339回目 2020/2/17
偶然、テレビで見た話題と『なろう』のエッセイで読んだ内容が似ていたので、少し考えてみます。
深夜にやってた音楽番組を見たとき、解説役として出演していたプロのアーティスト(たぶん作詞家の人)が気になる発言をしていた。
『ここ最近の曲は、誤解やミスリーディングが起きないように注意した歌詞が増えた。それは作詞の段階から「意味が明確でわかりやすい歌詞」を求められるからでもある。テレビ番組のコンプライアンスが厳しくなったのと同じように』
まるっきり上記と同じことを発言していたわけではないが、似たようなやりとりがあったのは事実だ。
ちなみに、そのときの企画は『袋とじにしたい大人な曲』だったと思う。印象としては昭和の曲が多かった。
実際、プロが解説していた曲の歌詞に注目すると、聞き手の『想像力』を試されるような『余白』が用意されているのがわかった。明言されていないからこそ、解釈が数パターンほど発生する仕掛けになっている。
番組内では『歌詞にも流行があるため、昔がよくて今が劣化した、と単純な評価はできない』みたいなことを話されていたが、個人的に『妄想の幅が広がるような表現』にはとても心引かれるものがある。
一例では、『天城越え』という紅白歌合戦でよく聞いた有名な曲の冒頭、『男の妻』目線で聞くか『男の愛人(浮気相手)』目線で見るかだけで、印象がかなり変わってくるという。確かに、歌詞だけなぞったらぞっとする『女性の情念』を感じた。女って怖ぇ。
さて、話は変わって『なろう』のエッセイをのぞいていた時のことだ。実は、ここで書けるような話題がないか、毎日のようにエッセイランキングをのぞいてネタを探している。
話題のネタはすぐ切れるから、探すのも一苦労だ。
それはさておき、私が目をとめたのは『「テンプレがどうか」なんてことより、「面白いかどうか」で論じませんか。』という、批判系エッセイだった。
いわゆる『テンプレ批判』と思われるタイトルだが、内容はもう少しつっこんだ創作論について語られていた。私は『要約力』がないため、中身のあらすじなどは割愛する。読んだらわかる。(便利な言葉)
その中で、『エッセイランキング』についての考えを記した部分が気になった。いわく『「どうしたら書けるか?」よりも「どうしたら読まれるか?」を論じる創作エッセイが増えた気がする』、とのこと。
いちおう私の解釈では、『自分が伝えたい感情・思想・世界を小説として書き出す方法』よりも『自分が書いた作品を多くの人に読んでもらう方法』の方に注目が集まっている、と作者様が感じたように受け取った。
『なろうテンプレ』という『シェアワールド』が有名になったこのサイトにおいて、ある意味で必要な知識や方法論ではある。しかし――それは本当に『面白い』のか? などと話題を広げられていた。
『書き方』と『読まれ方』の創作論について、私も『言われてみれば……』と素直に思えた。
タイトルやあらすじはこうすればいい、一話の文字数はこのライン、投稿は基本的に毎日などなど、『人を集めるための工夫』を紹介するエッセイがランキングの上位によく上がっていたように思う。
さらに、そのエッセイ内でとある作家さんがインタビューでの発言を取り上げられていた。いわく『今のコンテンツはお粥化している』、とのこと。
ニュアンスとして、今は『美味しい』だけでは『食べて』くれないから、いっそのこと『噛まないで』いいように、『提供者』があらかじめお粥のようなものに作ってお客の口元まで持って行く、という話らしい。
食べ物のたとえなので、どこか『洋食文化の流入による日本人の軟食化(アゴの筋肉や骨がやせていくこと)』に近い印象も受けた。
SFっぽくたとえると、『結果的に生きられるんだったら、食事は固形にこだわらなくてもゼリーで十分』、みたいな感覚だろうか?
食べ物の見た目や温度、食卓の場所や同席人数なんてあってもなくても同じ。栄養価が完璧な小麦粉っぽい粉と水さえあれば『精神と時の部屋』での孤食でもいい、ともたとえられるかもしれない。
なんというか、徹底的に『効率化』と『合理化』を突き詰めた現代っぽい考え方に感じる。物質的な豊かさを得たことと引き替えに、精神的な貧しさを抱える『余裕のなさ』が浮き彫りになったような。
エンタメにおいては特に、『新しい楽しみ方を見つける』のではなく『新しい楽しみ方が生み出されるまで待つ』スタンスが当たり前になっている感覚は強い。
昭和の子どもは『水切り(川などの水面に小石を投げて何回跳ねるか? を競う遊び)』や『ちゃんばら(木の枝などを刀に見立てて行う殺陣、わりと危険)』など、『遊び道具』がないから『遊びを開発』していたような印象がある。
一方、平成以降の子どもは『テレビゲーム』や『スマホアプリ』など、生まれたとき(生まれてすぐ)には『遊び道具』がいくつも存在し、『遊び』に困らなかったからこそ『開発』する必要がなかったとも思える。
まあ、昭和以前の子どもの『遊び』って今の感覚だと結構ヤバいものも少なくない(カエルの口やお尻に火をつけた爆竹をつっこむとか、子どもだけで川遊びとか)けど、『退屈』を自ら解消する姿勢に関しては、平成以降の子どもより長けているのは間違いない。
だから、『自分なりの解釈』を持つことが『創作の楽しみ方』でもあったのだと思う。『不特定多数と一緒の共感』を持つことが『創作の楽しみ方』になった、現在とは違って。
前述の通り、どちらがいい・悪いというわけではない。双方に優れた部分もあれば、劣った部分もあるだろう。
ただ、私はこのテーマにおいて、どちらかというと『古いタイプ』の人間だ。
『適者生存』を考えれば自作を『お粥』にするべきなのだろうが、やっぱり『ご飯』は『ご飯』として、『おかず』は『おかず』として提供できる創作者になりたい。
『一日の栄養を一度に補えるゼリー』よりも、『栄養価が偏った唐揚げ定食』の方が絶対に満足するだろう。
というわけで、私はこれからも糖尿病などに気をつけて『唐揚げ』をむしゃむしゃしていく所存である。
上記のたとえをさらに使うなら、創作する側にいるのが『昭和の子ども』で、消費する側にいるのが『平成以降の子ども』とも言い換えられそうです。
とはいえ、『ゆとり教育世代』の中にはスポーツや音楽などの『一芸』に特化した天才みたいな人も多いらしいので、やっぱり一概に『これだから若いもんは……』とはいえませんね。




