89回目 2019/6/12
完璧ではない人間だからこそ、誰にだって苦手なものはあるものです。
唐突だが、私は短編や掌編の形式にかなり苦手意識を持っている。
ろくに完結させた作品がないため勝手な話ではあるが、私が好んで書く作品は長編ベースが多いからだ。
というのも、長編は『ある一定以上の文章量』は一律で長編となる。つまり、書き初めの私にとっては『冗長な文章になっても許される』という気楽さがあったのだ。(ただし、構成力の問題で他人に読まれるかどうかは別問題)
一方、短編や掌編になると『物語をコンパクトにまとめる力』が必須になってくる。以前にも書いたかもしれないが、私は情報の取捨選択が元々苦手だった。
考えた設定を全部出したい! というほど欲張りではないが、少しでも多く考えたネタを本編に反映させたい、と思うくらいには貧乏性なのだ。
なので、私が短編や掌編の感覚で書いても、絶対に規定分量に収まることはない。がんばっても中編くらいだし、実際『短編』で投稿している作品のボリュームは中編だ。
後は……私は作品で示したい情報を『言葉』にしないと安心できないタチでもある。
悪い言い方をすれば、読者の『空白や文脈を読む力』を信用できていないのだ。
このキャラが言いたいことは『あれこれこういうこと』で、この言葉の真意は『これこれこういうこと』、という風に、説明なしでは『伝わらない』と勝手に決めつけている。
おそらく、この考え方は『テンプレ』を苦手にする気持ちとも非常に似通っている。
『なろう』が構築してきた『テンプレ』という曖昧な世界観的な知識における認知度や理解度を信用していないのだ。
想定読者が『なろう読者層』であったとしても、それは変わらない。
私が作品を書く上で忘れられない心構えとして、『私の作品について、誰も何も知らない』という意識が大前提として横たわっている。
前回か前々回あたりで利用し、どなたかが提唱していた『なろう=同人作品群』という考え方に納得してもなお、私は自分の作品を――ひいては読者様を『信用していない』ことになる。
そこから、すべての発言や文章の意図に注釈をつけるがごとく、いろいろと説明を足していってしまい、簡単に文字数は氾濫する。
『書きたいこと』を残していくにつれて『書かなければならないこと』が増えていき、気づけばブロッコリーかカリフラワーのような感じの作品になってしまうのだ。
描写を絞るには、最低限挿入しなければならない情報以外は、作品で伝えたい重要な核心だけを本文に配置する、バランス感覚が大切になる。
それが苦手であり下手だと思っている私は、短編や掌編はとても難しいと思っている。
以前、とある自作への感想で『まるで論文を読んでいるよう』と意見をくださった読者様がいた。
すごく的確な指摘だと、作品を書いていると今も痛感させられる。
私は正しく伝わらないことを――要は『誤解』を恐れている。
だから自然と、順序立てて理屈っぽい書き方になってしまうのだろう。
想像の余地を残さない書き方は、小説における楽しみを奪うようなものでもあり、あまり好ましくないだろう。
そうして、また自分はあるかもわからない『正しさ』を自覚して落ち込むのだ。
完璧主義的というより潔癖に近い強迫観念は、今日も私の行動を鈍らせる。
いずれ、短編や掌編だけでなく、長編を書こうと思う気さえなくなってくるかもしれないのが怖い。
清濁併せ呑む中庸的にありのままを受け入れられる人間になれたら……そんな、仙人みたいな人間に憧れる私は、今日も自分の『正しさ』に追い立てられている。
なお、思うままに私見を書いていると徐々に論旨がずれていくのも、私の欠点なのでしょうね。
今回も短編や掌編の話から、いつの間にか自分のあら探しになっていますし。
そして、そんな些細なことでも自分を『ダメだ』と責めようとする自分がいることに、また落ち込みます。
おそらくは学生時代に陥った神経症の残り香でしょう……本当に、心の病とはやっかいなものです。




