351回目 2020/2/29
ちょっと衝撃的な考えがあることを知りました。
毎度おなじみ『読み速』さんの記事にて、『小説を全く読まない人「他人が考えた作り話にわざわざ金を払う意味が分からない」』という、ツイートまとめがあった。
もう内容はタイトル通りなのだが、『作り話』を『無価値』と考える人がいることだけで衝撃だった。
のだが、その人いわく『自分では生み出せない絵や映像には金を払う価値がある』とした理由から、マンガや映画は読む/見るとのこと。
さらには、その人は別に活字嫌いな方ではないらしい。むしろ、月に何冊かは書籍を購入するような人らしい。おそらくノンフィクション系や実用書系を好む人だと思われるが、私にはカルチャーショックすぎて意味が分からない感覚だった。
まあ、考え方は人それぞれだし、その人なりの理屈があるなら間違っていないのだろうが、趣味とはいえ小説を書いている身からすれば『寂しいぞ、コラァ!!』と言わざるを得ない。
その方と直接話をしたらしいツイートをした人によれば、『己の固定観念を覆すような考え方に出会うとなんだかワクワクするし、人間って面白いなあと感動してしまう』とのことだが、む~ん。
たしかに、今の私には理解できない新鮮な価値観ではあったが、それと同時に『小説』というコンテンツを下に見られている気がして、正直あまりいい気分にはなれなかった。
うまく説明できないが、まるで『自転車に乗れるのは当たり前だから、BMX(自転車競技の一種)の技だって誰でもできるでしょ?』みたいに言われている気がしてしまった。
感覚的に、識字率の高い日本は『文字の読み書き』が『できて当たり前』のため、『文章を用いた表現』が全般的に軽視されているような気がする。
『小説』はその最たる物だろう。『なろう』はすでに『誰でも叩ける劣悪コンテンツ』扱いされているところもあるし、その前に流行した『携帯小説』も、あるいは『小説』のジャンルごと否定する人もいたらしい。(『SF』なんかはちらほら聞いたことがある)
こういう話は各人の好みや感性や価値観といった、ふわふわした部分も関係してくるため何ともいえない部分があるにせよ、だからといって納得できるか? とはまた別問題だ。
なんだか人の悪口を言うようでイヤなのだが、気になってしまったからここで書いてしまう。
どうも『使えること』と『使いこなすこと』をごっちゃに考える人が、世の中には想像以上に多いような気がしてきた。
対象が『文字・文章』だと伝わりづらいが、前述した『自転車』などのように『他の道具』を当てはめれば、私の言い分も少しは聞いてもらえるかもしれない。
『毛筆』は習字・書道の時間で使い方を学ぶとしても、誰もがすぐに『書道家』と同じレベルで書けるわけではない。
ものすごく極端なことをいってしまえば、『バスケットボール』でドリブルができるから『サッカーボール』のドリブルもできる、みたいな言われ方をされた気分になってしまった。
若干、見当はずれな主張や例示をしている自覚はあるものの、何ともいえないもやもやを感じてしまったのは事実なのだから、誰も読まれていないだろうこの場で吐き出すくらい許容してほしいと思う。
ちょくちょくネットで目にする『小説が下手だって言うならおまえが書いてみろ!』という反論も、もしかしたら同じ理屈・感覚を共有している可能性はありそうだ。
今回は思ったことに従って書いたものだが、いずれ違う価値観を持てば意見は変わるだろう。
とりあえず、『この日の気分はこうだった』という意味で残しておこう。
今回話題にした記事のタイトル、読み方を変えれば『他人の考えた物語に価値はない』ともとれるんですよね。
これを思いっきり拡大解釈をすれば、真偽不明な神話・伝記・聖書など『人類の文化や文明を生み出してきた社会的基盤』ごと否定するんじゃないか? などと曲解できてしまいました。
だから、ちょっとムカっときたのかもしれません。……なんか過激派っぽい因縁のつけ方してて、自分でも少し引きました……注意しよう。




