80回目 2019/6/3
小説を書いている時、一つでもある部分を意識しだしたら止まらなくなります。
(今回、本文中にやや強めな毒っぽいものが入りますのでご注意を)
ただ無駄に年数を重ねてきたものの、小説を書くときの意識はだいぶ変化してきたように思える。
初心者の頃は、とにかく『量』を書いたら上達していると実感できていた。
若者特有の無鉄砲さも(当時は)あったのか、自分の作品が面白いと無条件で信じていられたのも大きいのかもしれない。
とにかくどんな形であれ、物語を進めることで物書きとして着実に成長していると思っていた。
思うがまま、感じるままに空想を見つめ、文字に起こし、『この形しかない!』と思いこんで小説を書く……それは純粋に楽しかったように思う。
しかし、ただアマチュアとしてずっと書いていると、どうしてもクリエイター目線の欲が出てくる。
より読みやすく、より面白く、より効果的に文章を使いたいと思うようになるのだ。
それが、今の私の足を大きく引っ張っている要素であると知りながら。
昨今の日本における需要として、書籍の売り上げは決していい方ではない。ただ文章を消費するだけなら、様々な無料参加型SNSで事足りてしまうからでもあるのだろう。
ただ、そうすると一般に通用する(=需要を満たす)文章はどんどんと通俗化していく。
勉強における『国語における文章読解能力の低下』が、それに表れているようにも思える。
コミュニケーションツールとしての言葉が『短文交換型』になり、より簡単に、よりわかりやすく、より限定的に書かなければ、相手へ正確に伝わらないことが増えた。
たとえば、発言者の意図をくみ取らずに私見だけで反論し、結局やりとりを見返せば会話が成り立っていない状態だった、なんてことも少なくない。(ネットのレスバトルとかが、そんなイメージだ)
他にも、文脈の前後関係を無視して、ただ強いイメージの単語のみを取り上げて攻撃する場合。これは有名人の失言問題に多く、当人に謝罪させたり世間が非難したりする様子が、年を経るごとに目に付くようになってきた。その中にはやはり、『本人の意図とは違う伝わり方』をしたものもあるだろう。
(もちろん、世間へ正しく伝わった上で非難される失言もある。だが、だんだんと世間の許容範囲がせばまってきて、時にメディアによって憂さ晴らしの標的にされたとしか思えないこともある)
私としてはそれが、日常言語の俗語化に思えてならない。『やばい(=不利な状況を指す・予感させる言葉)』とか『全然(=従来は『~ない』と続く形で全面否定の意味で使う)』とかも、最近になって肯定的な意味合いでも多く使われるようになったようなところに、傾向にが出ていると思う。
とはいえ、言葉は時代にあわせて変化・適合・消滅していく生物でもあるため、俗語化そのものが悪い、とはさすがに言わない。が、あまりいい傾向に感じないのも正直な意見である。
適切な表現かはわからないが、どうもコミュニティーごとに発生した言葉の『ローカルルール』みたいなものが定着したことに気づかないまま、言葉が使用されている気がするのだ。
地方特有の方言とはまた違う、合い言葉? のような認識の使い方を、世間一般に通じるものと勘違いしているような? ――いや、『家族・友人の距離感』を『公共の場に持ち込んでいる』、が近いか?
ともかく、全国共通の認識からはズレた形で言葉が使われ、誤認されるケースが増えた感じがする。
ただでさえ文面による言語コミュニケーションは、『非言語コミュニケーション(表情・声音・仕草など)』を廃した『人間にとって不完全な意志疎通方法』であり、『誤解を生みやすい言葉』だ。
そうした共通認識が広まってしまった現状で、私たちが目指す行動は『円滑で円満なコミュニケーション』を行うため、『認識の齟齬による問題発生を抑止する』ことだろう。(中にはわざと問題を起こし、騒動を大きくして楽しむ愉快犯もいるが、たぶん少数派だと思う……思いたい)
まるで『言論監視社会』な気分になってくるが、今の日本では案外ぴったりな表現かもしれない。
互いが互いの『信念』に従い、気にくわない文章を見つけては言葉狩りをして騒ぎ立て、非難する。
そして『信念』が賛同され市民権を得れば、発言者を特定し個人情報をさらしあげ、周囲をも巻き込んだ『私刑』をためらいなく実行できる。
それだけならまだしも、もし『私刑対象』が間違っていた場合は誰も責任をとろうとしない。自分の無知を棚に上げ、冤罪をでっち上げた自覚もなく、対岸の火事とばかりに知らぬ振りをして忘れていく。
これが法治国家として成り立っているのかどうか、甚だ疑問ではある。もはや『村社会における負の慣習』を『日本全体』で行っているようなものだ。『個人が対象の部落差別』となにが違うのか、わからなくなる。
前時代的であり陰湿で残酷な制裁を、『正しいことをしている自分』に酔って疑問すら覚えない。日本人はいつから『独裁者のいないナ○ス』になったのか?
