21回目 2019/4/5
内容のテーマに一貫性がなくなってきたが、それでもいい。
私は基本的に自信がない。
おそれ多くも、私の活動報告を読んでくださった方がいらっしゃれば、その直接的な言葉ないし文章の雰囲気から片鱗を感じ取っていただけるだろう。
私は自分のことを過小評価したがる。
自覚があるほど、自己肯定感がかなり低い。
実際、自分が出来ることはたいていの人間ができることで、日本や世界の平均にすら達していない人間だという評価を『本気で』自分に突きつけてしまえる。
謙遜もなしに、事実として言えてしまえるのだ。
私という人間の精神的支柱は、とてももろい。
ありがたいことに、私の連載作品には読者様からたくさんの感想をいただいている。
さらにあからさまな『荒らし』と呼ばれるような、悪意にあふれた文章をもらったことは(少なくとも私の感じる範囲で)一度もない。身に余る光栄だ。
好意的な意見とともに、面白いと思ってくださる方が確かにいる。
それでも、私は自分に価値を置くことが出来ない。
性分、と一言ですませてしまえば楽だったのかもしれないが、私はどうやら客観的評価からしても真面目らしい。
なぜ、素直な賞賛すら認めてやれないのか?
作品に好意的な意見をくださった方に対して、失礼だとは思わないのか?
どうして私という人間は、そういつも卑屈になってしまうのか?
だから私は……ダメな人間だ。
最後はいつも、このような結論にいたってしまう。
思えば幼少期から、成功体験よりも失敗体験の方がより記憶や感情に強く食い込んでいたように思える。
私の中にある一番古い記憶も、保育園児の時に鉄棒で遊んでいたときに近くで帽子(たしか赤白のウ○トラマン風な帽子)を投げて遊んでいる同級生の仲間と勘違いされ、冤罪で説教されたことだ。
今でも覚えているのは、なぜ無実の自分が怒られなくてはならないのかという悲しさと、なぜはっきり自分の主張を言えなかったのかという情けなさだけ。
というのも、当時の私は保育士に何かを言われていた。
おそらく、帽子を投げて遊んでいた子供と同じ遊びをしていたのか? という主旨の問いかけだったのだろう。
だが私はうまく聞き取れずに、保育士の無表情から見えた剣幕におびえ、思考を停止してただ頷いてしまったのだ。
それが私という人間の本質を如実に表しているのだと、今でも思っている。
怖い思いをすれば思考が停止し、怖い思いをしたくないが為に新しいことをすることを恐れる。
弱くて、臆病で、ダメな人間。
そう、自分で思いこんで刷り込んでしまっている。
そんな自分が嫌だと思うと同時に、そんな自分だからこそ書ける作品があるとも思う。
否定したいけど、全否定はしたくない。
とても嫌で切り離したくなるような人間性であるはずなのに、どこかで愛おしく思える自分がいる。
今すぐには無理でも、私は私を許してやりたい。
認めてやりたい。
肯定してやりたい。
お前は、本当は案外、出来る奴なんだと、『本気で』言ってやりたい。
私は私というダメ人間を嫌うと同時に、大切にしたいと思っている。
なぜなら、私が世界で一番大切に愛してあげなければならない人だから。
書いて、少しだけ体裁を整えて、投稿することが目的だから。




