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532回目 2020/8/28

 今回は『即興小説』をお休みして、ちょっとした気づきを吐露(とろ)していきます。


 ここ数年、ずっと『小説がうまく書けない』と思ったりこの場で書いたりしてきたが、もしかしたらと思うような考えがふと浮かんできた。


 それは――『自分自身が邪魔していたんじゃないか?』ということ。厳密には『読者目線の自分』がいたことが、私のパフォーマンスを下げていたのでは? と考えたのだ。


 他の作家さんと共有できる感覚かはわからないが、私はおそらく『娯楽で読んでいる小説』と同じような目線で『自分が書いている途中の小説』を見ている節がある。


 要は『創作者』としてだけではなく、『読者』としての自分も同時に存在しながら書いているのだ。


 実際の光景や文章の表現としては当たり前だけど、いわば『読みながら書いている』状態が悪かったと思われる。


 うーん、うまく説明できないが、『創作者』と『批判者』が同じ場所に存在していて、『創作者』の書いた文章を即座に『批判者』が指摘し、改善を要求している、みたいな?


 自分自身にある別の側面を、無意識に監視者として置いていた感じになる……のかもしれない。うーん、本当に表現が難しい。


 私は以前、この場で愚痴のように『HSP(Highly Sensitive Person)』について紹介したことがある。それが自分の性格傾向だとも紹介した上で。


 今回の話は、この『HSP』に関連した話になる。直訳すれば『繊細すぎる人』などとなり、書籍も販売されるようになって認知度があがってきているようだ。


『繊細すぎる』と言葉が当てられたように、『HSP』はいろんな特徴を持っているものの詳しい説明は省く。


 今回の話において重要なのは、『HSP』の特徴の一つである『他人の目があると緊張して作業の効率が下がる』というもの。


 私もばっちり当てはまる特徴で、特に大学時代の講義であったグループワークとかはずっとこんな感じだったと思う。複数人とやることが決まっている作業は、無意識に緊張してしまっていた。


 これは『見られている・注目されている』という状況だけで緊張が強まり、自分の思っている考えを出せなくなったり、行動ができなくなったりするのだ。


 根本の理由は『他人に嫌われたくない』というもので、これは『HSP』が抱きやすい『強迫観念』と思ってもらって差し(つか)えないだろう。それくらい、強力で抵抗しがたい『衝動』なのだ。


 さて、それと冒頭の話がどうつながるかというと……もしかしたら私は、『読者の目』として自分の作品を読むことで、『他人の目』に見られている感覚に陥っていたのではないか? と思ったのだ。


 私自身の『批判的な目』そのものが怖いわけではない(……と思う)。私の『批判的な目』を通して見えてしまう、『小説を読んだ読者の目』が怖いのだ。


 私は『自分の批判的な目』と、『実在しない(私が想像した空想上の)読者の目』を同じようにあつかっていたのだろう。


 すると、私の小説は常に『設定も展開も知っている読者(じぶん)』に見られている状態であり、『これは本当に面白いのか?』と問われ続けるような感覚になる。


 たぶん錯覚でしかないのだが、いつの間にやらそう誤認していたからこそ、『自分の目』にさえおびえてしまっていた部分があったと思える。


 感覚的には、小説を書いている自分とは別に、座っている私を見下ろしながら文字が更新される画面を見続ける『自分』が存在し、『誰かに見られながら作業をしている』ようなものだろうか。


 書きたい気持ちはあるのに、いざキーボードの前に座ると息苦しくなるような感覚は、そうとしか表現できない『やりにくさ』があった。


 言ってみれば、心因性の自縄自縛型視線恐怖症、みたいに定義できそうだ。実際にそんな症状があるのかは知らないけど。


 こうなった原因もついでに考えてみたら、おそらく私が『なろう』の掲載作品を『読み慣れた』ことが、遠因にあったのではと考えている。


 それまでの私は商業ラノベを文庫で読み、評価対象は『一冊分の内容』だった。完結とは別に、ある程度まとまった内容が提示された作品を読んでいたのだから、普通はそうなる。


 しかし『なろう』では、むしろ完結する作品の方が少ない。私の長編のように、章の途中で更新がストップするものもあれば、アカウントが消去されて作品そのものが読めなくなる場合もある。


 そんな環境にある作品を読み続けていく内に、『目を通した瞬間の印象』で作品を評価するようになった。『一作品』ではなく、直近で更新された『一話(最新話)』で作品全体を評価してしまうことだってある。


 いわば『ネット小説対応の評価方式』が身についてしまった結果、私が書いている最中の作品でも『一話単位』で査定を入れるようになってしまった、のだと思われる。


 しかも、それを評価するのは『作者と同程度の作品知識がある批判的(きょうあく)な読者』だ。無意識にやっていたこととはいえ、こんな監視者がいれば萎縮して当然だろう(少なくとも『HSP』にとっては)。


『他人と自分との境界線が薄い』、という特徴も聞くくらい『HSP』の共感能力は高いそうだ。それが裏目にでれば、『自分は他人にこう思われている』という妄想も信じてしまうのかもしれない。


 ……まあ、私ほどこじれるような例が多くあるとは思えないけれど。どうも私は『自分と他人の心理的な壁』をつくるのがまだまだ下手みたいなので。




 長々と語ってみたものの、試してみる対処法としては『自分を含めた【読者】の目を気にしないよう意識する』、くらいしか思いつかない。


 これまで『作者の自分』と『読者の自分』を分離して考えたことがなかったので、区別するのは難しいと思う。けど、これができたらだいぶ楽になると予想できる。


 たとえるなら、口うるさい義理の母親と同居していたが別居して環境が一新された嫁、みたいな感覚に近いか。ある程度の息苦しさや束縛感は減ってくるだろう。


 そもそも、新しく始めた『即興小説』では自分が『読者の目』で見る余裕がないから、『文楽(ここ)』では『読者の目』を最初から気にする必要のない場だからこそ、すらすらと文章を書けているわけで。


 上記二つとは別に日記も書いているが、自作小説を書いているときに感じる息苦しさを覚えたことなどない。


 なぜなら『読まれること』よりも『書くこと』を重視した『日課』だからだ。私自身の『読者の目』があるかないかの違いが、より顕著(けんちょ)に現れている比較だろう。


 これからは自分の作品を『読まずに書く』ことを意識していけば、文章が書けないスランプ状態を脱することができるのではないだろうか? と、自分では思っている。


『読む』行程は、一通り『書く』作業が終わってからでもできる。そう割り切ってやらないと、経験上、心や身が持たない。


 小説の完成度をあげるために推敲(すいこう)は大事なので、さすがに『全く読まない』なんてことはできそうもないけど。


 ちなみに、この日にやった『即興小説』一回目のお題は『絶望的な誰か』で、必須要素(無茶ぶり)は『男使用不可』。内容を『892文字』ほど書いて未完に終わっています。


 二回目のお題は『奇妙な駄洒落』で必須要素(無茶ぶり)が『右ストレート』、『967文字』書いたところで未完に終わり、二敗でした。


 一応やってましたよ、という誰に対してしているのかわからない言い訳でした。


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