49回目 2019/5/3
『植物から学ぶ生存戦略』……とてもタメになる番組でした。
梅、大犬ノ睾丸、チューリップ……この中で一番印象的だったのが梅でした。
ラノベにおけるキャラクター造形について、少し考えてみた。
まあ、私の考える『ラノベ』とは現代でいう『ライト文芸orキャラクター文芸』というべきだろうが、時代についていけないので『ラノベ』表記を通すことにする。
今さらであるが、ラノベとはマンガ・ゲーム的なジャンルに近しい物語を表現するにあたり、小説の体裁をなした作品群をいう。(一般的な認識としては、間違ってはいないだろう)
……ちょっと言い方が堅いか? まあいいや、進めよう。
その中で、作品における登場人物は『記号的である』と批判を受けることがままある。
簡単に言えば、『人間っぽくない』のだろう。私もラノベに関しては、ときどきそう思うときはある。
元々、ラノベの購買層は中高生がメインターゲットだった……はずだ。
今では二十代とか三十代とか四十代とかいろいろ言われていて、正直売れれば何でもいいのだなとも思うが。
この『記号的キャラクター』が強まった要因は、かつて読者の主流と想定されていた『中高生』にあるのだろう。
生まれて二十年も経たず、人間社会を『家庭』と『学校』が大半を占める彼らにとって、『人間の記号化』はさほど気にならないのかもしれない。(私も読み始めた当時はそこまで気にしなかった)
しかし、だんだんと購買年齢層があがるにつれ、現実の社会や他の作品(映画や一般小説など)に触れる機会が増えた読者の目に留まり、『人間の記号化』が気持ち悪く映るようになる。
そうして『人間らしさ』への見識が読者へだんだん広がるにつれ、『キャラクター』への違和感が増大していったのだ。
そう考えると、昨今になって声が大きくなったように思えるラノベ批判の声は、当初予定していなかった年齢層から購買されるようになった弊害でもあるのだろう。
子どもの読み物だったはずのラノベに大人が集まり叩く様子は、童話の登場人物が非現実的だと反発することと、大して差はない。
ここで『記号化』とは何かを考えると、私は『デフォルメ』であると思っている。
絵での比較がわかりやすいだろうか?
実際の人間と比べると、マンガやアニメの人間は目が大きく、スタイルが不自然なほど整って(一部、不健康な見た目もいるが)いて、何より毛穴やムダ毛がない(←ここ重要)。
これが人間の『外見におけるデフォルメ』の一例であろう。
それでも、私たちはマンガやアニメで表現される『登場人物=人間』だと認識しているし、違和感を持つ者は減ってきた。
それは大多数の人の目に触れる機会が多くなり、『取り立てて気にする要素ではなくなった』だけともいえる。人は適応し、慣れる生き物なのだ。
一方、ラノベにおける『記号的登場人物』が広く注目されるようになったのは、割と最近のことだろう。(具体的な年数は知らないが)
あくまで私の感覚的な話ではあるが、年々『デフォルメ』が強くなっているように思えることが原因だろう。
まず私としては、批判的意見が大きくなった背景に、マンガ・アニメ的イラストのようなものと同じ『人間性の記号化』による違和感を覚えているからだ、と考えている。
絵・イラストの場合、前述したような目の大きさ、整ったスタイル、つるつるで綺麗なお肌(←ここ重要)が『記号化』部分だと私見を述べた。
対して小説の登場人物の場合、文字を媒体に表現されることからして、『記号化』できるのは登場人物の言動・性格・常識・倫理観などなど。
つまりは、単なる『個性』とはいえないもっと根本的な『人間性』と呼べる部分になるだろう。
では『人間性の記号化』とはどういうことか?
