43回目 2019/4/27
なろうの片隅でうごめくアングラ作家として、『好きなもので自分を語る作家』になりたいです。
一時期、オタクというものにあこがれた時期があった。
まあ、今でも好意的に思っている部分もあるが、一応過去形で。
というのも、さんざんここで愚痴ってきたとおり、私には『本気で熱中できる何かor姿勢』が足りない。
一番がんばっている(と思う)小説であっても、四六時中やってもいいはずなのにそこまでのエネルギーが毎日ひねり出せない。
こんなことを言えば顰蹙を買いそうだが、『好き』をうまく『エネルギー』に変換できないのだろう。
癖のようなものかもしれないが、私は常に主観から離れた部分に意識の一部をおきたがる。
緊急事態とか、余裕がないときは別なので、ずっと冷静でいられるというわけではないのがまた悲しい。
とにかく、腰を据えて物事に取り組んだり考えたりするとき、『がんばろうとする熱』と『何やってんだろうと俯瞰する冷や水』を同時に備えている感覚があるのだ。
うまく『熱』が続けば問題ないが、一度集中力が切れてしまえば『冷や水』がせっせと冷ましてくる。
よくあるのが、睡眠をとる前後でモチベーションがリセットされること。
寝る前までは絶好調で何でもできそうだったのに、眠りから覚めれば残っているはずの情熱はわずかほども残らない。
そして気づけば、自分がしてきたことの粗を探して落ち込んで手が止まる。
自己否定をせずにはいられない……そういう意味では、私は自分に対してドエスであり、またドエムでもあるといえそうだ。
寝食を忘れて取り組める何かであるはずの『小説』なのに、寝食の度に心が無機質になっている。
こういう自分に時々気づいて、薄情さにいらだち、好きなことにも本気になれない自分に絶望すら覚える。
自分がカラッポな人間だと自覚して、急に自分の存在感を疑いだして、なりふり構わず叫び出したくなる時さえあるくらいだ。
無駄しかない自分の、生きる価値とはなんだろう?
思春期の頃から続く自分への問いかけであり命題は、おそらく一生かかっても答えなどでてきやしない。
わかっている、そのはずなのに、適当に目をそらすこともできずに問いかけてしまう。
ああ、自分は面倒くさがりなはずなのに、言動は常に面倒くさいことを繰り返している。
矛盾している。
一貫していない。
気持ちの悪いノイズのような不快感。
それら、言葉にできない違和感や嫌悪感を、ふと意識して自分へぶつけて、勝手に落ち込んで他人に迷惑をかけて。
こんな人間だから、私はいつまで経っても自分を好きになれないし、ポジティブにもなり得ないのだろう。
言葉に書き起こせば、自分をわかっているはずなのに、私は私を制御できない。
完成品にあこがれる私が、欠陥品の私を許し愛することができるのは、いったいいつになるだろうか?
自分のことなのに、自分の心を救うことすら、人間には難しいのだろうか。
何せ私、今のところ『嫌いな自分を語る作家』に成り下がってますからね……。
ハハッ…………(乾いた笑い)。




