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225回目 2019/10/26

 最近ネガ系の心境をボロボロこぼしていますが、だいたい私のテンションはこんな感じなので気にせずスルーを推奨しております。


 例のごとく、まとめサイトで挙げられていた記事で目を引いたタイトルがあった。


 そのまま引用させてもらうと『読みやすい文章とは、読者の「読む速度」と「理解する速度」が一致する文章のこと』というものだ。


 ツイッターの発言からまとめられたもので、名前に『編集者』と書かれていた方によると『理解が追いつかないと何度も読まないといけないし、分かり切ったことをくどくどと書かれるとイライラしてしまう』とし、読み手のストレスが少ない文章=読みやすい文章と解釈している。


 それには私も納得したし、そういう文章を書ければいいなとも思った。が、言い換えれば『読み手』と『書き手』の文章読解におけるチャンネルが合わないといけないわけで、『書き手』の調節が難しい分野とも思えてしまう。


 たとえば『なろう』だとイメージ的に短く、手軽で、簡単な文章で進める感じになり、まるで動画を見るような『読みやすさ』が支持されているように思える。


 利点としてはシーンの移り変わりが早く、ストーリーの進行速度が速いことが挙げられるが、逆を言えば情報量が少なすぎるため詳細な情景は『読み手』の想像力に依存して補填する形になることだろう。


 よく言えば、脚本やト書きから自分の『理想的な世界』を想像し構築する下敷き(ベース)の役割として見た場合の汎用性が高い。


 悪く言えば、張りぼてばかりの園児劇を見せられているがごとく、すっかすかな世界に放り出されたような手抜き感が強い。


 あくまで私の所感における『なろう系』の認識の一部が以上になるが、そうした作品群において『読み手』の想像を阻害する要素が『読みにくさ』につながると考えられる。


 ここで、この話題におけるツイート者の発言を意訳して記載してみる。


『読みやすい文章を書くためのポイントは三つ。

1.きちんと内容を理解しておく

2.ひとつずつ伝えるようにする

3.情報の濃度に気をつける』


 どれも『書き手』側が意識すべき心構えとして、納得できるものではある。ただその中で、私が上記に示した懸念に該当する部分は『三つ目の項目』から見て取れるのもわかるだろう。


『情報の濃度』におけるさじ加減について、極論を言えば『読者層(なろう)』にあわせた結果が『なろう系』であるとすれば、『作者(かきて)』にあわせた結果がいわゆる『文学』である、とは考えられないだろうか?


 さすがに『文学作品』の全てが作者の独りよがりだ、などという暴論を主張する気はない。とはいえ、現代まで残っている『名作文学』と呼ばれるものの多くが、作者が作り上げた思想や主張が色濃く反映されているものが多いのも事実だろう。


 あとは、文語などの『小難しいイメージの小説』でしか見ないような表現の多用も『文学』にはよく見かける。


 これは『文学』におけるかつての『読み手』は、文語を十分に理解し使いこなすような『知識層』が主流だったという背景もあるだろう。つまり文語が多い文章は、『読者層(ぶんがくしゃ)』にとっては必ずしも『読みやすい』とまではいかないまでも、決して『読みにくい』文章ではなかったのでは? と考えられるのだ。


 そんな私の推測を考慮しても、だ。『書き手』が『文学作品』における『最適な表現』として選んだ言葉が文語であるのならば、『読み手(そちら)書き手(こちら)の意図を読みとれ』という『情報濃度の押しつけ』が多少はあったのでは? とも思える。


 そうした面と比較すると、現代の小説――特にライトノベル系の読み物は商業主義に従い、ほぼ『読み手の評価を絶対の基準』としてみる傾向が強い。


『小説』という『商品』で利益を上げるためならば、『書き手の思想・主張』のために必要な部分は『読みにくさ』と判断されやすいのではないか? と感じてしまう。


 もちろん、純粋に『書き手』の技量が足りていない場合は往々(おうおう)にしてあるだろう。下手な『書き手』は言いたいことを『読み手』にうまく伝わるよう簡潔にまとめられず、ただ文字の量がかさむだけの文章で『読み手』を退屈させてしまうことが多い。


 かくいう私も、文章を書けば書くほど最初の主張から話の流れがズレることも多いし、小説において不必要かつ無駄な描写もかなり多いことだろう。それは明確な反省点だ。


 その点、『名作文学』はたとえ難しい(と感じる)単語を使用していても、意味さえ理解できればとてもわかりやすい表現であることが大半だ。聞き慣れない言い回しでもわかりやすく感じる工夫もまた、『文章のうまさ』における一要素だろう。


 それはさておき、『読みやすさ』という主観的感覚は、『読み手』という不特定多数の人々の人数分だけ存在すると考えられる。


 そして、『特定層(なろう)でより多くの読者を集める』ことだけに注力して『読みやすさ』を追求すれば、自然と『なろう』に多い(と思われる)『普段から本を読まないような層』にあわせた文章の取捨選択(デフォルメ)が必要になる。


 結果、書籍化して一般にさらされた『なろう系』は、声が大きい情報発信者にとって『読みやすさ=幼稚さ(てぬき)無個性(テンプレ)』などと変換されて広まってしまった部分がありそうだ。


 とすると『なろう』から書籍化を目指す場合、『なろう』での『読みやすさ』を備えている上に『一般』でも批判されにくい『読みやすさ』を確保する方が、作者へのダメージは少ないのかもしれない。


 まあ、『なろう』の中には『炎上商法』で広まり『悪名は無名に勝る』を地でいく作品もあるため、一概に『優等生的な姿勢』がウケるとも限らないのだが。


 個人的には、考えれば考えるほどドツボにはまる感覚になるので、いい感じのところで思考停止した方がちょうどいいのかもしれない。


 今回の話を総括すれば、『作者の泣き言』ですね。


 自分の小説を『万人に読ませよう』と思えば上記の理論も成立しそうですが、結局は作者の側がジャンルや形式などで『読者層を明確に想定』すれば『読みやすい文章』の調節は可能なわけですし。


 要するに、『読者へ対する徹底的な気遣いが足りない!』って話ですよ。単純に小説を『読ませたい』なら、作者が読ませたいと思う『読み手』に『読ませる努力』を積み重ねればいいのですから。


 まあ、私のように不器用な人間だと、『読ませる努力』と『面白くする努力』が両立しにくい(どちらかを優先させれば、一方がおろそかになる)こともあり、こうして『泣き言』をはくんですけどね。


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