218回目 2019/10/19
死蔵中の在庫ラノベを消化する内、思い知らされることを書きます。
やはり、展開の早さはどのラノベでも共通している特徴であり、私がもっともできていない部分だと自覚させられてため息がでる。
私が約十年前まで集めていたのはほぼマイナーラノベと言ってもいいが、それらを処分するためにも読み返していると、『なろう』に限らず展開の早さはほぼ共通しているように思えた。
若い頃は特に意識して読んでいなかったが、長く書き手としての活動をしていると、どうもラノベの構造的な部分にも注目するようになり、無自覚に見方が変わってきているような気もする。
不意打ちで老いた事実に直面したことはさておき、ラノベの展開の早さは『漫画』に近い印象を受けた。昨今の『なろう』コミカライズにも通ずるかもしれないが、とにかくおっさんにはついて行きづらいほど『事件』も『変化』も『解決』も早く感じる。
登場人物がラノベの主流購買層を意識した十代~二十代前半が多いからか、どうも『思考』にあたる『地の文』がかなり短いところがそう思わせる理由かも知れない。
小説を書いたことがある人なら多少わかるだろうが、『地の文』はシーンの状況説明やファンタジー系だと作中設定の説明・補完にも用いられる。
ただ、一人称小説における『地の文』だと主観キャラの心理・思考領域を描写していることに等しく、年齢が若いほど思慮が浅くなるのは避けられない部分だろう。
『経験』によって得られる『検証材料』が少ないからだ。個人差はあっても、人は長く生きるほど多くの情報にふれる機会があり、ため込める量も増える。そうして得られる『知識』も『経験』も相対的に少ない若者は、短絡な考えで行動を起こすことも多い。
それが時に無謀に、時に勇敢に映るからこそ、一定以上の年齢を経て青年から脱した大人たちは若者に憧憬を抱くのかもしれない。
知れば知るほど取れる選択肢が増えて迷うものだし、ついでに年齢を重ねるほど自身や周囲に負わせる責任が増えるものだから、行動を起こすことがとても億劫になってしまう。私は大した責任など負ってはいないが、それでも小説で文章を起こす速度は格段に遅くなった。
そして、考えられる範囲が広がると、その分だけ視野が広まり受け取る情報量も『表現したくなる情報量』も増えてしまう。小説における経験に置き換えると、自然に推察・余韻を生じさせる『空白』を減らしてしまい、『地の文』がどんどん重くなった。
そのため、せめて読みやすさくらいは確保しようと思って表現へのチェックが厳しくなり、余計に文章の確定まで時間がかかってしまい、労力が増えていくのだ。
私の性格的な問題もあるのだろうが、とんと『適当に文章を書く』ことが難しくなってきた。好き勝手やってるつもりでも、その実は配慮・配慮・配慮の連続でしかない。
他人に読んでもらうため、楽しんでもらうためには、過剰なほど神経質になるくらいでようやくちょうどよくなる。時代のニーズにばっちりあわせられる文章を残せるだけの運や才能がないのだから、凡才の書き手なりに努力するしかない。
後は……モニターとキーボードに向かう体力が減ったのもあるか。同じ姿勢でずっといるのがつらくなるのだ。お腹もぽっこり出てきたし、年は取りたくないものだ。運動嫌いだし。
そろそろ何の話をしていたかわからなくなってくる頃だが、要するに『どうやったらスピーディーに物語を進められるのかわっかんねぇ!!』ということだ。
単に描写を削ればいい、という話でもありませんからね~。一人称小説で必要な情報開示を最低限の量で行うと、ともすれば三人称小説のような無機質さが出てしまいかねませんし。
かといって、【普通】のようにだらだら思考にふけるのもテンポが最悪になりますし。主人公がいろいろ『地の文』で考えすぎ、というのが原因かも知れませんが、あれが個性でもあり能力の根幹でもあるため改められないんですよ……。
ただ、すでに私の小説に集まってきてくださる方って、『さらっと読めるもの』より『がっつり読めるもの』を求めている層で固定されつつあるかもなので、無理に変える必要もない――と思っておきます。
欲を言えば、ラノベらしいテンポが速くてさらっと読める物も書きたいんですけどね。ままならんものです。




