64回目 2019/5/18
ここでも何度も触れていますが、『小説の面白さ』って何なのでしょうね?
この日の私としてはプロだと『売り上げ』、アマチュアだと『性癖』が『優先評価対象』だと思いました。
私は私の価値観でしか物事をはかれないのでわからないが、他のなろう作家は『自分の面白さ』にどれほど自信を持っているものなのだろうか?
読者の傾向に合わせる、という意識が必要だということとは別に、『これは面白い!』と少なからず考えたからこそ自作を執筆し、発表しているのは共通しているはずである。
漠然とした理解か、それとも明確に『コレ!』と理解しているものなのか?
いわば自作の『売り』を把握しているかどうかだが……プロなら十分に理解していることなのだろう。
私は妙にロジカル風な考え方をしてしまうため、『面白さ』を考えると小説に含む各要素に分解して、どこがどう『面白さ』になるのか、という益体もないことを考えてしまう。
そうしてわかった気になっても、実際にかけなければ意味がない。
だから、その分析自体に大した意味はないのだ。
作品に反映して還元しなければ、満たせるのは自己満足だけ。
それでも『面白さ』という保証を求める根底には、やはり『失敗したくない』という完璧主義の顔が覗いているのだろう。
実際に動く前、可能な限り失敗を排除しようとする私は、いわゆる『石橋をたたいて壊す』タイプの人間だ。
慎重に、慎重に吟味してチェックを重ね、気づけば前に進む道を自ら失ってしまう。だから、進むときは石橋がない場所を探して大きく迂回するしかない。
無限に広がっているはずの選択肢を、自分の視野の狭さで極端に制限してしまっている。
ふとしたときにそうした自分の性質に気づくことがあるが、自分だけで直すことはなかなか難しい。
私の心は柔軟さとはほど遠く、がちがちに固められていて窮屈だ。
誰もが私を気にしていないはずの状況でも、私の心が私自身を非難し締め付け足を引っ張る。
度が過ぎた慎重派は、結局何もしていないのと同じだ。
毎日ここに書いている内容も、全部まとめて『ウダウダ愚痴る暇があれば書け!』で全部解決するはずなのだ。本来なら。
それができない。
自作の前にたつと気後れする。
前に進むだけの自信がもてない。
自分という人間に対しての信頼がない。
いくらどんな内容でもいいから書くとはいっても、こんな憂鬱な文章を人様が閲覧できる場所に投下するのは失礼だとわかっている。
普段ならこんなこと、内にとどめて飲み込んでいるはずだ。
それでも、私はまたこんなものを書いて投稿している。
自分の『失敗』をさらして、『失敗』への恐怖を緩和する、ちょっとした暴露療法(恐怖の対象とあえて向かい合うことで心を慣れさせ、恐怖を取り除いていく治療法)だ。
まあ、そもそもこんなことをしなくてもいい作風であればよかったのかもしれないが。
気づけばシリアス・ダーク系の方向へ力を入れてしまう私は、本当に矛盾していて面倒くさい。
根が暗いから明るい話が書けない……それくらい単純に、自分の心と折り合いをつけられたらいいのだが。
なので、『個人性癖の坩堝』たるなろうからプロデビューした作品は、文学に当てはめると『奇書の精鋭』という扱いに近いと思われ……おや、どなたか訪ねてきたようです。
(なお、筆者は文学にも奇書にも詳しくありません。有名な『ドグラ・マグラ』などは、怖いもの見たさで読んでみようかと思ったり思わなかったり)




