580回目 2020/10/15
新シリーズが始まった人間観察バラエティ(?)、『ねほりんぱほりん』を見て思ったことです。
放送は昨日で二回目で、呼ばれたゲストは『同人漫画家』だった。
NHKの、ある意味雑学系トークバラエティである『ねほりんぱほりん』は、少し前からちょくちょく見ている番組でキャラクターの個性を考えるときの種や参考になったりする。
で、『同人漫画家』の話を聞いていく内に『なろう』での活動との共通点が多いなぁ、と我がことに置き換えながら視聴することができた。
知っている人は知っている前提として、『なろう』の前身は『二次創作小説サイト』である。今では厳しくなった規制が緩かった時代、いろんな作品の二次創作があった……そうな(実はその時代について詳しくはない)。
そこから独立して、一次作品を中心に扱うようになったのが『小説家になろう』であり、棲み分けが行われて以降は『なろう』が色濃く残った形になる。
『二次創作』文化の名残として、人気になった『原作(=テンプレ)』から自分の性癖をぶち込む、という共通点がある。人気が出た『ジャンル』に新作が集中するのもそうだろうか?
ともかく、根っこが『二次創作』から始まった『なろう』と『同人漫画家』の世界は、要素を取り出せば取り出すほど似通った点が多く、割と高いレベルで共感できた話を聞けた。
その中で、ゲストで登場した『同人漫画家』の話と『なろう』を比較して、違うと感じた点も存在した。創作における『元ネタ』や『作品に込める思い』に対する熱量である。
『同人漫画家』は基本的に商業作品である『原作』ありきで活動している。そして、『同人=同じものを好む人たちの集団』という通り、『同人作家』には好きになって敬意を払う存在が『原作』だ。
時には原作者や出版社から『二次創作NG』が出てしまうこともありながら、『原作』があるからこそ創作の幅を広げられる、と考える人が多いため『原作=尊重すべき対象』となりやすい。
ただ私の所感では、『なろう』において『元ネタ』といえるのは『テンプレ』もしくは『テンプレの元になった有名作』にあたるが……『なろう』で活動している作家で『テンプレ』に愛があるか? というと疑問が残る。
どちらかというと、『テンプレ』は『作品づくりのための道具』と化していないか? と思うことが多い。キャラの名前や属性が違うだけで、ほとんど似た内容の作品が氾濫すると、そう思わずにはいられないのだ。
別に誰か特定の人物を非難したり喧嘩を売ったりしたいわけではない。全体の傾向として、私はそう感じる、というのを言いたいだけだ(こんな場末の作品が注目されることなんてないし)。
まあ、かく言う私も『テンプレ』に対する『愛』があるか? と問われれば『ない』と答えるだろう。確固とした存在感を放つ『原作』と比べて、『テンプレ』は立ち位置が曖昧だからだ。
『テンプレ』は『○○(作品名)みたいな話』で理解されるように、明確な『コレ』といったベースはあまりない。自然発生的に『よく読まれる要素』を組み上げられた、レゴみたいなものだからだ。
だからか、特別な『愛着』がつきにくい『作品群』として『テンプレ』が存在している以上、積極的に『自分流のアレンジ』を考える人が少ない傾向にあるような気がする。
むしろ『テンプレ』から『離れすぎない』ように意識している人の方が多いかもしれない。
『なろう』で読まれているのは『テンプレ』なのだから、『非テンプレ』は読まれない=『書く意味がない』とさえ思っている人も多そうだ。
これが先述した『作品に込める思い』の差にもつながっている。
話を聞くに、『同人漫画家』が描いているのは『原作を通した自分の世界観・性癖』だそうだ。他方、『なろう』では『商業化に必要な踏み台』とか『承認欲求を満たす手段』とかが多数派になりつつある印象がある。
つまり、創作作品に対する思い――というか、『目的』が異なっているのだ。突き詰めれば、前者は『自分(の性癖)を満足させるため』に、後者は『他人を満足させる(ことで私欲を満たす)ため』に、みたいな。
その違いはたぶん、『自分がマイナーあるいはニッチであることの自覚』があるかないか、に一因があるのだと思う。
書籍化、アニメ化などのメディアミックスによって一般の目にも触れるようになった『なろう系』だが、どこまでいっても『小説家になろう』という箱庭の中でのメインコンテンツでしかない。
なので、どれだけ商業的に成功しようが『マイナージャンル』というカテゴリーからは逃れられない……のだが、下手に内容がメディア露出したことで『一般コンテンツ』的な考えも入ってきてしまった。
事実、プロ経験のある作家が新作を出す企画プレゼン感覚で『なろう』に投稿する場合も増えたし、編集者から『なろうで人気を集めろ』なんて言われるケースもあると、小耳に挟んだことさえある。
そのため、『なろう』がまるで『メジャーコンテンツ』に入ったかのような錯覚を、『なろう』の利用者も非利用者も覚えるようになったのではないだろうか?
