55回目 2019/5/9
マスコミは娯楽性を追求した偏向的ジャーナリズムが主流なんでしょうね。
視聴率とスポンサー契約の利益関係がある限り、真実公平な報道なんてただの綺麗事。
フィクション小説家が架空の登場人物にやらせるような『盛り上がり』を、ノンフィクションかつ善悪を無視して作らなければならないため、マスコミが下世話な井戸端会議と同レベルに見えてしまうのでしょうか?
現実を笑い物にできる制作側か、脚色された現実を楽しめる大衆側か……いずれにせよ、人間の醜くて浅ましい性質は我ながら本当に気持ち悪いと思います。
私は以前、ここで風刺的な作品が好きと言ったことがあったように思う。
真面目一辺倒の批判文よりも、娯楽性を表に出したものの中に混ぜ込むことの方が、より広くより多くの人々に届くのではないか? と思うからだ。何となくだが。
小説家が作品を通して伝えられることは、『どうだ、面白いだろう?』という技術自慢ではなく、『自分の人生哲学』が基本であると、私は考えている。
つまり、すべての作品はエッセイや論説文に近い要素が反映されていている、と思っているのだ。
なろうテンプレにしても、同じ物語パターンを使用していて筆者それぞれの示す物語が大枠で似ていても、細かく比較すれば違う物になる。
どんな要素を強調しているか、どのシーンに文章を多く割いているか、そして主人公がどういう道をたどり、どう感じ、どう振る舞ったのか。
それらを読み解けば、意識的にせよ無意識的にせよ、筆者の心の中が透けて見えるものだと思う。
よくなろうで取り上げられる要素として『いじめと報復描写』があるが、それがリアルであればあるほど、似たような経験を経た筆者が投影した主張を反映したものであるのは想像に難くない。
他にも『ハーレムと性描写』に関しては、社会的な倫理や実際に実現するためのハードルは別にして、筆者自身が思い描くイメージと下心が表れるだろう。
『チートや無双描写』も、人は誰でも他者より優位でありたい願望が少なからずあるため、自分の権利を守るための攻撃性を有し、作品という内面世界でぶちまけていてもおかしくない。
女性的な目線でも、『悪役令嬢物』などのように主人公たる女性側が複数の魅力的な男性から『選ぶ側』である部分を見れば、男性の英雄願望と類似したお姫様願望の反映と見て取れる。
また、描かれた部分だけでなく『描いていない部分』を意識することで、筆者の作品における関心事の優先順位もわかってくる。
上記の要素とて、もし作品のタグに設定されていたとしても、筆者によって書き方の『濃さ』は違う。
『チート』を全面に押す物もあれば、『ハーレム』を全面に押す物もある。
それは想定読者へ向けた筆者の提供したい『売り』であると同時に、そこへ込めた熱量がそのまま筆者自身の信じる『重要な要素』でもあるのだ。
逆を言えば、タグ付けされた『売り』の描写が薄い場合、筆者にとって娯楽のために取り入れた『無関心な要素』といえるかもしれない。
私の連載作品で言えば、『チートや無双描写』が他の作品と比べて薄めに描かれている。読者がどう受け取っているかは不明だが。少なくとも、私は熱心に描いている意識はない。
それは作品からある種の『爽快感』を奪う(または損ねる)デメリットになりえるが、ぶっちゃけ私がその小説で提供したい要素ではないため問題はなかったりする。
こうした小説から感じ取れるある種の『熱量』が、筆者の『売り』であり人に広めたい『信念』なのだろう。
別に私は直接取材する記者ではないし、真実かどうかはわからない個人的主張をジャーナリズムなどというつもりはない。
だが、文章の娯楽である小説の中にも確かなメッセージ性はあり、どうせなら自分の意識した形で込めたいと思うのだ。
注意すべきは、『メッセージ性』を強く押し出しすぎると『ストーリー性』や『キャラの人間性』がいびつに――筆者のご都合主義という、悪い意味での『非現実』になることだ。
フィクションは『非現実』だが、『現実感』がなければ『娯楽』である小説の良さを著しく削ってしまい、つられて『メッセージ性』も薄まってしまう。
面白さと説得力がほぼイコールでつながれる『小説』という媒体で主張を広げるのであれば、『小説』という様式を可能な限り尊重して『メッセージ』を構築したいものだ。
それは報道関係だけでなく、すべての業種にいえること。
人間は自分の利益のためなら手を抜き楽をすることもいとわず。
他人の利益を踏みにじって誠実さや真面目さを鼻で笑うことも平気でできる生き物です。
この日のエッセイ日間ランキング、1位と2位をそれぞれ読んだ感想でした。




