60回目 2019/5/14
毎日書いてきて、およそ二ヶ月が経過しました。
前書きでも書いたように、ここで文章を吐き出し続けてそろそろ二ヶ月が経つ。
自分の書きたいことができたらときどきルールの15分を破ったりしつつも、これまで一日一投稿を崩さずできたことはよかったと思う。(投稿時間のムラは目をつぶりつつ……)
他にも、『毎日投稿』を続けていて気づいたことがある。
毎日執筆するスタイルに限った話ではあるが、テンションとモチベーションの維持に加えて相当な『アドリブ力』がないと、面白い作品にはならないということが実感できた。
私の連載作品の場合、投稿前にだいぶ書きだめしてから予約投稿でポンポン載せていたので実感がなかった。
なので気づくのが遅れたが、二ヶ月も経つと自分で書いた内容を次第に思い出せなくなるのだ。
この作品が『その日思いついたこと』を残すスタイルであり、一本の決まった物語を続けるのとは毛色が違う部分はある。
しかしそうでなくとも、一ヶ月前に何を書いていたか、覚えている自信がほとんどない。
何故なら『ストーリー』よりも『書くこと』を自然と重視してしまうからだ。
私の中では、時間が経過するごとに『一貫性』よりも『持続性』に価値をおいてしまう。
これは『質的評価』と『量的評価』の違いに通じることだと思われる。
『一貫性』――これを『質的評価』と言い換えると、筆者だけの主観ではなく必ず読者という客観的評価が求められる。
『面白い』とか『巧い』とかは、多くの人からの賞賛があって初めて価値が生まれるほめ言葉だ。自分だけがそう思っていても、ただの自画自賛にしかならない。
なので基本的に、『質的評価』は自分以外から『認められる』ことで優劣が決まる。
対して『持続性』――『量的評価』と言い換えた場合、積み重ねた事実が筆者からでも『客観的に見てわかる』ため、必ずしも他者を必要としない評価といえる。
『一日も休まず投稿』とか『合計○万文字突破』とか、他者だけでなく筆者自身もある程度の『客観的な目』で評価を下せ、自己満足の部分があるにせよ努力が明確に視覚化される。
それが、間接的に『他者からの評価』を得ている感覚を味わえてしまう。
言い方を悪くすれば、『努力した気になれる』のだ。その実態が、どれほど効率が悪い作業であろうとも。
確かに『持続的な努力』はしんどいし苦しい。頑張っていない、楽をしているとは、軽々しくいえない労力を払っているはずだ。
しかし、その苦しさは実際に行動した人にしか実感できない。外から見ている人にとっては、やがて『その人にとっては当たり前のこと』と見なされてしまう。
この人ならやってくれるはず――という『期待』が、この人ならできて当然――という『前提』になってしまった時、ふとした瞬間に崩れればそれは『裏切り』になる。
厄介なのが『期待』が高ければ高いほど落差が激しく、『裏切り』だと思った周囲はとたんに非難の声をあげるのだ……それが筆者の『限界』だったかもしれないのに。
特にネットを介した人間関係は人の顔が見えない……転じて『人として扱う気持ちが薄れる』可能性が高まる。
本名ではなく匿名性を高めたハンドルネームで名乗り合うのも、まるで『ゲームのアバター』に接するような気持ちにさせられる。
相手を『人間』ではなく、『AI』のように感じてしまうのだ。おそらく、無意識的に。
『人間』のコミュニケーションは顔を付き合わせて、表情から感情の機微を読みとりながら行う対面形式が正しいやり方だ。
その点、ネットは『文章のみ』のやりとりでありどうしても『感情』が置き去りにされてしまう。顔文字やスラングなど、感情を示す手段も発達したが完璧ではない。
(笑)やwwwでは声のトーンまでは表現しきれないし、賞賛か皮肉かわからない場合も多々ある。
身振り手振り、表情筋の変化、声音の微妙な強弱……それらが伴わないコミュニケーションは、どうしても『AI=非生物』的な印象を抱いてしまう。
道具を使いきれておらず、道具に振り回されているのだろう。
私も、パソコンはいまだ学校の授業で習った半分も使いこなせていないし……。
やはり、やってみなければわからないことはありますね。




