69回目 2019/5/23
私だけではないと思いますが、理想って見上げればきりがないほど高くなりがちですよね。
自分で書けた試しがない(少なくとも実感はない)からか、読者の感情を大きく揺さぶる感動系のストーリーを書くことにあこがれがある。
特に、物語で読者を泣かせることができれば、ある程度の技術は身についたと判断してもいいだろうなとは思っている。
それだけ読者から共感を得て、物語に没入させることができたといえるからだ。
ただ、単に『泣ける話』を書くだけであれば、割と簡単に作れる題材が存在する……登場キャラクターの『死』を取り扱うことである。
読者の涙腺を刺激する方法としては、もっともオーソドックスな手法だろう。
『死』は明確な蘇生技術が存在するファンタジー系でもない限り、キャラクターと永遠に離別することを示している。
会いたいのに二度と会えない『死』による悲しみは、年齢を重ねていけば誰でも経験しうる身近な『共感材料』であるため、そうした感情を想起させるのにうってつけのギミックといえるのだ。
感動系を書きたいだけならば、登場人物の『死』を取り扱うのがもっとも手っ取り早いのは事実である……しかし、私が書き手としてあこがれるのは『死を用いない感動ストーリー』だ。
前述の通り、世にある感動系の物語と『死』はほぼセットで取り扱われていることが多いため、逆に考えれば『死』を用いずに人を感動させようとするのは非常に難易度が高い。
キャラクターの体験を通して、多種多様な人生を歩んできた多くの読者へ共感を促し、『これは泣ける』と思わせなければならないからだ。
その点だけに注目すると、時代も国も人種も越えた人類が持ちうる価値観の中で、『死』ほどうってつけの題材はない。
残された側に生じる大切な存在をなくした喪失感や悲愴感は、程度の差はあれ誰しもが抱いたことがあるはずだ。感受性が高ければ、実体験がなくとも『もし自分が同じ立場だったら?』と考えるだけでつらくなる。
一方で、小説だと死んだ側から親しい人への慈愛や心配などを、死後にうかがわせる演出が可能だ。現実ではなかなか知りようもない側面(死者の思い)を見せることで、生きて残された側はよりいっそう感情を揺さぶられるだろう。
『死』がそれだけ強い感情を生む要素として、もっとも大きいのは不可逆性(=元の状態には戻らない、つまり死んだら絶対に生き返らないということ)にある。
そしてたいていの場合、生活の中で『死』と同程度にありふれていながら、『死』と同じくらい感情を大きく動かされるような『死』以外の題材はほとんどない。
何故なら人生とは『生きていればなんとかなる』ことの方が多い――つまり、取り返しのつかない不可逆的な状態が生じにくいからだ。
もちろん、取り返しがつかない事態が人生の中でまったく生じないわけではないが、そう感じるのは個人差が大きくなりがちで大勢に共感されることは少ない。
ぱっと思いつくものでは『殺人加害者』であるが、これに共感できる者など一般ではそうはいないし、そもそもこんな題材で感動ものなど扱える気がしない。
よって、『死』を用いない感動ものを考えるならば青春系とかスポーツ系など、『誰かと何かを作り上げる達成感』を主軸に置くのが無難、だとは思う。
だが『達成感』における問題は、果たして『読書を好む層』に刺さるのか? ということ。
かなりの偏見も含むが、たとえば『読書を好む層』と『スポーツ系』はやや相性が悪いと考えている。小説を好んで読む人は(すべてとは決して言わないが)、運動を苦手とする割合が多いと思うからだ。
運動が好きな人は『スポーツ系の物語』を読むより、実際に『運動する』方が楽しいと思う傾向はあるだろうし、割合として読書より運動に費やす時間が自然と多くなるだろう。
大人になって運動をする機会が減ったとしても、読書習慣がない人は大量の文字を追うことを苦手になりがちで、本を読むことが頻繁にあるとは考えにくい。
つまり、あくまで『読書を好む層』において、『達成感』を演出する物語は汎用性(=それ一つでより多くの人が共感できる)が低いと考えられるのだ。
面白くない、と言いたいわけではない。『達成感』における感動は、明確に好みが『グループ分け』されがちであり、相対的に物語に共感して楽しめる人の割合が小さくなると思われるのだ。
読書をする『大多数の人』に刺さりにくい、という難しさが感動に『死』を用いない小説にはある。
しかしもし、『死』に代わる題材で多くの人(読者層)を感動させられれば……そんなあこがれがあるのだ。
これも私にある一種の完璧主義であり、無い物ねだりの考えであろう。
自分の目線に広がる現実を基準にしよう、という当たり前の話でした。
なお、途中で自分が何を書いているかわからなくなっているので、深くつっこまれると困ります。




