34回目 2019/4/18
よく考えれば、最近『考えるな、感じろ』ルールを実践できていませんでした。
ネタがかぶることを気にしてか、あんまり書けることがないなぁと感じ始める今日この頃。
私の心中暴露大会と化したこの作品もいろいろ書いてきたが、やはり人がため込める情報や感情も無限ではない。
タンスの中へぎゅうぎゅうに詰め込んだ洋服のように、一見手がつけられないように見えて全部出してしまえばすっきりするものだ。
まあ、タンスの中で虫に喰われてボロボロになった服が大量にあれば、掃除する手間とかでうんざりするのだろうが。
たとえが洋服だからわかりづらかったので、冷蔵庫で置き換えればよけいに大変さが増す。
腐った食べ物は視界に入れるだけでもおぞましい外見だろうし、中身が漏れ出ていれば冷蔵庫も大惨事だ。
掃除だって大変で、シミや汚れが取れないかもしれない。臭いが残ったら最悪だ。
心の掃除もまた、完璧に綺麗にすることはできない。
ましてや冷蔵庫などと違って、人の心には保存に適した機能など備わっていない。
ためればためるほど、ぐじゅぐじゅに腐って凝り固まって根をはってしまう。
私たちが有機生命体であるように、心もまた有機物に近いと考えるべきだ。
心の汚れが一度根を張ってしまえば、侵蝕された部分だけを取り除くことは難しい。
トゲが刺さるのとは訳が違うのだ、蓄積し続けた心の淀みは。
見えないものへの価値を軽視する時代だから、私もまたふわっとした考えでしかないが、見えないからこそ対処が難しいのはわかっている。
人間の感覚器で一番優位なのは視覚だからこそ、目に見えるものが重要視されるのは当たり前なのだろうけど。
人間が人間たらしめる精神性は『目に見えないもの』だ。
それぞれの言動や態度から透けて見えるかもしれないが、やはり『透明』なのだからはっきりとは『見えていない』し『触れない』から確認できない。
故に曖昧なものを否定することはすなわち、人類批判といえるのではないだろうか?
種族単位の自己否定。
富が権力が名声が、絶対的に肯定され正義だとする風潮。
時々、ふと、昔の時代の生き方をうらやましく思うことがある。
食糧難で飢餓が天敵であり、命の危機が身近にあって仏教的な四苦八苦の考えが色濃かっただろう時代。
そこに私がいたならば、『無益な考えに苦しむこと』はなかったのだろうか?
とはいえ、心の豊かさは胃袋の、ひいては生活の豊かさがあってこそ得られる物。
当時に生きていれば餓鬼となっていただろう私が贅沢な悩みをもてた時代だと思えば、現代も悪いところばかりでないのは確かだろう。
何にせよ、心の豊かさと生活の豊かさは完全な正比例関係にないのだから、『人間らしさ』って何なのかという疑問はつきない。
自分の性根が無意識にそうさせたのでしょう。無自覚って怖い。
(ちなみに、私は別に特定の宗教の熱心な信者ではないし、共産主義? や社会主義? こそが正しいというつもりは微塵もありません。
というか、宗教の細かい部分とか共産主義や社会主義の内容とか、勉強不足で知りませんし。
これを書いている段階でも、『何かのめり込んだら怖い』ってイメージしかありませんね)




