424回目 2020/5/12
私的に目から鱗が出るような気づきがありました。
とある創作エッセイを読んでいると、なんだかじわじわと私の頭にしみ入ってくる言葉がありました。
『第一稿は自分のために、第二稿は読者のために書く』……読まれる作品を作る方法と題された記事の形で記載されていた。
もう少しつっこんで書くと、第一稿は『自分が楽しむために書く』ということ。言い換えれば『誰かに見せない自分の好みだけで作る』ことであり、『他人の目を忘れる』ことでもある。
そして、それを『読者にも見える場に提供しよう』と思う段階で、第二稿として『読者が理解しやすい範囲・表現に落とし込む』ことで『読まれる作品』になるのだとか。
内容的には『作者目線』と『読者目線』の切り替えについて説いていると思われるが、私が衝撃を受けたのが『第一稿』の下りである。
『自分が楽しむためだけに書く』ことが、最近はできていただろうか? と思ってしまったのだ。
もちろん、新しい小説のネタを思いついたときは『面白そう』と思ってメモしたりプロットに書き起こしたりする。『つまらなそう』と思っても、面白くできないか? と考えていじくることもあるし。
ただ、『小説として実際に書いていく段階』になって、果たして『自分だけが楽しいように書けたか?』と問われると、首を横に振ってしまうだろう。
というのも、すでに私が『小説を書く』となった場合、ほぼイコールで『なろうに投稿する』と考えていたからだ。
つまり無意識下で『読者へ発表することが前提』になっており、最初から『読者目線』を常に意識して創作活動――『第二稿』の書き方をしていたと思われる。
それの何が問題かというと、また別の記事に書いてあったことを紹介すると、『創作が苦しくなったり嫌いになったりする原因の一つに、創作の動機を【他人】から受け入れられるためと定めているから』と書かれていた。
他の創作系記事やエッセイなどでも見かけたことがあったが、【他人】に受け入れられるためとはすなわち【他人】に『自分の価値』をゆだねることになる、そうだ。
すると、創作が【他人】に認められない恐怖から逃げるためにするようになり、『自分が好きなもの』を書こうとする気がどんどんなくなっていく。
結果、徐々に心が疲れていって創作自体が嫌いになってしまう、ということだった。
この【他人】の目を気にする恐怖は私にも心当たりがあり、創作がこなれてくると誰しもが通る道なのでは? と感じている。
最初は自分しか読者がいなくても、書いていくうちに【他人】も読みやすい作品が作れるようになってきて、『上手くなるためにもっと【他人】が読みやすいものを』と考えるようになるものだ。
この時点から、個人差はあれど『自分の好きなもののために書く』という意識が薄れていくと考えられる。『好きな物を(自分のために)書く』よりも『(【他人】に)読まれるために書く』が勝ってしまって。
中には【他人】のためだけに割り切って書ける人もいるだろうが、私の始まりは完全に『自分のため』だった。【他人】を意識しすぎてしまえば、いずれつぶれてしまうタイプなのは疑いようもない。
そこで、『第一稿=自分のため』で『第二稿=【他人】のため』と線引きをして書く、というシンプルな考え方が妙に新鮮に思えて驚いたのだ。
私は小説を投稿する際、最低一度は推敲するタイプなので、これまでの執筆スタイルを大幅に変えなくていいのも嬉しい。
よって、これからはちゃんと『自分のために書く』ことを意識していこうと思った次第だ。一般の目に触れる場所に公開したら、その後の作品は【読者様】のものになるのだから、気にするだけ無駄だ、とも。
【他人】に見せるもの、って意識に囚われすぎていた自分に気づいたのですよ。だから、好きなネタを持っていてもなかなか続きが書けなかったのかもしれません。
長編なんかは特にそうですね~。ブクマやPVが増えるごとに『自分の好み』に疑問を覚えずにはいられなくなりましたから。私のメンタルは本当にぐらぐらのぼろぼろですね。




