24回目 2019/4/8
なろうテンプレも含め、私が小説で書きたいのは『シチュエーション』ではありません。
またもや自己分析の話になるが、私はどちらかといえば職人気質である。
作れる作品が職人並のクオリティでは決してない、あくまで気質・性分の話として、だ。
なので、小説を書き始めた当初は商業作家に憧れたものだが、今はよくわからない。これは前にも書いたかもしれない。
商業作家はすなわち、『商人』だ。
売れるもの、受けるもの、流行のものを出し続けることが正義であり、正解。
それを考えると、私はまったくといっていいほど『商人』に向いていない。
なろう作家としての活動もそうだが、他のSNSで宣伝などはしていないし、今後もする予定はない。そもそもアカウントがない。
それに積極的に売り出すようなことはできない。自画自賛というか、手前味噌が苦手なのだ。
私は面白いと思うが、他の人に勧めたいと思える作品を書いている自覚はない。
あくまで独りよがり、それが私の作家活動であり変われない部分だ。
まあ、知名度もクソもない私のこだわりなど、ワナビ特有の無駄なプライドなのだろう。
自覚はあるし否定もしない。
ただ、何というか、私は執筆を通して自分の内面を探り、会話する作業をやめたくはない。
思いつくネタを掘り返し、吟味して、書きたいと思えるようになる頃には、割と自分の知らなかったことについて気づけることがある。
それもまた、小説を書くことの楽しみなのだ。
私は私を知らない。
私は私が知りたい。
それが私の書く原動力の一つだ。
ただ、悪い癖の一つでもあることとして、私は承認欲求がたぶん薄い。
評価されてありがたくと思うと同時に、どこか評価なんてしなくていいとも思っている。
作品を公開しているのは、もったいない精神に近いか。死蔵するくらいなら天日干しにすんべ、といった感じだ。
過大で過剰な評価には、与えられる権利とそれ相応の責任が生じる。
ワナビである私にとっては、『読者の期待に応えること』が責任に当たるだろう。
私の考えとして、『期待』とは必ず『崩れるもの』だと思っている。
風船みたいなものだ。『期待』を入れすぎたら、やがて耐えきれなくなって破裂する。
それだけの『期待』を集められる自信があるとかじゃない。
運の要素で集まってしまった場合の『期待』に、押しつぶされることが怖い。
臆病なのだ、根っこが。
私はいつも、杞憂の故事みたいな予期不安に毎日を殺されかけているような感じがしている。
今を信じられないし、未来は暗闇に閉ざされているし、過去に積み上げたものなど何もない。
グラグラした足場と背筋で、どこにも行けずにさまよう迷子。
……ポエムってきた自分に、かなりの末期を感じる。
とはいえ、そういう表現も小説の描写に使えるだろうから無駄にはならないだろう。
まあそんなわけで、私は他の人みたいに『誰かの応援』でやる気が出るタイプではないようだ。
『期待に応えたい』のと同じくらい、『期待してほしくない』。
本当にどうしようもない落伍者だと、自分でも思う。
描きたいのは『キャラクターの人生』であり、『栄光』よりも『栄枯盛衰』に惹かれます。
だからか、ときどき『胸くそバッドエンド』を書きたくなる病気が……。




