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360回目 2020/3/9

 特に引かれる話題がなかったので、昨日の話題をもう少し引っ張ります。


 これも先日読んだ『なろう』エッセイにあった分析(というか考え方)で、『ざまぁ』とは『相対的優位性』を得ることで覚える爽快感・優越感の(たぐい)、らしい。


 さすがに上記で示したような書き方はしていなかったため、作中で使われていた(と思う)比喩を用いると要は『シーソーゲーム』らしい。


『ざまぁ』において重要なのは『主人公』と『見返したい他者(=敵キャラ)』の存在だ。これらをシーソーの両端に据え、『劣等性』が高まるほど重くなっていく仕様になっている。


 最初、『主人公』の『劣等性』が高いためにシーソーは沈み、『敵キャラ』から見下される形で相対しているイメージらしい。


 たとえば『男性的魅力で負けて彼女・婚約者を取られた』や、『戦闘能力に劣るため長く一緒に行動していた仲間から追放された』など、いわゆる『逆境』に近い状況を指す。


 そこから『主人公』は何かしら努力するか、あるいは突発的な出来事によって『劣等性』だった評価を逆転させ、『優位性』へと変化させる。


 すると、相対的に『敵キャラ』の『劣等性』の方が大きいと見なされるようになり、シーソーの傾きは『敵キャラ』側が沈んで『主人公』が見下ろす形となるようだ。


 具体例を挙げると『新たな異性の理解者と出会って立ち直る』方向へシフトし、『元婚約者側は問題多発で悲惨な目にあう』ことになったり、『元仲間たちは主人公を失って全滅・解散』といった流れになる。


 こうした『優位性・劣等性の相対的変化』が『ざまぁ』にとっては重要、ということらしい。なるほど、私にはとってもわかりやすかった。


 が、同時に『自分には合わないな……』と思ったのも正直なところ。


 元々、『ざまぁ』って何? と本気で思っていたほど、ジャンルにおける理解が足りなかった。その原因の一つに、自分の感性や価値観との相性があったのだろう。


 というのも、上述した『シーソーゲーム』のたとえは『同一評価軸における優位性・劣等性』でしか判断しておらず、『人間としての総合力』で比較していないのだ。


 ゲーム的パラメーターを用いると、『最初は攻撃力が低かったけど、中盤あたりから急成長して他のキャラより頭一つ飛び抜けた! だから最強!』みたいな理屈に感じる。


 RPGにおいては単なる『特化キャラ』にしかすぎない特徴を、あたかもその世界において『もっとも重要な要素』として切り抜き、大げさに扱っているように疑ってしまう。


 まあ、何のかんのいいつつ、単純に私が『一つ(あるいは少数)の特徴だけで人間を見るのが嫌い』かつ、『相対評価で人間に優劣を付けるのが嫌い』ってだけの話だ。


 それに、人生単位で見たら『人間の価値・評価』なんて短期間で大きく変動するものだなんてわかりきっている。どれだけ人気があった芸能人でも、スキャンダル一発でどん底に落ちるのと同じように。


 だからたとえ一時的に運が回っていたとしても、『主人公』のその後に『大きな挫折が起こらない』なんてあり得ないわけで。


 そう考えると、『敵(他人)を見返したからって、だからどうした?』と思ってしまう。他人との優劣なんて、それこそ『何かが優れている』なら『何かが劣っている』のが当たり前なんだし。


 あとは、『ざまぁ』系の勝手なイメージとして、『自分のここが悪かったかもしれない』じゃなくて、『あいつが全部悪いんだ』みたいな責任転嫁に逃げる傾向があるように思う。


 (あいつ)が現れたから、(あいつ)さえいなければ、(あいつ)をいつか見返してやる……など、私の受け取り方だと『復讐対象』だから『絶対悪』なんだ! みたいな扱いが多い、ような?


『主人公』が必ずしも狂気に走るわけではないにせよ、『ざまぁ』という物語の流れにおいて『敵は完膚(かんぷ)なきまでに叩き潰さないとダメ!』、という風潮は強いイメージがある。


 だからか、敵キャラとして出てくるのは次第に『クズ』と呼ばれても仕方ない人物像ばかりになってきた。フルボッコにしても罪悪感を覚えないように、という配慮なのかもしれないけれど。


 そうそう、最近よく見るようになった『幼馴染み』+『ざまぁ』系のあらすじをいくつか見た結果、いわゆる『暴力系』や『ツンデレ系』っぽいキャラクターを『敵役』に当てはめているものが多かった。


 これは『毒舌=モラハラ=攻撃!』とか『たたく=暴力=攻撃!』とか、単純な連想で『悪』と評価しているようにも思える。


 別に『敵役』のすべてを弁護するわけではないが、特にこのケースでは『幼馴染み』という『主人公が短くない時間をともにした関係性』があるわけだ。


 ならば、『主人公』側にも『虐げられている(と感じている)状況』に至るまでに、『何かしらのアクション』を起こしていることだろう。


 まさか『主人公』は、『幼馴染み』のやることを小説として始まる以前まで、ずっと『文句一つなく受け入れてきた』はずはあるまい。


 いやだと意思表示はしたか? 相手への説得などの努力はしたか? 自ら関係を切ろうと具体的な行動に出たことはあるか? 最悪、自分や相手の親御さんに相談したか?


 まあ、こちらも『主人公』の性格にもよる(例:気が弱い、引っ込み思案など)だろうけど、少なくとも『幼馴染み』の攻撃的な態度を形成するまでには、一部ながら『主人公』にも責任はあったと考えるのが妥当だ。


 そこから、『主人公』が唐突に『幼馴染み』との人間関係を終わらせるとして、何の話し合いも行われないまま一方的に切ったとしたら、『主人公』の『コミュニケーション不足』が顕著(けんちょ)になるだろう。


 設定的には『主人公』も『幼馴染み』も思春期の子どもであろうことを考慮しても、双方にとって『良好な人間関係』を構築する努力……『コミュニケーション不足』が深刻すぎやしないか? と。


 もし、『主人公』が自らの過失を(たな)に上げて『ムカつく奴と縁を切ったらつきまとわれて困るわw』なんて態度だったら、『いやお前は何様だよ?』としか思えない。


 たとえ実際の小説の流れが違う内容だったとしても、『ざまぁ』系の作品で見るあらすじは結構な頻度(ひんど)で『何だかなぁ』と感じる説明が多いから、私は敬遠してしまう。


 長々と一人語ったところで、『ざまぁ』は結局のところ私にとって『よくわからないジャンル』であり、『(現時点で)相性が悪いジャンル』ということだ。


 あくまでプロット上の話ですが、私がいわゆる『ざまぁ』系のテンプレから話を作ると、たいていが『主人公の再出発』で締めになってしまいます。


 物語の焦点が『ムカつく奴への報復』ではなく、『主人公が失敗体験(トラウマ)をどう克服するか?』とか『主人公の選択と決断は?』とかに当てられるんですよ。


 たぶん、『ざまぁの不遇(ふぐう)展開』を『主人公が内面的に成長するきっかけ』としか扱えないのでしょうね、私。


 こういうところが『アドラー心理学』と相性がいい部分なのかもしれません。他人は他人、自分は自分の課題につとめろ――みたいな。


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