373回目 2020/3/22
人間の『想像力』に果てはない――というのは間違いかもしれません。
正確には、『想像力』に限界はあるのだろう……『人間が実行しうる範囲』という限界が。
『現実は小説より奇なり』という言葉がある。文字通り、たとえフィクションのような不可思議な出来事でも『現実』は容易に起こりうる、という意味だ。
考えてみれば当たり前で、人間は人間を越える能力を行使することなどできない。過去・現在・未来にわたって、『人間』が可能な範囲は決まっているのだ。
創作物の中でも時折見かける『人間を超える』という思想は、個人的に『不可能』だと思っている。
まず、命題自体が漠然としているのが気になる。『人間』のどのような性質を進化させれば『超えたこと』になるのか、『人間』と『超越者』のボーダーも完成型も見えないのでは越境の判断もできない。
たとえ超えられたと明確であっても、生物としての種を超えてしまえばそれはもはや人間とはいえない『別の生き物』だ。ならば『人間』を超えたことになりはしない。
『人間』はどこまでいっても『人間』だ。
どんな特定外来生物よりも生態系を壊さずにはいられず、どんな理由があろうと他の生き物ではあり得ない同族殺しを行わずにはいられない。
この世で一番の破壊者であり簒奪者――悪魔や魔王や邪神をも凌駕する醜くて残酷な生き物。
事実、夜の暗闇に取り残された時、子どもは『幽霊』など空想上の存在をおそれるが大人になれば『暗がりに潜む人間』をおそれる。
成長すればわかるのだ――この世にいる何よりも怖い存在が『人間』なのだと。
同じように『人間』が空想しうる世界は、どれだけ荒唐無稽でも『人間』が実行可能な範囲でしかないために、時として『恐怖』を覚える。
描かれた世界がたとえファンタジーで非現実なものであっても、そこで行われるあらゆる残虐非道な描写は『現実のどこか』を切り取っただけにすぎない。
洗脳・差別・圧政・大量虐殺などなど、およそ人道とはかけ離れたとされる行為はしかし、『人間』だからこそできる行いであるために『想像できる』のだ。
もしかしたら、物語の中で登場する『異形』と呼ばれる存在の方が、得てして『人間』の有する純粋でまともな部分を抽出した存在なのかもしれない。
少なくとも純粋な『人間』よりも、はるかに『生き物らしい』感じを覚えてしまう。そして、与えられた性質が『人間』に近ければ近いほど、『生き物らしさ』を失って醜悪にゆがんでいく。
『人間』として生まれたことは、果たして幸福か不幸か……考えたところで何の意味がないとしても、少し気になってしまう自分がいる。
知性や自我なんてない生き物に生まれたら、こんなくだらない考えに行き着くこともなかっただろうに。
ふと、旧約聖書の『ノアの方舟』で神様が世界を大洪水で押し流し、人類を終わらせようとした判断は真っ当だったのでは? と思いました。
しかしまあ、なるべく苦しまないよう死にたいと思ってしまうのは強欲でしょうか。これもまた、人間の業ってやつですかねぇ。




