98回目 2019/6/21
もうすぐ百回……なんですけど、そろそろつらくなってきました。
最近、ずいぶん昔に購入して読まなかったラノベを読み出した。
昔の私は、本に書かれていたあらすじだけを頼りにフィーリングで購入を決め、結構雑食な感じで本を購入していたように思う。
今は無料の『なろう』に入り浸るようになったので、新しく本を購入する機会は減ってしまったが、少し見直してみようかとも思いだしている。
というのも、ネット小説と文庫小説とでは話の進め方やテンポなどが違い、ネットでは吸収しづらい部分が勉強になると気づいたのだ。
たとえば、実質文字数制限のないネット小説では物語の進め方が性急だったり、逆に緩慢だったりする。
それと比較すると、商業作品は(内容と話の進め方における好みは別として)比較的走り気味ではあるが、それでも無駄を排除してまとめている感じは見受けられる。
私の場合は地の文が特に冗長となりやすいため、どうやって情報を削っていったらいいかの指標として、商業作品は参考にできると感じた。
まあ、私がフィーリングで購入して読んだ作品はマイナー作品ばかりなので、あまり『これがお手本!』と鵜呑みにしすぎるのは危険だろうが。
言い方は悪いが、その作品が一定水準以上……つまり商業作品として成立する最低ラインであるだけ、という可能性は高いからだ。
世間的にも『知名度が低い=売れなかった作品』である――残酷ではあるが。
と、作家目線での気づきもあったが、もう一つ読者目線としての気づきもあった。
一言で言えば、『物語の面白さと文章の好みは、必ずしも一致しない』ということ。
おそらく、私の中で好ましい文章の書き方・使い方が固まってきた証拠でもあるのだろう。
ここ最近で消費したのは数冊程度だが、設定が好みでも最後の手前でハマらない、という感覚に陥った作品があったのだが、そこで文章のフィーリングがズレたのだろう。
ネット小説を読むようになって感覚が麻痺していたのかもしれないが、物語の一区切りが明確な商業作品を読むと、より『文章の好み』は浮き出て見えるらしい。
中でもキャラ同士の掛け合い(台詞回し)と比べ、地の文の書き方がより一層その傾向が強い。少しでも引っかかれば、物語への没入が阻害される懸念材料となっている。
その引っかかりが一つでもあれば、読了後になるとその傷口は確実に広がっていることだろう。
途中で書き手が変わっているなどの特殊な例を除けば、たった一つでも気になる部分が見つかった場合、書き手の癖として同じような表現や言い回しが頻出しやすいからだ。
なので、昔より『面白い』と思える作品は減ってきたらしい、と実感する経験だったといえよう。
……どうも、わずかばかりとはいえ書く習慣と技術がついてきたからか、昔よりも『好み』の輪郭がはっきりしてうるさくなったような気がする。
自分の個性が浮き彫りになった、といえば聞こえはいいが、同時に『好き』の視野がせばまっている気もして、あまり楽観すべきではないのかもしれないと思ったりもする。
こういう批判的な思考が常だから、私は面倒くさい人間なのだろう。
改めて、自分の扱いにくさにあきれさせられた。
やっぱり、中身がすっからかんな内容でも、毎日書き続けるのってしんどいですね。