イラストの例と照らし合わせて考えれば、『希薄化』と『先鋭化』が重要なのだろう。
『希薄化』とは、本来人が持っているべき特定の部分を取り上げて、薄めたりなくしたりすることだ。
よくやり玉に挙がるなろう作品の主人公に適応すれば、『人間性の希薄化』は『殺人に対する倫理観や忌避感』とか『ハーレムへの抵抗感』とか『日本人として育った良識』とかが該当するだろう。
こうして挙げると、『希薄化』で省略される部分が『善意』に近い『人間性』が多いことから、一部の人がなろう主人公を『サイコパス』と揶揄し皮肉っていたのもわかる気はする。
『先鋭化』とは、本来そこまで表に出ることがない部分を含めて、ある要素を目立たせ強調することである。
なろう作品でいう『人間性の先鋭化』は、『悪意しかないような敵役の下衆化』とか『好意しかないようなヒロインの盲信化』とか『自分が世界の中心のような主人公の独善化』とかが当てはまりそうだ。
好例としてはヒロインの『ツンデレ』とか『ヤンデレ』とかだろうか? 実在の人物ではそこまでしない(=希少な性質)だろう、と思える言動を際だたせたからこそ強烈な存在感が生まれ、『個性』となったといえる。
なので『記号化した登場人物』とは、筆者が与えたい役割だけに特化した『機械じかけの神』なのだろう。
いわゆる『ご都合主義』が支配する世界なのだから、現在のラノベは『予定調和の人形劇』のような要素が強いといえる。
どこかで見たような登場人物は『市販の糸繰り人形』で、彼らが動いていいのは筆者が用意した『腕の長さにとどまる箱庭』。
あとはどこかの誰かがヒットさせた脚本を脚色すれば、面白い! と思った客が集まり称賛し対価を払うから、商売になる。
筆者にとって重要なのは『物語』ではなく、それが生み出す『称賛や報酬』でしかなくなり、『糸でつながれた人形』は顧みられることなどない。
もはやラノベにおける『登場人物』は『人間』ではなく、お金を稼ぐためだけの『人形』に過ぎないのだろう。
もちろんすべての人がそうだとは言わないが、商業作家になれば(あるいは目指せば)そうした側面がどんどん強くなっていくことは想像に容易い。
なにせ文章のみで人間を個別に表現するのは難しいが、『記号化』すればお手軽に『個性や特徴』が出せる。
多少、性格設定がおざなりでも、その登場人物しかしないような『語尾や言葉遣い』をさせれば、『今は誰が話しているか』が簡単にわかるように。
たとえ多くの作品群の中では埋もれるとしても、『その作品内で区別ができたら成功』なのだから、筆者にこだわりがなければ採用しない理由がない。
プロになれば自分の生活がかかっているのだから、さもありなん。誰だって空想の存在より、実在する人間への愛が強いのは当たり前だ。
加えて現代の出版不況とも重なれば、売れる要素を積極的に採用した『金太郎飴ラノベ』が飽和するのは自然の摂理だ。
誰だって、途中で落下するかもしれない不安定な橋より、少なくとも見た目は安全に見える橋を渡りたいはずだ。
こうしてみんなが『作家の個性』を見限って、『売れ筋の特徴』を探していく(あるいは押しつけられる)のだ。
本来、万人受けするにしろコアなファンを獲得するにしろ、面白い娯楽作品を作るのは時間がかかるものだ。
マンガ・ドラマ・演劇・舞台・サーカス・マジック・映画・アニメなど、人々を楽しませるというのはとても難しく、情熱と根気のいる作業が必要になる。
だが、小説は『文字が書ければ始められる娯楽』であり、生産性の高さが他よりも優位なため、商業的には長所にも短所にもなりえてしまう。
売る側からしたら『一発当たればラッキー』であり、作家をたくさん集めた上で『数打ちゃ当たる』やり方へ自然と傾いていく。
しかし、実際に作る側からしたら『面白い作品を短期間で恒常的に出さなければならない』ため、『自分の面白さ』よりも『売れる面白さ』の追求に労力をかけざるをえない。
商業で自分がやりたいことができるのは、せいぜい特大級の幸運に恵まれて大ヒットとなった『デビュー作』くらいだろう。
もしくは、すでに固定ファンを多く獲得した有名作家様だろうか。(こちらは本人の不断の努力で獲得した地位なので、単純にすごいことだが)
なので、現代で『商業作家』として活動するには『作家性の希薄化』が必要不可欠なのだと、私は思っている。
私はどちらかといえば、『作家性の先鋭化』をしたい方であるため、『アマチュア作家』として活動していく方がいいのだろうか?
とにもかくにも、現代における(ラノベ)作家は『面白い作品以外』のことも多く考えなければいけないため、感性や多様性が育ちづらい時代にあるのだろうなと思う。
私としては『人間性の記号化』は1~2割程度にとどめて、『人間っぽさ』のあるキャラクター作りを続けていきたいものです。
ギャラ5000円の中に埋もれるおよそ40万円、さすがの存在感でしたね。(関西人的、お金事情への驚異的な関心を発揮)
私も、イノシシみたいな客層を絞って延命できる、梅のような作家になりたいです。
(意外と自分に当てはめることもできたので驚きました、さすがEテレ)




