231回目 2019/11/1
子どもの頃のことって、どれだけ覚えてますか?
ふと、何気なく子供時代のことを思い出した。
何歳の頃か、具体的なことは覚えていないけれど、夜に布団の中で言いしれぬ恐怖におびえながら静かに泣いていたことがある。
理由は、『母親の帰宅が遅れていた』という事実から『車で交通事故を起こしたのでは?』と発想が飛び、さらには『母親がいない日常』を想像してしまったからだ。
子どもの私にとっては自然な連想で、突飛な考えではないと受け入れていたはずだが、今にして思えばずいぶんと感受性や妄想力が豊かな子どもだったのかもしれない、と思う。
今こうして自分の思いを文章に起こしたり、空想の物語を小説として書いたりするのも、そうした性格的下地があったからなのだろうか?
恐怖心つながりで言えば、子どもの頃はよくトイレにおびえていたものだ。
詳しい間取りは省くが、私の幼い頃に寝床として使っていた場所はすぐ足下にトイレへ続く扉があり、当時はいわゆるぼっとん便所というやつだった。
それが幼心に恐怖を覚えたのか、たびたびトイレから和製ホラー代表の貞子みたいな長髪の女性が這い出てきて、私の足をつかんで引きずり込むという想像に縮こまっていたこともある。
寝る前に怖い妄想をしてビビっているだけならまだマシで、寝ているときの夢で見たときは本当に死んだかと思った。単なる想像よりも、夢の臨場感といったらもう……ね?
幸い、それがトラウマになってホラー系がダメになった、ということはない。リングや呪怨みたいな和製ホラーを夜中に一人で見ろ、というのはキツそうだが一般的な耐性くらいは持っている。
とかく、私は昔から思いこみが激しい部分があったのだろう。それが小説に活かされているところもあれば、人生に陰を落としている部分もありそうだが。
あまり自分から昔のことを思い出そうとしないのは、記憶の引き出しから出せる内容が『負の遺産』しかないからかもしれない。
ただ、やっかいなのが『ふと忘れた頃』に思い出すことだろう。いわば『失敗体験のフラッシュバック』だ。これによりよけいに、私の自尊心は成長する機会を奪われた。
自信家になりたい、とまでは言わない。せめて、自分で自分を認めず過小評価し続けるようなことをやめられたら、とずっと思っている。
物語の中では、キャラクターはいろんな体験を通して成長していく。
なら、現実に生きる私はどうなのだろう? 変われるのだろうか? 克服できるのだろうか?
自分で情けなくなるほどの臆病者でも、胸を張って太陽の下を歩けるような人間になりたい。……別に犯罪をしたわけではないけれど、そんな気分が常につきまとっている。
私の場合、鮮明に覚えているのはだいたい『嫌なこと』でしたね。
『楽しかったこと』とか『うれしかったこと』って、私のポンコツ脳味噌は優先して消去していくようで、本当に自尊心が育つ暇もありませんでした。
もしも『なろう』みたいに転生したら……なんて考えることもたまにありますが、結局『三つ子の魂百まで』とも言いますし、自我が残っていたらどうせ今の私みたいな人間にしかならないんでしょうね~。
そう考えたら、転生も案外夢を見れるほどの魅力はないのかもしれませんね。たしか、仏教の考えだと『輪廻転生』が『苦行』に位置づけられているらしく、なんか分かる気がします。




