565回目 2020/9/30
今回はときたまある、『日常の中でちょっと浮かんだ考え』を衝動的に書いていきます。
小説もそうだけど、『創作における物語』を読み慣れている・見慣れている人とそうでない人って、どんな違いがあるのかなー? とふと思い立った。
たまたま気になって、少し深堀りする気になったので考えてみたのだが、やっぱり要素としてはいろいろあって一つに絞りきれないところはある。
たとえば『物語に没入できるかどうか』。これは感情移入とか自己投影とか、程度の差こそあれ物語に引き込まれて感情を揺さぶられるくらい集中できるか、の部分だ。
物語に慣れていない人だと、たぶんなにを見ても『だからなに?』とすべてを他人事のように感じてしまうと思われる。事実、物語の出来事なんて『自分のこと』ではないので、反応としては間違っていない。
たとえば『好きな部分があるかどうか』。作中のキャラだったり設定だったり世界観だったり、何でもいいから『物語の好きなところ』を持っていて、かつ見つけられるかの部分である。
こちらは、物語になれている人ほど『物語に何かを求めている』わけで、当然『好きなところ』も一つや二つあるだろう。そうでない人は、そもそも『物語の楽しみ方を知らない・わからない』状態なのだと思われる。
他にも考えればいくつか挙げられそうだが、私が真っ先に気になったのは『物語の読み方』だ。
なお、これはあくまで私の予想であり、統計的に調査をしたわけではないので本当に主観で語っている。なので、これから述べる見解が事実か否か、真実か嘘かなどは深く考えないで欲しい。
特に私が傾倒しているのは主に『ラノベ(小説)』であり、物語を主体とするその他の創作においてはまた別の見解があることは承知の上で、読み流していただけると助かる。
と、誰に向けてか知らない予防線を張ったところで、引っ張る話題でもないし発表していこう。
私が思うに、物語を読み慣れている・見慣れている人ほど『物語の過程』を楽しむ傾向にあり、そうでない人ほど『物語の結果』を気にする傾向にあるのでは? と主張する。
中でも『エンターテイメント』に分類される創作は総じて、各人が重視しているものが『過程』か『結果』かで分かれると考えている。
創作における『結果』を重視する考えは、たぶん一度は誰でも通る道だろう。
『主人公の行く先でどんな結末が待っているのか?』、『あのキャラクターの恋路はどんな結末を迎えるのか?』、『この事件はどんな陰謀と決着が訪れるのか?』。
種類こそあれ、物語には『解決すべき何か』が確実に存在する。実際の出来事や事件もそうだし、心的葛藤のような哲学じみたものでもそうだろう。
そうした『物語の最終目標』に注目して視聴していくのが、物語を楽しむ最初のスタート地点になる。
時代劇みたいな『勧善懲悪』系のストーリーが、どんな世代でも人気が高いのもそうだろう。『物語の最終目標=悪人が成敗されて正義が勝つ』ことを期待して、物語を最後まで楽しむ場合がほとんどだ。
それ以外のところはどうでもいい――というわけではないにせよ、物語を楽しむ上で一番の関心になるのが『物語の結末』と答える人が多いのは間違いないと思う。
さて、一方で『物語に慣れた人』はどうかというと、一概にはいえないが『結果よりも結末に至るまでの過程』をより重視する傾向にある、と私は考えている。
ぶっちゃけ、世にある『エンターテイメント』系の物語作品においては、そのほとんどが『ハッピーエンド』であふれている。
正確な比率はわからないが、『ハッピーエンド』と『バッドエンド』を比較すると、世に出版されている総数から見て『ハッピーエンド』が多くなることは間違いない。
(ただし、『ホラー』・『ミステリー』・『サスペンス』など、一部のジャンルでは『バッドエンド』が多くなるものもあるので、あくまで『エンターテイメント作品全体』を指しての意見である。
逆を言えば、『ホラー』・『ミステリー』・『サスペンス』などのジャンルは『バッドエンド』を楽しむ物語群、と考えることもできるかもしれない)
必然的に、『物語になれている人』は今までの経験則からして、『結末はだいたい似たような傾向になる』と自然にメタ読みしてしまう。
つまり、最初に楽しめていたはずの『物語の最終目標』が、物語を視聴し慣れたことで単なる『予定調和』という認識に変わってしまうのだ。
