは不安がり顔を見合わせている。
「家族とは縁を切ります」
先頭に立つ侍女の目は揺ぎ無かった。
「わたしには年の離れた兄がいました。優しい、優しい兄でした。厳しい父母の目を盗んでお菓子やリボンをくれたり、人形遊びに付き合ってくれたり、大きな少しかさついた手でわたしの頭をなでてくれました。
わたしは八年前、子供でした。何の力もないただの子供でした。年の離れた兄が死地へ行くのを引き止めることも、兄の葬儀をあげることも、まして、戦争を止めることなんかできなかった。
わたしには弟もいます。もう二度と家族を失いたくないし、同じ思いを他の人にもして欲しくない。
成人した今だって、自分に力があるとは思えません。敵国に一人嫁いできたあなたにとって、わたしの覚悟なんて薄っぺらなものでしょう。でも、わたしだって何かしたい。何か、できるなら」
「ありがとう」
固く結んだ、彼女の拳に手を添える。わたしの思いは、少しでも届いたのだろうか。
「一先ずあなたたちを半年間、期限付きで雇用するわ」
唇は無念そうな一本線になったが、やむを得ない。王との期限は一年。王妃とは名ばかりの吹けば飛ぶような立場でも、それまでなら、守ってあげられる。
わたしには家族がいないけど、いなくなった家族を思い続け、今いる家族を大切に守り、そんな家族と縁を切るつもりでいるお嬢さんを、家族から引き離したくない。そう強く思った。
「後のことはあなたたちの働きぶりを見て決めます」
状況を見ながら、雇用期間を延長すれば良い。目標が達成できなさそうだったら解雇することもできる。
「絶対、認めさせてみせます」
闘志に煌く瞳に苦笑いを返す。彼女たちには悪いが、どんなに努力したところで関係ない。
「では早速、一人で私室を掃除してるドミナを手伝ってあげてくれる? 啖呵きったはいいけど、正直、人手が足りなくて困ってたの。きっとこれから、ますます足りなくなるわ。よろしくね」
侍女は現状二人、うち、一人は不真面目だ。身の回りのことができるわたしだけなら問題ないが、姫様が戻った時にご不便をおかけするわけにはいかない。
「はいッ!」
気持ちの良い返事をして、侍女たちは部屋を出ていく。
「姫様はお人好しですね。もう一度チャンスをあげるなんて」
控えていたロサがぼそりと呟く。確かにあれだけ堂々とボイコットしたのに再び雇用なんて考えられない。が。
「そうね。無礼な口を叩く侍女を首にしない、自分の気の長さに眩暈がしそうよ」
彼女たちもこいつにだけは言われたくなかろう。
「えぇー、ロサのどこが無礼なんですかぁ。みんな可愛いって言ってくれますよぉ?」
「男はね。女のわたしには通用しないわよ」
きゃ~怖ぁ~い、とけらけら笑った後、侍女は指の先で目を吊り上げてみせた。
「陛下から伝言ですぅ。キサマの働き、期待はしてないが楽しみにしている」
口調が変わったのも陛下の真似なのだろうか? 微妙に上手い。
「それから、持参金の一部を自由に使って良いそうです。元手が無いと困るだろうからって。後は王室を含めた国のお金の管理している財務大臣と相談してくださぁ~い」
思っていたより、いや、なかなかの好条件ではないか。わたしもチャンスをもらえたのだ。それは、僅かな可能性を、王も望んでいるのかもしれない。
「ところで、伝言を預かるあなたって、陛下とどういう関係なの?」
「何だと思います?」
わたしは笑む女をまじまじと見つめる。
「もしかして愛人? こんな女に引っかかりそうな馬鹿な男には見えなかったけど」
「何気に辛辣ですぅ。残念ながら、いいえ、幸運なことに、ただの上司と部下。たまたま鉢合わせて伝言を頼まれただけですぅ」
あんな人遣い荒い男の愛人なんて御免被りますぅ、と自分の国の王には随分な口を叩く。
「ねぇあなた、口の利き方に気を付けた方が良いわよ」
わたしも人のこと言えないけど。
「心配してくれるんですかぁ?」
「いや、そう言うわけじゃないこともないけど」
「結局心配なんじゃないですかぁ。平気平気。この程度じゃ目くじら立てたりしませんって」
「よく知ってるのね」
「王は実力主義者なんですぅ。役立たずは切り捨てますが、国益になれば多少のことは目をつぶりますよ」
その話を聞いて余計心配になった。そりゃ髪結いの腕はなかなかだだけど。
「……どう考えてもあの侍女が役に立つとは思えないよのねぇ」
窓からの景色もすっかり暗くなり、月明かりに照らされている窓辺。わたしは日の終わりに今日の出来事を振り返り、書き記していた。午前はその後礼拝に参加し、この前の茶会のお礼状を書いた。ところで午後にこの国の名産品の資料を探しに図書館に行ったが、オノグルの言葉で書かれていたので最初の一、二ページで断念したことは書くのを止めておこう。
記す文字はエースター語を元にした暗号。簡単な暗号なので見破られる恐れもあるが、姫様と再び入れ替わった時に不審に思われないため、できるだけ詳しく書く必要がある。背に腹は変えられない。
「あのロサとか言う侍女、本当に大丈夫なのかしら。陛下の前で粗相しなきゃ良いんだけど。ドミナがしっかりしてるから、きっとフォローしてくれるわよね。他の子たちも早く名前覚えなきゃね」
取り留めない言葉は独り言でなく、わたしの膝の上にいる例の黒猫に聞かせている。書いている最中も邪魔をせず、大変行儀が良い。思えば、引っかいたり、嚙みついたり、粗相をすることもない。人に慣れているうえ、躾の行き届いている、やはり飼い猫か。
動物が「賢い」と言われるのは、獲物を狩る野性的な賢さじゃなくて人間に都合の良いかどうかだとは思うけど、賢い猫だ。
気のせいだろうか。文字を目で追っているような気がする。
気のせいだ。獣が文字なんか読めるはずがない。
「あなたのことも書いておいてあげなくちゃね」
名前は何にしようかしら、なんて声をかけつつ抱き上げようとすると、迷惑そうにするりと逃げた。
「そう言えば」
ふと思いつき日記を捲る。先週、先々週。
「やっぱりそうだ。あなた、いつも安息日に来るのね」
神より週に一度、何もしてはいけないと定められた日。わたしが信仰する救世主教ではそこまで厳密でもなく、日にちも違うけど、礼拝をする日になっている。獣のくせに信心深い。人に慣れているようだし、飼い主がその日だけ猫を放つのかもしれない。