故に、『同人漫画家』が抱いているような『自分は特殊ジャンルが好きだ! それの何が悪い!?』という、開き直りにも似たメンタル・思いの詰まった作品に注目が集まらないのではないか? と思った。
ただ、『同人漫画家』の主な活動場所である『コミックマーケット』などは、年に二回で参加者50万人以上と密度は高いものの、『ネット』という手軽な場所と比べると利用人数は劣ってしまう。
言い方は悪いが、『インターネット』と比べると活動範囲が狭いジャンルだからこそ、『同人漫画』はニッチなジャンルでいられる側面もあるのだろう。
良きにしろ悪きにしろ、注目を集めるコンテンツはそれだけで『大衆の圧力』にさらされるものだ。『健全か不健全か』などの価値観を基準に論ぜられ、関与する人間が増えるほど『一般化』を強制して『特殊性』は薄められていく。
『なろう』は誰にでも門戸を開いた状況に会場を設置していたから、作家の『特殊性=独自性』は育ちにくい場所になっていったのだろう。
一概に『誰』が悪い、といえる話でもなくなってきたが、強いて言えば『マイナーコンテンツ』だったものに『商機』を当てすぎたのが、『なろう』の『自由度』を奪っているんじゃないかなぁ? と改めて思った。
と、そこまで考えたところで、最後に私が『なろう作家』として持つべき『同人漫画家』のメンタルについて書いていこう。
それは上記した通り『自分は特殊ストーリーが好きだ! それの何が悪い!?』と、常に『少数派の自覚を持つこと』だ。
『なろう』という『看板』が大きくなりすぎただけであって、私個人という『作家』は大勢の人から比較されれば『特殊な思考の持ち主』でしかなく、私自身が大きくなったわけではない。
『私』という人生の中で育ってきた価値観は、たとえ私が一卵性双生児などであったとしても、『私』にしか理解され得ない『性癖』でしかないのだ。
だから、『お前は間違っている』などと非難・批判コメントが届いたとしても、『これが私の好みだ!! お前にとやかく言われる筋合いはない!!』と、思えるだけの『開き直り』が大事になる。
注意すべき点があるとすれば、『自分の価値観を強要しない』ことと、自分が『特殊だという自覚を忘れない』こと、そして『他人の価値観を否定しない』ことだ。
私のような『多様性』の下に生かされている人間は、たとえどれだけ他人と意見が衝突しようと『自分以外の価値観』を否定してはならない。それをしてしまえば、『自分の価値観』も否定することにつながりかねないからだ。
自分に合わなければ近寄らなければいいだけだし、『こちらの性癖に合わせろ!』と強要されても従う必要なんてない。
私は『私の価値観』でもって、『好きな物語』を書く。
そんな『自己満足』さえあればいい……と、胸を張っていえるような作家・人間になりたいと思った。
長々と書きましたが、内容を一言でまとめると『自分の作家メンタルを理論武装で補強する!』って自分に言い聞かせてるだけですね。
私のように『誰かの目』が気になる人は、『「誰か」なんて気にしてもしょうがない』って開き直りはある程度必要だと思いますよ。じゃないと、何にもできなくなっちゃいますからね。
なお、今回の『即興小説』は一回目に『イタリア式の光』って無茶なお題がきて、必須要素(無茶ぶり)が『変なにおい』。『957文字』書きましたが未完に終わりました。
二回目は『彼が愛したサーブ』とまたも無茶ぶりがきて、『右肩』って必須要素(無茶ぶり)をひっさげ『839文字』書きましたよ。未完ですけど。




