443回目 2020/5/31
久しぶりに創作っぽいことを考えてみました。
人間同士の対立構造を作る際、仕事の報酬分配や一人の異性を巡った争奪戦など『利害の不一致』もあるが、やはり小説で魅力を伝えるには『思想・信念の不一致』が一番になるだろう。
ファンタジー的バトルものなら、『人類は救うべきか・滅ぼすべきか』的な対立はラスボスとの対決だとよく見かけるだろう。こういう場合、娯楽作品が多いのだからだいたい『救う方』が勝つのだが。
他にも内政系や国家統治系だと『運営方針』で主人公やライバル・臣下などと対立したりもしそうだ。正直、こちらの系統はあまり読まないのでわからないが、主人公が新しいことをやろうとしたら旧体制側だと反発は必至、みたいなイメージである。
熱い系だと呪いか何かにかかったヒロインを救うために『犠牲を抑えるか・いとわないか』も対立になるかもしれない。提示された解呪条件が『大勢の人間の命を生け贄に――』みたいな状態で、穏健派の主人公と過激派のライバル(親友?)が同じ目的で違う手段を掲げているために争う、みたいな。
物理的か討論的かはさておいて、広い意味でバトル・対立要素はどの娯楽作品にも必要な要素といえる。恋愛系でさえ、『恋の駆け引き』的な要素は広義の対立と考えられるし。
で、そうした際に作者に求められるのは、『対立構造』における『賛否どちらの立場にも立てる視点』だ。
『なろう』だと『主人公側が絶対正義!』というスタンスの作品が多い気はするが、前提として主人公と対立するキャラを登場させるのであれば、当然『対立側の思想・意見』も説明できないといけない。
なんか悪そうな考え方や言葉遣いにしておけばいっか、というのでも物語を作れるは作れるだろうけど、面白味は薄まるだろう。敵役に『とってつけたようなキャラ属性』と似たような効果しかもたらさないためだ。
そうした点から、作家にはある程度の『討論力』が求められるのではないか? とふと感じた次第だ。
ディベートとは、ある問題に対して賛成と反対の立場に分かれて、それぞれの主張をぶつけ議論しあって、より多くの人から賛同を得ることを目的とする『言葉の殴り合い』である。(語弊あり)
わかりやすい例は『裁判』だろうか? 被疑者・被告がいて、より重い罰則を求める検察側と減刑や無罪を訴える弁護側に分かれ、証拠や証言を出し合って結論を出す、という形式はディベートにかなり近い。
さて、これを小説などの『対立構造』に置き換えると、被疑者・被告を『敵役』とした場合、読者はおおむね『検察(断罪)側』に共感できる立ち位置にいく。
物語上では『現行犯逮捕』により起訴された状態で開廷された裁判が大半なので、『検察側=主人公側』と置き換えられる。
また同時に、『検察側』には作者も存在している。何せ『主人公側』を多くの賛同を集めて勝利させるために対立構造をとっているのだから、力を入れないわけがない。
作者と読者、両方が肩入れしている状態でスタートするこの裁判において、最初から『敵側』につく人は少ないだろう。
一方、では『弁護(擁護)側』は誰がつくかというと、こちらも『作者』になる。というか、『作者』にしか『敵役』の思想・信念を説明できる人がいないのだから、自ずと『弁護側』にも立ち回らねばならなくなるのだ。
そんな裁判において、判決を下すのも『裁判官』である『作者』と『陪審員』である『読者』にあたる。
ネット小説だと特に、最終的な物語の展開を決めるのは『作者』だが、『読者』からの感想・批判によって展開を変更する場合もあるため、大勢の人に読まれたい・認められたいのであれば『読者』の存在は無視できない。
と、このように物語の対立構造における解決手法を比喩的に置き換えた話をしてきたが、この裁判における決着はなるべく『接戦』である方が望ましい。
ほとんどの人が『主人公(=検察)側』が勝利すると考えているだろうし、作者の考える結論としてもやっぱり『主人公側』が勝利するとしても、『圧倒的な勝利』は基本的に『面白くない』。
娯楽性の高い物語に求められているのは『ドラマ』だ。最初から最後まで『主人公側』が有利なまま進み、最終的な結果も『主人公側』が勝った! となっても感動など生じない。『やっぱりな』で終わってしまう。
むしろ、ずっとボコボコにされる運命にある『敵(被疑者・被告)側』に同情を集めてしまうことにもなりかねない。人は力や立場の弱い者に同情し、助けてあげたいと感じる傾向があるためだ。
では『ドラマ』はどうすれば生まれるのか? という疑問の答えの一つが『接戦を演じる』である。
つまり、『作者+読者』が味方に立つ『主人公側』が『負けるかもしれない』と思わせるほどの善戦を、『作者』しか味方にない『敵側』に演じさせるのだ。
それを目指した場合、『作者』の負担は一気に跳ね上がる。特に、本来勝利させるべき『主人公側』よりも、『敵側』の方にこそ力を入れなければならない負担がかなり大きい。
なぜなら、ほとんどの『読者』は最初から『敵側』に共感をしてくれないからだ。『敵側』は常に、『作者』という『弁護士』しか味方にいない孤立無援の状態で戦うことを強いられる。
だからこそ、『接戦を演じる』には『主人公側』が間違っているかもしれない、と思わせられるだけの『敵側』における説得力を持たせ、『読者』に納得してもらうことが必要になるのだ。
それは支持者を対立相手から奪う行為に等しく、最初から味方の多い『主人公側』よりも大きな労力が『敵側』の描写に求められることは想像にかたくないだろう。
そこで『討論力』が作者に求められる、という話に戻ってくる。
『討論』は参加者本来の考え方に関係なく、『賛成』と『反対』のいずれかに所属せねばならない。個人的には『賛成』の立場でも、『反対』に選ばれれば対立意見を考え述べることが求められるのだ。
そうした『討論』を作者一人の頭の中で行えるほどの思考力を得られれば、『対立構造』における『接戦』を演出することも可能になる――と私は考えた。
慣れれば『賛成』、『反対』、『中立』、『条件付き賛成』、『条件付き反対』など、より複雑な『対立構造』を構築することもできるだろう。物語に深みは増すかわり、作者の負担も一気に増えてしまうけれど。
そうそう、この話とはまったく関係ありませんが、これを書く前に散歩に行ったところ『ゾウムシ』っぽい虫を見かけました。
先っぽが丸いカブトムシ(♂)の角みたいな外見的特徴を持ち、全長が親指と同じがやや小さいくらいの大きさでした。そこそこの大きさがある虫を久々に見たので、ちょっとテンション上がりました。