そう思わずにはいられないほど、日本人からにじみ出る倫理観が空恐ろしくなる時がある。だから、私たちはこの『一億総イジメ社会』を生き抜くために、自衛手段を身につけねばならない。
そのために、情報発信者に求められることは何か……それは『想像の余地をなくす努力』だろう。広く誤解なく伝えるためには、一文から複数の解釈ができる言葉遣いを極力避けなければならない。
もちろん、その意識が暗黙の了解として浸透しているのならば、娯楽小説にも適応されるべき注意点になりうる……そう、『文章から想像力を働かせて楽しむ娯楽』である小説においても。
たとえば、主人公がとある男性の葬式に訪れ、その母親と和室でテーブル越しに話をすることになった。主人公から見て母親は柔和な笑みを浮かべており、ともすれば平然と息子の死を語っているようにすら見える。
しかし、ふと机から落ちたものを拾おうとかがんだ主人公は、テーブルで隠れていた母親の手を見る……しわが深く刻まれたハンカチを握った、震える手を。
これは芥川龍之介の『手巾』から拝借した概要(※細かい部分はうろ覚えのため、正確な内容ではないので要注意)だが、現代人はこれを読んで『この母親は人でなしだ!』と非難しそうな気がしてならない。
母親が取り繕った笑顔の裏に隠した強い悲しみを表す『震える手』を確認したとしても、『何で主人公に怒っているんだ?』とか言い出しそうな気さえする。
そう危惧してしまうほど、現代は可能な限り『わかりやすい文章』で書かなければ、たいていの読者が作者の伝えたいことを見失いやすいのだと思えてならない。
『唇を引き結び、眉を下げた。』よりも『悲しそうな表情をした。』の方が、『力いっぱい地面を蹴りつけた。』よりも『とても怒った様子だった。』の方が明朗秀逸とされるのだろう。それくらい直接的に書かないと、『誤解する人』の方が多くなってしまう。(例文のつたなさには目をつぶってもらう)
他にも、単純に文章が増えると情報量も多くなり『わかりにくくなる』から、『短くすっきりまとめる』配慮が必要だ。指示語が何を指すのか、形容詞が何を修飾しているのか……文字数が増えるほど把握しにくくなる日本語の特徴は、現代文の長文読解を思い出せばわかってもらえるだろう。
そうして、より多くの人々が『ストレスなく』小説を楽しむようにした最適化の一例が、『なろう系小説』なのだろう。文章表現のつたなさを批判されていることもあるが、そうしないとより多くの人が『理解して読めない』から仕方がないのだ。
私とて読書の基本は『ライトノベル』であるため、『一般文芸や文学』を読んでいる人に比べれば表現の幅は狭く、面白味もない描写しかできないので、本当は偉そうなことをいえる身分にない。
だが、平易で簡潔な短文で物語を構築しなければならないという意識を持てないと、作品が『読まれない』のは事実で間違いではないはずだ。
なので、私は『物語の巧拙』よりも『情報の取捨選択』でつまずくようになった。
これは、正解もなければ途方もない障害のように感じている。
ひたすら書いて物語を複雑化させる『文字数の足し算』よりも、短い文章で重要な情報のみに開示を絞る『文字数の引き算』に注意しなくてはならないのだ。
もともと短編に苦手意識があった私にとって、現代に見合った小説を書くことは『苦手の克服』に他ならない。
書きたいことを書いている内に気がつけば文字数が膨大になり、生来の貧乏性から一度書いた文字をなかなか消せないため、小説へのハードルは高くなる一方だ。
そんな自分の書き方を『個性』と思えない自信のなさもまた、無意識にハードルを引き上げている要因なのであろうが……。
まだ書き始め立った頃は意識すらしていなかったところが、変にこなれると気にしすぎてしまうんですよね。
場面の切り取り方、心理描写の量、戦闘描写のスピード感や迫力の演出、より適切な表現の精査、地の文で過不足ない情報開示ができているかなどなど。
気にしているのはきっと自分だけ、と言い聞かせているつもりなのですが、どうも執筆中の雑音が大きくて困ります。
他の書き手さんって、そこのところどうなんでしょうね? まあ、書きたいことを初稿でぜんぶ書き出して、後から推敲でガリガリ削るのが最短ルートだとは気づいていますよ。
とりあえず、そういう書き方が自然とできるように練習していきましょうか。




