342回目 2020/2/20
今回はとあるエッセイの感想から、自己反省をしようかと。
またエッセイの日刊ランキングから見つけた、『“あなた”の読者がなかなか増えない理由』というエッセイから話題を見つけた。
先に弁明しておくが、『読者がほしいから』気になったわけではなく、どんな内容か純粋に気になったからだ……本当だよ?
それはさておき、内容については『読者目線って大事だよね』みたいなざっくり理解で読み終えた。そこはまあ、『作家の押しつけはダメ』っていう戒めの再認識になった。
ただ、私にはわかりづらいツイッター用語が出てきたのは難しかったが。ツイート、リツイートまではわかるが、リプライとか固定ツイートとかって具体的にどういう意味だろうか?
やはり、私にとってツイッターはまだ早すぎるツールだと、天の啓示が下されたのだろう。あの青枠からくり抜かれた鳩は、世界中に糞害をまき散らす災害に違いない。(偏見)
で、そこから感想欄に何気なく入ったわけだが、普段は気にすることのない『作家としてのスタンス』について、ちょっと考える機会をもらう内容があった。
エッセイのタイトルからの意見、と考えてもいいその疑問は、小説を『なぜ書くのか?』と『なぜ発表するのか?』という問題である。
そこから派生して、『なぜ読者を増やしたいのか?』や『どのような読者を増やしたいのか?』、そして『どれくらいの読者がいれば満足できるのか?』も言及されていた。
この方の感想意見を読みとるに、作家の『承認欲求』や『自己満足感』につながる部分としてあげられ、そのまま個人の『小説を書く動機』に触れている。
この点において、私はいまだ半分しか答えを持っていない。『なぜ書くのか?』は自分の中ではっきりしているが、『なぜ発表するのか?』があまりわかっていないのだ。
『なぜ書くのか?』――これについては明白だ。『私の主張を言語化したい』というまだるっこしい『自己紹介』の一面と、『私がどんな人間か知りたい』といういわば『自分探し』の一環である。
『自己紹介』とは、共感されるかはともかく、わりとわかりやすいだろう。私は私の内に抱える思想・信条・好悪・衝動などを『小説』という形で表現したい――表現『できない』と思っている。
理由としては、私は口頭(つまり自分の口)での『自己表現』をすごく苦手に思っているためだ。『自己開示(自分という人間をさらけ出すこと)』はおろか、『自己提示(自分という人間をよく見せようとすること)』さえ得意ではない。
そもそも『自分への理解が足りないと自覚している』なんて前提もあるが、他人に我を通せるほどの『自信』がないし、逆に『理解されようと思っていない』部分がある。
……もしかしたら、これが『承認欲求の低さ』につながっているかもしれない。私は『私』という人間を『理解できず』、また『理解してほしいとも思えない』という点で、『私の価値』を信じられないのだろう。
だからこそ私は『私』を表現し続けて、『自分探し』をしていると感じている可能性が高い。『私』という人間を『小説』という形で部分的に出力することで、『『私』とは何だ?』と問うているのだ。
それが単純に『面白いから』、長続きしているのも事実だ。とはいえ、今の私が考えるには『なぜ書くのか?』の本質には『自分探し』の念が強く根ざしているように思う。
これだけ書くと、マジで『モラトリアム期(子どもと大人の中間期)』にでもすませとけよ、って話なんだが。正直、『大人になり切れていない大人です』って言っているようで情けないことこの上ない。
そこらへんは深くつっこむとダメージが大きくなりそうなので横に置いておくとして、次に問題なのが『なぜ発表するのか?』だ。
いちおう、私の記憶や経験上から思いつく理由の一つは、『現実逃避のツールになれれば』という思いがありそうだ。
何度かここでも弱音として暴露したこともあった気がするが、過去に神経症と診断され『うつ』に近い状態になったとき、私が気晴らしに利用していたのが『ラノベ』だった。
自分ではない他人の物語に触れて、面白い話に笑って感動してドキドキして、『死にたい』って気持ちから目をそらす一助になった。
すべてが『ラノベ』のおかげ……というわけではなかったが、私の人生における分岐点で『ラノベ』が果たした役割はそこそこ大きかったように思う。
だから、小説を書き始めた最初に思ったことが、『落ち込んだ誰かを励ませるものを作りたい』、だったはず。十代の後半にしては、考え方がかなり青い気がするがまあいいか。
ただ、よくよく考えるとそこから私の『なぜ発表するのか?』につながる強い考え方は、見つけられていない。
いつの間にか、ただ漠然と『発表できるなら発表したい』って惰性の気持ちに傾いていって、今までずるずると年齢だけを重ねてきている。上記した理由でさえ、いつしか意識することすらしなくなったくらいだ。
感想にて意見を書かれた方によれば、『発表する理由=読者のため』であり、中でも『どういった読者のためか?』について考える必要性を説かれていた。
たとえばジャンルで言えば、『ご都合主義的なお気楽な話』を求める人と『不条理に満ちたシリアスな話』を求める人では、小説に対する評価はまったく違う――と真っ当な意見も添えられていた。
『なぜ発表するのか?』はすなわち、『誰に向けて宣伝したいか?』という『(ウェブ)作家としての情報発信の方向性』や、『どんな人に読んでほしいか?』という『自分が大事にしたい作家性』を決定する指標になるものである。
いわば、『ゴールがある方角を常に指し示してくれる方位磁石』の役割を果たし、『必要になる努力の種類』を自覚する近道を示してくれるのだろう。
これを書いている最中に思い出せた初心では、きちんと『なぜ発表するのか?』が見えていたはずなのに、何も考えなくなっていた自分に気づき驚いている。
とりあえずは、上記の例を引用すると『不条理に満ちたシリアスな話』を書きたい作家なので、その需要に応じた読者へ向けた内容と看板を作れる努力をしていこう。
『読みたい人』に『見つけてもらう努力』が必要なのはウェブも書籍も同じだろうが、ウェブの方が作品の母数が多いぶん大変なので、がんばらなければなぁと思う。
プロになると、本来は『読みたい人に見つけてもらう努力』は『出版社=編集者』が分担してくれるものだと思っていますが、実際はどうなんでしょうね?
いくらファンへの直接的な発信力があるとはいえ、『SNSでいっぱい宣伝して下さい!』で作家に丸投げするような人もいるとは思います。編集者一人につき複数の作家を担当するようなので、ハードワークからケアが不十分になる面もあるのでしょうが。
風の噂で『ウェブ版と書籍版で誤字・脱字・衍字(不要な文字がある・例:私ははそう思うう。)がそのまま放置されてる』とか聞くので、ウェブ作家の作品は『使い捨て』なんだなと思うと、作家でスキルを磨かなきゃと思いますもんね。




