346回目 2020/2/24
『なろう』のエッセイランキングで『レビュー』の話題が増えたことから、ちょっと思ったことを書きます。
……あ、『レビュー』についてはほぼ何も書きません。
『なろう』において、他作品への『レビュー』は書店のポップや帯のあおり文と同じく、『オススメ作品の宣伝』を行うための機能だ。
自分の感性に刺さった作品を他人にも知ってもらって、自分が感じた感動や興奮を分け合いたい! みたいな気持ちが働いて書かれるものだと、私は認識している。
中には作者同士の交流や『レビュー』を書く自分(=『レビュワー』)の名を売るため、みたいな理由もあるようだが、そこらへんは各人の自由だから構わない。
まあ、ごく一部に『レビュー』の場を使って作品にケチを付けるような人もいるようだから、どんな場所にもよくわからない人種は生まれてしまうのだろう。
それはさておき、私は自分以外の作品に対して『レビュー』はおろか『感想』さえまともに書かない作家である。読者からの反応がほしい作家にとっては、もうちょっと頑張れよと言いたくなる読者だろう。
ただ、『レビュー』に関するあれこれを目にして、自分はどうだろう? と考えたところ、元も子もない意見しか出てこなかった。
『別に書かなくていいや』、と。
誤解を生むとよくないので先に述べるが、『レビュー』そのものを否定する気は全くない。
『レビュー』はいわば、出会った作品に対して『感想』でも言い足りないくらいの感動を表現したいときに利用する場だ。作家の魂の叫びが『創作物』であるように、読者の魂の叫びが『レビュー』なのである。
なので、『レビュー』も表現であることを考慮すれば、アマ作家の身である私が否定などで着ようはずもない。最初から悪意がある前提をのぞいて、だが。
しかし、上記のように『私』が『レビュー』を書く立場で考えたら、やはり『別に書かなくていいや』という結論にしか至れない。
それは別の作家様が書かれた小説が『感動に値しない』という意味では断じてない。長年『なろう』を利用している中で、長期間ブクマをつけさせていただいている小説はあるし、今も楽しませてもらっているくらいだ。
ではなぜ『書かなくていい』と思ってしまうかというと、私の『創作物の楽しみ方』が大いに関係している。
突然だが、『この世には二種類の人間がいる!』――みたいな極論かつ暴論にまみれた二元論を展開させてもらおう。
テーマは『創作物の楽しみ方』で、一つは『感動を共有したい人』、もう一つが『感動を咀嚼したい人』になる。
薄々わかっていただけたかもしれないが、私は『後者』に属する人間である。
『共有側』の意見は文字通り、『自分が得た感動を他人と分かち合いたい』とか『他人にも知ってほしい』と思える人だろう。それは純粋な善意の場合もあれば、価値観を共有できる仲間を求めている場合もある。
解釈の仕方は別に何でもいいが、要するに『感動を一人で独占したくない』という心理があるのだろうと推測する。
祭りのテンションに近いだろうか。『楽しいことを一緒に作る』ことに楽しさを見いだし、大勢で騒げば騒げるほど自分もより楽しくなれる、みたいな。
少し意地悪を言えば、裏を返せば『一人で楽しむこと=寂しいこと』と思っている節がある人ともいえる。もしくは『恥ずかしい』とか? 人間は社会性を有する動物なので、少数派に属するのを避けようという気持ちになるのかもしれない。
では自称『咀嚼側』として意見を述べると、『自分が得た感動を自分なりに楽しみたい』という気持ちが強い人になるだろう。元から『他人の意見は参考程度』と割り切っているともいえる。
たとえば、世間からどれだけ『救いようがないほどのクソ』とレッテルを貼られている作品があったとしても、その作品を『好き』や『面白い』と感じる人が『ゼロ』にはならない。
大きく声を上げないだけで、創作物に対して必ずファンになる人は現れるのだ。時に冒涜的かつ背徳的な要素を含む『アブノーマル』なジャンルを好む人が、この世からいなくならないように。
