8回目 2019/3/23
作者の致命的な弱点。
春は終わりと始まりを内包する不思議で曖昧な季節だ。
寒さと暖かさが交互に訪れ、冬を飲み込みつつも追い出そうとする。
気まぐれで気分屋で癇癪持ち。
春は子供のような気性を持つ。
春一番で己の存在を主張したかと思えば、週に何度はへそを曲げて寒雨を降らす。
かと思えばまた暖かい空気で生物を包み、まるで興味関心が刹那に飛び散る幼子のよう。
季節であれ人であれ、何かに一喜一憂されるのはあまり好ましくはない。
とは言うものの、春の気まぐれに文句を言ったりはねのけたりできるほど、自分は強くも強固でもない。
無垢なる変化の、なんと恐ろしいことか。
そこに規則性などあろうはずもなく、大人のような打算にまみれた読みやすさなど存在しない。
気にくわない、気持ち悪い、何となく嫌だ。
理屈を全て取っ払った感性に従う決定は、どんな荒唐無稽な結果をもたらそうと当人にとっては当たり前で、起こるべくして起こった結果。
さながら自然災害のように、下位存在は上位の気まぐれに振り回される他ない。
ただし、下位存在が生きる世界を上位の何かが形作っていることから、全てを反発して瓦解させてしまっては生きていけない。
春の移り気が気に入らないと、春そのものをなくしてしまえば、冬から夏へと急激な変化をもたらすことになり、温度変化に耐えきれない生き物はことごとく死ぬだろう。
安定しない時間というのは、安定させるための助走でもある。
手探りで調節して、ああ、これくらいが適当なんだなと、マニュアルのない感覚頼りのチューニングで毎年の季節は決まるのだ。
春が悪いというわけではないのか?
いや、そもそも自然現象に善悪の区別などない。
善悪貴賤、二元化する価値観は人間の思考が作り出した単純化の一つであり、思考停止の一助である。
中庸が理想でありながら、中庸を体現できる者などそれほどいるはずがない。
ありのままを受け入れる。
言葉にすれば簡単だが、実行するとなると恐ろしく無防備なまま生きることと同じだ。
良いも悪いも、賞賛も罵倒も、幽玄も無為も、すべてを等しく偏見なく飲み込み進む。
仙人もかくやという峻厳な生き様。
それに比べれば、私は何と怠惰で愚かな生き様か。
『面倒くさい』と『眠い』。
要するにダメ人間。