403回目 2020/4/21
そうだ、初めてやった『評価クレクレ』の感想でも書こう!(ネタ切れ中)
久しぶりに数時間程度で書くことができた『幼馴染み』短編だが、実験投稿と銘打ったのをいいことに『評価クレクレ』なる行為もやってみた。
今まで投稿した小説に『評価をください!』的なことを書かなかったのは、単純に作者から『くれ』と言われずとも読者様が『面白い』と思ったらポイントは入る、と考えていたからだ。
これは作品に自信があるとかないとか関係なく、自発的にポイントを入れよう、と思ってもらえた評価でないと意味がないのでは? という考え方が根底にあるためである。
まあ、無駄な格好付けとかプライドとかって言い換えても問題ない。作家でまれによく見る、変な意地とそう変わらないものだし。
で、実際やってみた感想だが、やっぱり投稿する前も後も言葉にしづらい『もやもや』が残った。こんなところで頑固さを見せんでも、と思わなくもないが、いずれにせよいい気分ではない。
ただ、評価を入れる基準を考えるのはちょっと楽しかった。★がいくつならどんな感想を抱くだろうか? と自作を読者目線で考える練習になったからだろう。
反対意見がなぜか『NTR』に寄っていたのは私の心が汚れていたからだろうか? いや、個人的に『NTR』属性が苦手に感じているからだろう。昔は何とも思わなかったが、年々感情移入が激しくなってくると読むのがつらくなるのだ。
そういう目線で見ると、私の中で行える肯定意見と否定意見の対立は『好き嫌い』に偏りがちなのだなぁ、と気づける。
まあ『面白い』か『面白くない』かだけだと具体性に欠けるし、例示するとしたらその作品が前面に押し出す要素とはまた別の要素を引き合いに出さないといけないので、そうなるのは仕方ないのかもしれない。
そもそも、『面白い』という評価は数多ある価値観の中から、作品の有する要素と個人の嗜好が合致したことで生じる、奇跡的な感情共有だ。
多様性が当たり前な現代において、『面白くない』と感じる人が多いのもまた当たり前である。誰かが持っている価値観はあくまで個人の域でしかなく、広い世界の中に投じれば少数派に希釈されるのは必然なのだ。
だからこそ、作家側から『価値観が合う少数派』に見つけてもらえるような努力もしなければならないのだろう。めっちゃ苦手分野なのだが、そんなことは言ってられない。
私は私の『面白い』と思った小説を書く(というかそれしか書けない)が、いつだって私の『面白い』が『少数派』であることを忘れてはいけない。
『面白くない』という評価は、単純に『価値観が合わない人に引っかかってしまっただけ』だ。乱暴な言い方だが、気にするだけ無駄なのだろう。
だったら、『面白い』と思ってくれる人を呼び寄せる努力をした方が有意義だ。少しくらい開き直った方が、私にとっては精神衛生上いいのだ。そう思っておく。
なんで感想がこうなったのか? 自分でもよくわかりませんが、いつものことと思ってスルーしましょう。