それでも『物語』の沼にハマり、長く楽しみたいと考える人は、いったいなにを楽しむのか? ――そこで浮かび上がるのが『物語の過程』である。
『主人公の思想や信念が、作中でどのように変化するのか?』、『たぶんつき合うだろうこのキャラたちは、どんな紆余曲折を経て結ばれるのか?』、『この事件はどんな広がりを見せた後で、収束に持って行くのか?』。
『起承転結』で言うところの、『承』と『転』に物語の楽しみを見いだしている、とも言い換えることができる。
少なくとも私は、『物語』の楽しみ方において明確にシフトした時期はわからないものの、『結果』から『過程』を楽しみだしたのは事実だ。
特に『なろう』で物語に触れた人たちは、これを顕著に感じることと思う。
最初は新鮮に見えた『なろう系小説』でも、途中からだんだんワンパターンばかりと思うようになって、いつからか『面白くない』と感じるようになる。
これは上記の考えに則ると、ランキングなどで上位にあがる作品の多くが『物語の結果・結末』を重視して書いている作品が多いからだろう。
『終わりよければすべてよし』という潔さでもって、読者を『主人公が成した結果』でカタルシスに持って行く……そんなストーリーが主流になるのは自然な流れだ。
読み手の需要としてもそうだし、書き手の『やりやすさ』も高い。物語の主題である『(小説で)なにを伝えたいか?』が、『読者を喜ばせたい』=『主人公を成功させる』と簡単なイコールで結べるからだ。
誰だって主人公が最後に失敗する物語よりも、成功する姿を見る方が心地いいもの。さじ加減を間違えなければ、多くの支持者を集めることはできる。
だが、それが通じるのは『物語に慣れるまでの人』という注釈がつく。事実、『なろう系』だと読めば読むほど『つまらない』と感じて去っていく読者も、それなりの数がいるからだ。
その原因の一つとして、『ありきたりな始まり』と『どこかで見た結末』が多く散見されるというのが大きいだろう……まあ、読者の側もランキングを頼らず作品を探す人がまれ、なのもありそうだけど。
ともかく、『なろう系』は『物語』の要素をかなり『パターン化』している作品群のため、それを模倣しただけの作品をただ読んでいたら飽きるのも仕方がない。
これが『物語を読み慣れた人』の入り口だと、私は思う。
『死亡フラグ』などのいわゆる『お約束』も、読者が数多くの物語を読んだ上で見えてきた『共通のパターン』の一つだと考えれば、『物語への慣れ』が楽しみ方に変化を生じさせる理由付けになるのも、納得しやすいだろう。
たとえば『死亡フラグ』を示された場合、興味を引くのは『そのキャラクターの『死』によって、残されたキャラクターにどのような変化が起こったか?』だろう。『物語に慣れた人』で『予感できた死亡シーン』そのものに驚き、感動できる人は少数派ではなかろうか?
こうした見方が、私の記述した『過程を楽しむ』につながる。『予感できた死(=結果)』よりも、『仲間の死を受け入れ、乗り越える姿(=過程)』を楽しむ、という感じで。
さらに上級者になると、『文章表現の美しさや文章技巧のうまさ』に面白さを感じるのだろうけど、さすがに私はそこまでの域に達していない。たぶん、この領域で『純文学』を正しく楽しめる段階なのだと、勝手に思っている。
以上、『物語の慣れ』という部分から作品に求める楽しさ・面白さがどう変化するのか? をまとめた独断と偏見は終わりだ。
おそらく文章だけで表現する『小説』に特化した読み方・考え方だとは思うが、他の表現手法(アニメとか落語とかドラマとか)における解釈でも、決して遠すぎる意見ではないと私は考えている。
まあ結局、私がどんな意見を述べたところで『物語の楽しみ方は人それぞれ』だ。善し悪しでもなければ、上下関係を作って攻撃対象を作りたいわけでもない。
強いて言えば、『作品の想定する読者層』を考慮して絞る上での一要素、ってものでしかない。
物語の味わい方も千差万別。私は私で、楽しい創作ライフを遅れればそれでいい。
ちなみに、今回の『即興小説』は一回目で『バイオ駄作』というお題と『栓抜き』って必須要素(無茶ぶり)が出て、『1028文字』書いて未完。
二回目にはお題が『弱い芸術』で必須要素(無茶ぶり)が『ジーンズ』になり、『1060文字』書いたところで終わりました。
意外と書けた印象ですね。長編再開後もがんばりたいです。