そういう人たちは、私が思うに『感動の共有』を求めていない(または期待していない)からこそ、『アブノーマル』にも魅力を感じることができる。
一見すれば不快にしか感じられない部分も、見方を変えたり自己流の解釈を交えたりすることで、『少なくとも自分にとっては魅力的だ』という側面を見つけられるのだ。
まあ、悪く言えば『ノーマル』の刺激に飽きた・適応できないために、極端な刺激へ流れてしまった『アウトロー』ってだけかもしれないが。
『共有側』と『咀嚼側』のどちらがいいか悪いか、という論争はしない。というか、私が興味ないだけだ。『物事の楽しみ方』なんてそれこそ『そいつの自由』なのだから。
話を『レビュー』に戻すと、積極的に書きたい人は『共有側』で、書かなくてもいい人は『咀嚼側』だ、と大ざっぱな分類ができそうだよね、って結論になる。
あくまで雑なくくりをした二つの集団を用いて比較しただけなので、細かい部分は目をつむってもらう必要があるものの、上述の理由もあって『レビュー』って希少になるのでは? とも思うのだ。
なぜなら、読書=文章を読むことを趣味にできる人はイメージ的に『インドア』で『内向的』な人の割合が多そうであり、『共有側』と『咀嚼側』の構成比率がさほど変わらなそうだからだ。
ぶっちゃけ、人類全体で見れば『共有側』の方が『咀嚼側』よりも『圧倒的多数』を占めていると思う。『咀嚼側』がかなりの少数派という実感もある。
ただし、『読書を好む人』と属性を限定すると、『咀嚼側』の割合が飛躍的に上昇すると思われる――『本』に書かれた『世界観』や『価値観』を楽しめるが故に。
現在の読書は朗読会でもない限り『黙読』――つまり『一人』で行う作業だ。そうして得た知識・経験を『咀嚼』するのも基本的には『一人』であり、『本』が好きになればより『一人』の時間も増えていく。
そうした『一人』の時間が増加することにより、『咀嚼側』傾向が強くなっていくのでは? と考えたからこその意見になる。
『咀嚼側』が増えると言うことは、それだけ『自分の意見・感動を秘めておく人』も増えやすくなる。
『感想』はまだ『作家一人』に向けた意見という認識があってハードルは低いが、『レビュー』は前提から『不特定多数』に向けた意見になるため、ハードルがすごく高く思えてしまう。
だからより、『レビュー』をしたいと思える人が希少になってしまうのだろう。
『自分の意見』をさらすということは、『他人から批判を受けるリスク』も背負うことになり、『自分なりの解釈』だけで楽しんでいた人はよけいに『他人から否定』されると『自分の楽しさ』が崩されてしまう。
なので、『レビュー』は『作品の公開』と同じくらいの『度胸』が必要になり、二の足を踏んでしまうのだろう。
しかも『レビュー』は『他人の作品』につけるもので、『自作品』を投稿するのに比べて『責任』が『自分』以外に『レビュー作品・作家』へも飛び火する可能性が高くなる。
『一人』で背負うだけでもきつい責任なのに、心情的には『二人分』を背負うことになるのが『レビュー』なのだ。
そう考えると、良作をスコップできる『レビュワー』って常に『自分』と『作家』の『責任』を背負って、ブランドを維持し続けているんだから、本当にすごい人たちなんだなと思ってしまう。
まあ、どう転んでも私は『咀嚼側』でしかないので、『自分なりの解釈』で満足してしまうのだけれど。
途中からちょっと自分でも言いたいことがわからなくなってきています。長文・乱文にて失礼しました。
『咀嚼側』の考えは、特に『アニメ』を見始めたころからより自覚が強まった気がしています。ときどき、掲示板などで作品への感想を書いてあるまとめを見るので。
他の人が同じ作品を『面白い』と書いていたらほっこりするだけですが、『つまらない』と書いていても『じゃあ見るのをやめよう』とはなりませんし。
だからこそ、私は流行に乗るのが苦手なままで『共有側』になれないのでしょうね。ラノベ書きたいならマジで致命的な欠点だと思います……。




